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〝歪み〟が頭上から牙を剝いて襲いかかってくる。伸びてくる手足は鬼のそれだった。
「逃げてはならぬ!」
老婆の声が闇を貫いた。仮面を被った赤い衣の女性──菊理媛だ。
「〝歪み〟から逃れることはできぬ。自らの意思で挑み、己の〝定義〟を保つことのみがその中で生き延びる唯一の方法だ。浅生一馬! 見事、その中においても高らかに名乗りをあげてみせよ!」
儀式に挑む前もさんざんそう聞かされていた。そんなに難しいことじゃないんだ、と誰しもが先輩面をしてそう言った。特におまえは迦具羅の家の次期当主なのだから、さして意識せずとも大丈夫だ。その血筋の中に眠れる本能の力が〝歪み〟を退けてくれるだろう、と。
噓っぱちだった。
〝歪み〟の中、一馬にはどうすることもできなかった。〝歪み〟が突き立てる牙は彼の身体をばらばらにし、おぞましい舌が彼の脳味噌を啜り取って意識さえも四散させた。何も考えることさえできないのに、どうやって自分の意思で挑みかかることなどできるだろう?
「一馬!」
鋭い叫びが〝歪み〟を割った。気づいたときにはたくましい腕に抱かれていた。苦痛そのものは遠のいていたが、代わりに指一本も自由になりそうもない疲労感が彼を蝕んでいた。
「浅生。早すぎる!」
儀式を見守っていた誰かがそう言った。辺りは騒然としていた。
「もう少し見守れなんだか。これでは一馬の儀式をつづけられぬ」
「駄目だ」孫をその手に抱いた剣三は言った。「一馬からは何の霊力も感じ取れなかった。あのまま数秒でも放置していたら、彼は〝歪み〟に吞まれておったろう──」
「馬鹿な!」
「こんなことは例にないぞ! 結界の民が儀式に失敗するなどと!」
「それも次期当主ではないか。剣三、孫可愛さのあまり、民としての矜持を失ったか。おまえのせいで、一馬は──いやさ、浅生家は不名誉な汚名を着つづけることになろうぞ!」
ざわめきつづける聖堂内。その後、祖父は何も言わなかったように記憶している。ただ、一馬を見つめていた。そして一馬は……。
「ふぅっ」
ばしゃっ、と湯を跳ねのけて、一馬は浮上した。
浅い湯船にもぐって息を止めること数秒。嫌な記憶を振り払おうとしたのだがどうやら逆効果だったようだ。ゆっくりと、自分の身体の感触を確かめるように湯から出した腕をもう片方の手で撫で上げる。大丈夫だ。手足はちゃんとついている。
二度にわたって味わい、そして忘れかけていたあの苦しみ。今日ふたたび、〝歪み〟は彼の前に現れた。
鬼とともに現れるあの〝歪み〟は、黄泉の世界そのものだという。そして一馬たちは、この世と黄泉との境目である結界を死守する一族。もしも結界にほころびが生まれ、その隙を衝いて黄泉がこちらの世界へ侵入した場合、それと命を賭して戦わねばならない。
だからこそ、一族の成人の儀はあえて自ら〝歪み〟へ挑みかかることによって行われる。すなわち、この世のものと違う法則性に満ちた〝歪み〟内において、人間としての自らを保つことができるか、一族としての力が備わっているかどうかを試すことによって。
これはもう、一族が長いことかけて行ってきた儀式であり、その長い長い歴史においてさえ成功率が一〇〇パーセントだったこともあって、努力とか素質とかはほとんど無関係だと思われてきた。結界の民としての血筋さえ確かならば、外法士が儀式の際に呼び出す小規模の〝歪み〟などに吞まれることなどあり得ない、と。
その唯一の例外が一馬だった。彼は二度とも儀式に失敗したのである。
一馬は無論、あちこちで虐められた。同年代の子供たちこそそうした嗅覚には敏感で、自分たちと違う『能無し』を嘲る残虐性はむしろ大人よりも強かった。
「そういや、新ちゃんは優しかったっけか……」
