が、興味を持てたのもそこまでだった。あとは延々とつづくいつもの口上に過ぎず、脳天へ振り下ろされる剣の柄の脅威も去ったこともあって、一馬はさっそくうつらうつらしはじめた。
と、次の瞬間、一馬は氷水を浴びせかけられたような気分になって、はっと顔を上げた。
眠ってない、眠ってないよ、という顔をして辺りを見渡す。
──あれ……?
あるべき姿がそこになかった。一馬は無意識のうちにある人物の姿を捜そうとしたが、
おお……。
声なきどよめきが炎の列を乱す。
またも聖堂内に新たな人物が現れていた。五人のその集団はいずれも赤々とした衣を着ており、長い裾で床を掃いながら歩いていた。一見、若いのかそうでないのか、男なのか女なのかさえも見わけがつかない。それもそのはず、五人の外法士の顔は、そろって鉄や木の仮面で覆われていたのだった。
通り道の左右に控える人々は身じろぎひとつしない。声ひとつ立てるでもない。それでも雰囲気がいちじるしく変わったのには一馬も気づいた。いつものことだ。
と、先頭を歩く外法士の髪が艶々と黒いのに一馬は驚いた。去年の先頭は白髪だったはずだが、と思っていたら、
「菊理媛。こちらへ」
外法士のうち四人が足を止め、剣三に呼ばれた先頭の外法士だけが祭壇のほうへと歩みを進めていく。無意識のうちにか、蔓の母親が怯えたふうにあとずさった。
やはり代替わりしたらしい。菊理媛とは、外法を司る彼らの代表者のことだ。いわば死界である黄泉と、現世とをつなぐ巫女の棟梁のような存在──だったはず。幼い頃、剣三にそう教えこまれた記憶があった。
祭壇の前で正巳に並んだ外法士が、ふわりと袖をなびかせて両手を挙げる。瞬間、寒々とした聖堂内が、さらなる冷気に満たされていくかのように思えた。
「これより、そなたの身に黄泉の〝気〟を降ろす。すでに教えられているかとは思うが、現世にあらざる黄泉の〝気〟──すなわち〝歪み〟は、並の人間には数秒と耐えきれぬ。世界を構築する、ありとあらゆる定義の異なる黄泉では、人間は己の存在すら維持できなくなるからだ。その中にあって、見事、霊力をもって、人としての、蔓正巳としての形を保ち、高らかにその名を名乗るがいい。それこそが晴れて結界の民として成人を迎える何よりの証。──覚悟はよいな? 蔓正巳」
まだ若いと思われるその外法士の声は意図してか、いくぶんしわがれて聞こえた。
「よいな?」
もう一度外法士が問う。ここで応じなければ儀式ははじまらない。
冷たい沈黙が落ちた。蔓正巳は遠目で見てわかるほどに震えている。声が出ない。
さらに数秒。
母親が服の袖を引っ張った。正巳はまだ動かない。足組みの前に立つ壬琴が、ちら、と気遣わしげな視線を上げた。
人々が顔を見合わせはじめる──、
「ひっくしょい!」
すっとんきょうな声が突き抜け、びくりと人々の肩を波打たせた。
ずるずると鼻を啜り、「あー」とおっさん臭くくしゃみの余韻に浸っていた一馬は、全員がこちらを見ているのに気づくと、照れ隠しにちょっと笑ってから、悪い、悪い、というふうに頭を下げた。
侮蔑、嘲笑、怒り──前へと向き直った人々が置き土産に残していった表情たち。正巳の母親などは晴れの舞台を汚されたと思ってか、顔中を真っ赤に染めている。
こちらを呆然と振り向いていた正巳に、一馬はもう一度ウィンクを送った。
しばしの間を置いてから、
「もう一度問う。覚悟はよいな?」
「はい」
今度はこっくりと頷いた。美亜が後ろから一馬を肘で突ついたが、あえて彼は振り向かなかった。
あとは、上手くやるさ。
みんなそうだったんだから。おれ以外のみんなは。
外法士が高々と挙げた手を胸の位置へと降ろし、複雑な形に指を組み合わせはじめる。
菊理媛の唱える呪文が、天井の高い洞窟内を無気味な風となって吹き渡った。
すうっと目の前が暗くなり、特に正巳の周囲には色濃い闇が伸しかかっていく。まるでどす黒い霧のようなそれこそ、黄泉の〝気〟──〝歪み〟なのだ。
