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庭を掃いていた剣三は、驚いた目でいち早く帰宅してきた孫を迎えた。
「何と。一馬、おまえが先頭か! 壬琴相手に?」
「はっはっは」と、一馬は両手を腰に当てて大いばりだ。「毎朝の鍛錬は伊達じゃないって。まあ、壬琴もやるほうだったけどさ、はじめてのコースだったんで、ちょっと慣れない部分もあったかなあ。うん、悪くない素質してるとは思うけどね、坂道での腰の立ち上げ方に問題が……」
作務衣姿の剣三は感心したように一馬のうんちくを耳にしていたが、普段は鷹のように険しい目つきをにわかに潤ませた。
「そうか。……そうか。あの一馬がなあ。息子夫婦を亡くし、わしがこの老骨に鞭打って育て上げねばならぬと決心したあの日より、すでに一五年。思えば、幼き二人にとっては厳しすぎることもあったろう。肉親としての情より、跡取りとしての成長を優先させねばならぬ我が一族の掟ゆえに。ああ、無情の鬼と化したこの剣三を、幼き兄妹が恨んだとて、誰に責められようや? が、たとえ可愛い孫に憎まれようと、おまえらを思えばこそ、わしはこの修羅の道をおまえらに強いることしかできなんだ。それなのに、ああそれなのに」
一馬はそろそろと足音を殺して歩いていった。学園で孫が行った不祥事の数々、学園でもらった汚名の数々を並べ立てて、「ああ、わしの修羅の道は間違っていたのか、これでは亡き息子たちに会わせる顔がないと、幾度枕を涙で濡らしたことであろう」という件までを耳にする。
いつもどおりならあと三分はこれがつづく。
長い髪に白い顎鬚。見た目、どこぞの道場で「先生」とでも呼ばれていそうな、今年で七〇を迎える祖父は、ここ最近、やたらと涙もろくなってしまった。神経痛のために、こうした一馬たちの早朝訓練につき合えなくなったのも原因のひとつだろう。鉛入りの木刀で一〇〇〇回の素振りをするのを日課にしていたような、そんな昔ながらの体育会系の男だから、身体を動かせないでいるとやたらと弱気になってしまうのだ。
ランニングを払いながら一馬は玄関から中へ入った。落ち葉や砂は、人さまの家の庭を横切る際、地面を這って柵の穴を通り抜けたときについたものだ。そんな思いまでして一番に帰宅して何をするかと思えば、彼が最初に向かったのはキッチンだ。
いつものように朝食の準備をしはじめ、
「あ」
と思い直したように、冷蔵庫から材料を追加する。今朝はいつもより二人ぶん多いのだ。
さらにはお昼の弁当もこしらえねばならない。一日ほとんど家にいる祖父のぶんも合わせてこちらは三人ぶん。今年高等部に進級した一馬は、本当なら学園の食堂にいきたいのだが、妹の美亜がそれを許さない。妹が許そうが許すまいが、普通なら構うことはないはずだが、浅生家ではそうではない。これも妹のリクエストどおりにウィンナーをタコさんにしていると、
「おいっ!」
いきなり怒声が脳天に落ちた。
「あ、壬琴。おはよう」
「おはよう、じゃない。汚い真似しやがって」
居間に入ってきたのは、クラスメートの群雲壬琴だった。無論、この家の住人ではない。夕べ、儀式でこの家に寄ったため、どうせなら、と、妹の美亜に誘われて泊まっていたのだ。
日焼けした肌、健康的で伸びやかな肢体。短めのポニーテールにし、額へ数本前髪を垂らした髪型に、男じみた性格と言葉遣い。男よりむしろ女生徒に人気があるのも頷ける感じだ。
そんな彼女が肩を怒らせて詰め寄ってきた。タンクトップ姿の女性に近寄ってこられるのはむしろ、いやかなり嬉しかったりもする一馬なのだが、バレーボールの選手みたいに背が高くて体格のいい壬琴相手では迫力負けしてしまう。
「あたしがおまえに負けるはずないだろ。最初、スタートダッシュが凄いからビックリしてたんだ。あたしを巻いたあと、抜け道か何か、あたしの知らない近道を通ったんだな? どうせいつもサボってるから、じいさんに告げ口されないよう……」
