殿様気分でHAPPY!

二章「結界の民」 ①

1──

ゆがみ〟が頭上からきばいておそいかかってくる。伸びてくる手足は鬼のそれだった。


「逃げてはならぬ!」


 ろうの声がやみを貫いた。仮面をかぶった赤い衣の女性──菊理くくりひめだ。


「〝歪み〟から逃れることはできぬ。自らの意思でいどみ、おのれの〝定義〟を保つことのみがその中で生き延びるゆいいつの方法だ。あそかず! 見事、その中においても高らかに名乗りをあげてみせよ!」


 しきに挑む前もさんざんそう聞かされていた。そんなにむずかしいことじゃないんだ、とだれしもがせんぱいづらをしてそう言った。特におまえはの家の次期当主なのだから、さしてしきせずとも大丈夫だ。その血筋の中に眠れる本能の力が〝歪み〟を退けてくれるだろう、と。

 うそっぱちだった。

ゆがみ〟の中、かずにはどうすることもできなかった。〝歪み〟が突き立てるきばは彼の身体からだをばらばらにし、おぞましい舌が彼の脳すすり取ってしきさえも四散させた。何も考えることさえできないのに、どうやって自分の意思でいどみかかることなどできるだろう?


「一馬!」


 するどい叫びが〝歪み〟を割った。気づいたときにはたくましい腕に抱かれていた。苦痛そのものは遠のいていたが、代わりに指一本も自由になりそうもない疲労感が彼をむしばんでいた。


あそ。早すぎる!」


 しきを見守っていただれかがそう言った。あたりはそうぜんとしていた。


「もう少し見守れなんだか。これでは一馬の儀式をつづけられぬ」

だ」まごをその手に抱いたけんぞうは言った。「一馬からは何の霊力イイロも感じ取れなかった。あのまま数秒でも放置していたら、彼は〝歪み〟にまれておったろう──」

鹿な!」

「こんなことは例にないぞ! 結界のたみが儀式に失敗するなどと!」

「それも次期当主ではないか。剣三、孫可愛かわいさのあまり、民としてのきようを失ったか。おまえのせいで、一馬は──いやさ、浅生家はめいめいを着つづけることになろうぞ!」


 ざわめきつづける聖堂内。その後、祖父は何も言わなかったようにおくしている。ただ、一馬を見つめていた。そして一馬は……。


「ふぅっ」


 ばしゃっ、と湯をねのけて、一馬は浮上した。

 浅いぶねにもぐって息を止めること数秒。いやな記憶を振り払おうとしたのだがどうやら逆効果だったようだ。ゆっくりと、自分の身体の感触を確かめるように湯から出した腕をもう片方の手でで上げる。大丈夫だ。手足はちゃんとついている。

 二度にわたって味わい、そして忘れかけていたあの苦しみ。今日ふたたび、〝歪み〟は彼の前に現れた。

 鬼とともに現れるあの〝歪み〟は、黄泉よみの世界そのものだという。そして一馬たちは、この世と黄泉との境目である結界を死守する一族。もしも結界にほころびが生まれ、そのすきいて黄泉がこちらの世界へ侵入した場合、それと命をして戦わねばならない。

 だからこそ、一族の成人の儀はあえて自ら〝歪み〟へ挑みかかることによって行われる。すなわち、この世のものと違う法則性に満ちた〝歪み〟内において、人間としての自らを保つことができるか、一族としての力が備わっているかどうかを試すことによって。

 これはもう、一族が長いことかけて行ってきた儀式であり、その長い長い歴史においてさえ成功率が一〇〇パーセントだったこともあって、努力とか素質とかはほとんど無関係だと思われてきた。結界の民としての血筋さえ確かならば、外法士が儀式の際に呼び出す小規模の〝歪み〟などにまれることなどあり得ない、と。

 そのゆいいつの例外がかずだった。彼は二度ともしきに失敗したのである。

 一馬は無論、あちこちでいじめられた。同年代の子供たちこそそうしたきゆうかくにはびんかんで、自分たちと違う『能無し』をあざけざんぎやく性はむしろ大人おとなよりも強かった。


「そういや、しんちゃんはやさしかったっけか……」


 まだ顔を洗いつつ、一馬はにっと笑う。おもだった盟主家のメンバーが集まる祭儀の際、子供たちもいっしょに集まるのでそのよく泣かされたりもしたが、家の長男はあのときからリーダーとしての素質をはつしていて、虐められている一馬をよく助けた。