とうとう正巳の姿が見えなくなった。母親が落ち着かなさげにはらはらと手を揉み絞っている。
あとはこれももう時間の勝負だ。一馬は服の襟元からちらっと時計を出して見やった。午前二時。去年のあの女の子は三分ほどだったが、別の男の子は一〇分かかった。普通の〝歪み〟よりかなり小規模の〝気〟を凝縮させたあの異空間の中では、成人を迎えた結界の民ならばおそらく一時間以上は耐えられるはずだ。
ため息をつく。五月とはいえ、やはり簡素な着物一枚では洞窟内は肌寒い。本物のくしゃみを堪えるのにもひと苦労だ。
しばし待っている間、一馬はまたもうつらうつらしてきた。ここで居眠りをするのはさすがにまずい。失敗の前例がないとはいえ、蔓正巳は生死を賭けた儀式に挑んでいるのだ。何か楽しいことを考えよう、と彼は考えた。眠気が吹き飛ぶほど、とても楽しいことを。
一馬は目を閉じた。白い曲線を思い描く。
暗闇の中、優しく、なだらかなカーブを描くその線はやがて、ほの白い裸身となる。
それが、みづきの姿となるまで実に〇・五秒弱。これぞ孤軍奮闘の成果。単独首位、世界新記録、金メダル間違いなし。
和風の面立ちをしたみづきが、切れ長の目にねっとりとした憂いを秘めて一馬に近寄ってくる。
その背後、ふたたび闇に泳いだ光が、今度は壬琴のボディーラインを描き出す。みづきのそれと異なり、長身で、スポーティーなそれはそれで一馬の大好物だ。
しっとりしたみづきの黒髪が顔に触れ、たくましく引きしまった壬琴の裸身が目の前に立つ。
──ううーん。ちゅっ。
タコみたいに唇を突き出したとき、ふわりと舞い降りた新たな光が、後ろから柔らかく抱きすくめてくれた。
おお、一対三の変則マッチ! にやけ面で振り向いた一馬は意外な人物を見て目を剝いた。
何と、背後から彼の肩にしなだれかかってくるのは、あろうことか浅生美亜だった。
いかん。さすがにあわてて一馬は振りほどこうとする。たとえ妄想でも──いや、妄想だからこそ──実の妹を丸裸にするとは何事だ。
学園では『ど変態』と呼ばれる一馬だ。『覗き魔』と言われたこともある。
『能無し』、『名門学園の面汚し』、『あいつに貸したエロ本は必ず数ページなくなっている、気をつけろ』『馬並み』──それら学園の汚名をほしいままにしてきた一馬とはいえ(最後のはともかく)、血縁者に淫らな妄想を思い抱くなどとは言語道断。ど変態と言われようが何だろうが、男には守るべき矜持というものがある。これは戦いだ。男として、いいや人としての意義を問う聖戦なのだ。負けるな、おれ。負けるな、戦え。負けるな。負け……うわああああ。
あれこれ考えているうち、美亜は発育途中の胸を押しつけてきた。
妄想なら……ちょっとはいいかな? と、早くも敗北宣言。男として、いいや人として。
地上で最強の野獣と化した彼が、三つの白い裸身を思いっきり両腕で抱きすくめようとしたそのとき。
一馬はずきりとした痛みを脳の一部に感じた。
何かが違う。
何かが異なる。
美亜が登場している時点でいつもの妄想とは異なるのだが、そういう意味ではない。彼が『違う』と感じたのは、自分の頭の中だけではなく、世界そのものに対してもだった。
まるで知らぬ間に世界がごっそり取り替えられてしまったかのような、そして、ひとりだけ置き去りにされてしまったかのような、異様な感覚。
ぐにゃりと視界が蠢いた。
いまや三つの裸身を形成していた光の波は搔き消え、波打つのは幾重にも墨を重ねたかのような闇ばかり。みづきも、壬琴も、美亜も、別のモノへとなりつつあった。
一馬はうろたえた。ここは妄想だ。自分の心の中なのに自由にならない。そうしている間にも闇は黒々とうねり、裸身同士を重ね合わせてまったく別の生命体へと変化していく。
がはあ。
とそれは唸った。まさしく、それは鬼だった。かつて、教えこまれたとおりに。
鬼は巨大な口を開けたまま、凄まじい勢いで顔を振り落としてきた。
喰らわれる!
「うわああああーっ!」
一馬の絶叫が、聖堂内にこだました!