「たっだいまー」
一馬がたじたじになっていたとき、美亜とみづきが帰ってきた。
草薙みづきも、美亜に誘われてこの家に泊まり、ついでに早朝トレーニングにつき合った口だ。美亜はタンクトップに短パン姿だが、みづきは学園指定の真っ赤なジャージを着用している。大人びて、日本人形みたいに整った顔つきをしているだけにギャップがこの上もなく凄い。根が真面目──というよりも、そもそも、他の格好をして走る、という発想そのものがないのだろう。
「どうかしたのですか?」
「どうもこうもみづき姐、わかるでしょ。中等部ではマラソン大会三年連続最下位の一馬が、あたしより先に……」
「あたし、お腹空いた! みづき姐も、壬琴姐も、ご飯にしようよ。うちで食べるのなんて久しぶりでしょ?」
「わ、オイ、美亜、押すなって……」
壬琴の言葉をタイミングよく遮り、美亜が二人の背中を押して食卓につかせようとした。さしもの壬琴も美亜のペースにはどこか逆らえない。と、二人をテーブルにつかせている間、美亜は兄のほうを見てにっと白い歯を見せた。
首の後ろに寒気が走る。ひとつ、また貸しが増えた──という意味だ。あとどれくらい妹に『奉仕』すれば、その貸しとやらが消える日が来るのか、一馬はもはや数える気にもなれないでいた。
おそらく、生まれたときからそうだったに違いない。お父さんのおたまじゃくしの頃(深く考えないように)、きっと、本当なら美亜が先行するはずだったのだ。が、「おまえを兄貴にしといてやるからひとつ貸しだよ」と順番を譲ったのだろう。気のいい、素直な自分は「やっほー!」とそれに乗っかってしまい、結果、いまのお嬢さまと使用人のような関係が成り立ってしまったのではあるまいか。
何やら膝を抱えて泣きたくなったが、とりあえず他の家の人がいる手前、ぐすんと鼻を啜るに留めて、彼も食卓についた。
剣三も居間に入ってきて、平和な朝食がはじまる。一馬だけが、会話の端々に地雷をひそめていそうな美亜の一挙手一投足に注意しつつ。
「へえ、これ一馬が作ったのか。そういや、中等部から家庭科だけは得意だったっけ。料理自慢の女子で、ほら、佐織って子だったっけ。おまえに負けて泣いてたよな」
「別の意味でも泣かせたよね」とさっそく美亜。「放課後ごとにラブレター送ってたら、そのうち、悪質なストーカーと勘違いされて」
「あれは、おまえがこっそり卑猥な文章をつけ加えてたからだろうが!」
「知らなーい」
納豆に醬油を垂らしながら素知らぬ顔をする美亜。うぬぬ、と一馬は歯を喰いしばった。大体、どこの中学生が、ラブレターに『ぼくの、雄々しく猛り狂ったたくましいモノをきみに見せてあげたい(笑)』などと書くものか。大方、剣三が書斎に隠し持っている秘蔵コレクション『黒い背表紙シリーズ』の中の一冊から、適当に選んだ一文を書き写したに違いない。
と、
「女性を泣かせる、という意味ではいまもまったく同じです、一馬さん」
びくっと一馬は箸を落としそうになった。みづきが手にしていた茶碗をことりと置く。
「高等部に入ってきたからには、いままでのような狼藉を笑って見過ごすわけにもいきません。今日は高等部一年生の身体測定がありますが、もしもまたよからぬことが起きた場合は……覚悟しておきなさい」
場の空気が凍った。
第一、「笑って見過ごす」も何も、一馬は中等部時代、水泳部の女子更衣室にカメラを仕掛けた疑いをかけられて、凄まじい尋問にあった思い出がある。彼の指紋と、カメラを買った店の店主からの証言という動かぬ証拠を突きつけるみづきに対し、それでも知らぬ存ぜぬを通す一馬も一馬だが、あくまでも彼に罪を認めさせようと、三日連続一馬を生徒会室へ呼びつけて、放課後から校門の閉まる夜七時まで延々と質問責めにしつづけるみづきもみづきだ。
そういうこともあって、いかに人を煙に巻くのが得意な一馬でも、みづき相手となるとどこか歯切れが悪くなる。
「い、いやだなあ。おれだって大人になったんだから」