 みづきはあのときからみづきだった。何事にも無関心で、一馬にもていねいあいさつしたが、それ以上にかかわることはなかった。ことは虐める側に回ることもあれば、助けに回ることもあった。要するに気まぐれで、一馬を追いかけ回すのが楽しいときもあるし、かと思えば、ほかの男の子に虐められている一馬を見たときなど、それを助けるヒロインの役目をおもしろがるときもあったのだ。

 は、まあ、これもある意味で昔から美亜だった。どこへいっても、すぐにじよさいなく周囲に溶けこんで、必要とあれば兄の存在を無視したし、また、自分を引き立てる場面だと察知すれば「お兄ちゃんを虐めないで!」と必殺のうるうるこうせんを振りまいた。昔から何かにつけて兄の弱みを握るのが得意で、0点の答案をかくしてもすぐに見つけたり(いまどきそんなお約束をする一馬も一馬だ)、同じクラスのだれそれさんが好きでしょー、とすぐに見破って、その秘密と引きえに兄にいうこと聞かせたり──いろんな意味で、いまと変わらない。

 一馬が二度目の儀式を失敗すると、周囲の反応はさらに悪くなった。だれもがまるでその場に彼がいないかのように振るいはじめ、また、あそ家そのものへ注意を払うことさえめいのように思っているふしさえあった。

 だからこそ、二年前、美亜が無事に成人の儀を終えたときには、実は誰よりも一馬自身が一番ほっとした。

 一馬はから上がり、タオルで全身をぬぐった。

 結界のたみ

 

 ──鬼。

 教えこまれてきてはいても、がいねんでしか理解できなかった黄泉よみの世界とそのきようが、一気に現実と化してしかかってきた今日、一族の対応もあわただしかったようだ。

 学校では一馬に対してのそれよりげんじゆうけいかい態勢がかれ、クラブ活動のために残っていた生徒たちも大半が帰される一方、民の中でも迦具羅の生徒たちは学校のぼうえいに回された。

 みづきと八咫は生徒会員として、同じく結界の民である教師たちの判断をあおぎつつこれらを取り仕切った。壬琴も遅くまで学校に残っていたようだし、美亜もさっき帰宅するまではちようかく室の事件についてあれこれ教師に質問を受けていたらしい。

 かずにとってはまるで別世界の話だった。一応は当事者のはずだが、彼はちょっとした事情聴取のあとはすぐに帰宅が認められたのだ。


「……いくら一族だからって、いまどき『鬼と戦う』ってのもさ」


 かがみの前で短めの髪にくしを通しつつ、一馬はひとりごちる。一馬の一族に対するしきは幼いころに受けた教育の域を出ていないから、昔話ならともかく、ここ数年内に果たして鬼との実戦があったのかどうかさえも知らない。うーん、とうなっていると、


「どいてっ」


 いきなり後ろから突き飛ばされた。脱衣場を勢いよく転がった一馬は、タンスの角に頭をぶつけてしまった。

 だ。すでに白い着物に着替えているが、あい色の腰布は半ばまでしかめられていない。彼女もまた、鏡の前であれこれ角度を変えて自分の姿を見つめはじめた。


「死ぬぞ! 死んじゃうだろ!」涙目で一馬は訴えた。「それに、あっちに母さんの使ってたきようだいあるだろが。そっち使え!」

鹿。兄貴ってばほんっと馬鹿」美亜は突き飛ばした兄のほうは見ようともせず、「色々な鏡で見たいの! あっちとは明るさが違うから色合いも違って見えるでしょ。まあ、ねんれいがそのまま彼女いない歴の兄貴に女心を理解しろったって、無茶むちやな話だけど。どうていに女論を語らせろ、ってくらい無茶な話だよね」

「……例えになってねー。まんまじゃねえか……ぶっ!」


 妹に近づきかけた一馬は大量のおつゆを口から吐き出した。「きったねーなー」と振り返った美亜は、しかし一馬の知っている美亜ではなかった。


「な、なな、何だ、おまえ、その顔は!?」


 風さえ巻き起こす勢いで後ろへ飛び退いた兄へ、美亜はにたりと笑ってみせた。