まだ顔を洗いつつ、一馬はにっと笑う。主だった盟主家のメンバーが集まる祭儀の際、子供たちもいっしょに集まるのでその都度よく泣かされたりもしたが、八咫家の長男はあのときからリーダーとしての素質を発揮していて、虐められている一馬をよく助けた。
みづきはあのときからみづきだった。何事にも無関心で、一馬にも丁寧に挨拶したが、それ以上に関わることはなかった。壬琴は虐める側に回ることもあれば、助けに回ることもあった。要するに気まぐれで、一馬を追いかけ回すのが楽しいときもあるし、かと思えば、他の男の子に虐められている一馬を見たときなど、それを助けるヒロインの役目を面白がるときもあったのだ。
美亜は、まあ、これもある意味で昔から美亜だった。どこへいっても、すぐに如才なく周囲に溶けこんで、必要とあれば兄の存在を無視したし、また、自分を引き立てる場面だと察知すれば「お兄ちゃんを虐めないで!」と必殺のうるうる光線を振りまいた。昔から何かにつけて兄の弱みを握るのが得意で、0点の答案を隠してもすぐに見つけたり(いまどきそんなお約束をする一馬も一馬だ)、同じクラスの誰それさんが好きでしょー、とすぐに見破って、その秘密と引き換えに兄にいうこと聞かせたり──いろんな意味で、いまと変わらない。
一馬が二度目の儀式を失敗すると、周囲の反応はさらに悪くなった。誰もがまるでその場に彼がいないかのように振る舞いはじめ、また、浅生家そのものへ注意を払うことさえ不名誉のように思っている節さえあった。
だからこそ、二年前、美亜が無事に成人の儀を終えたときには、実は誰よりも一馬自身が一番ほっとした。
一馬は風呂から上がり、タオルで全身をがしがしと拭った。
結界の民。
迦具羅。
──鬼。
教えこまれてきてはいても、概念でしか理解できなかった黄泉の世界とその脅威が、一気に現実と化して伸しかかってきた今日、一族の対応もあわただしかったようだ。
学校では一馬に対してのそれより厳重な警戒態勢が敷かれ、クラブ活動のために残っていた生徒たちも大半が帰される一方、民の中でも迦具羅の生徒たちは学校の防衛に回された。
みづきと八咫は生徒会員として、同じく結界の民である教師たちの判断を仰ぎつつこれらを取り仕切った。壬琴も遅くまで学校に残っていたようだし、美亜もさっき帰宅するまでは視聴覚室の事件についてあれこれ教師に質問を受けていたらしい。
一馬にとってはまるで別世界の話だった。一応は当事者のはずだが、彼はちょっとした事情聴取のあとはすぐに帰宅が認められたのだ。
「……いくら一族だからって、いまどき『鬼と戦う』ってのもさ」
鏡の前で短めの髪に櫛を通しつつ、一馬はひとりごちる。一馬の一族に対する知識は幼い頃に受けた教育の域を出ていないから、昔話ならともかく、ここ数年内に果たして鬼との実戦があったのかどうかさえも知らない。うーん、と唸っていると、
「どいてっ」
いきなり後ろから突き飛ばされた。脱衣場を勢いよく転がった一馬は、タンスの角に頭をぶつけてしまった。
美亜だ。すでに白い着物に着替えているが、藍色の腰布は半ばまでしか締められていない。彼女もまた、鏡の前であれこれ角度を変えて自分の姿を見つめはじめた。
「死ぬぞ! 死んじゃうだろ!」涙目で一馬は訴えた。「それに、あっちに母さんの使ってた鏡台あるだろが。そっち使え!」
「馬鹿。兄貴ってばほんっと馬鹿」美亜は突き飛ばした兄のほうは見ようともせず、「色々な鏡で見たいの! あっちとは明るさが違うから色合いも違って見えるでしょ。まあ、年齢がそのまま彼女いない歴の兄貴に女心を理解しろったって、無茶な話だけど。童貞に女論を語らせろ、ってくらい無茶な話だよね」
「……例えになってねー。まんまじゃねえか……ぶっ!」
妹に近づきかけた一馬は大量のおつゆを口から吐き出した。「きったねーなー」と振り返った美亜は、しかし一馬の知っている美亜ではなかった。
「な、なな、何だ、おまえ、その顔は!?」
風さえ巻き起こす勢いで後ろへ飛び退いた兄へ、美亜はにたりと笑ってみせた。