天才失格 -堕ちた魔王、探偵となる-

プロローグ

 二〇四二年。人類は肉体の檻を破っていた。

 光り輝く夜の都会。立ち並ぶビル群が色とりどの光を飾り、星明りを退けている。

 鉄と光。摩天楼と舗装路。行き交う人々と自動車たち。人工物に満ち満ちたこの都市に吹く風は、この文明の息遣いであるかのよう。今は三月半ばだが、その風はどこか生暖かい。

 そんな、光さえ溶けていそうな風の中、とある高層ビルの屋上に一人の少女がいた。

 その少女は、キャスケット帽を被っていた。頭をすっぽり覆うその帽子からは、猫耳のような突起がピョコンと飛び出ている。帽子からはみ出たボブカットの髪は、淡い桃色をしており、夜風になびいている。その背には、やけに角ばったリュックがある。

 少女が空を見上げる。

 そこには、。ポップな装飾と企業のロゴマークが施されたそのピンクのクジラは、高層ビルのすぐ上空を悠々自適に泳いでいる。

 空中を彩るのはクジラだけではない。遠くのビルの上では、コミカルな雪だるまが踊っており、道路の上では、ニュースキャスターが映し出され、今日のニュースを報じている。

 これらのものに、実体はない。彼の帽子が脳に直接見せている非現実。拡張映像ARだ。


 今の時代、夜の街は空間すらも彩られる対象だ。

 そんな景色を眺める少女は、とあるビルの上に目を留める。そこには、ビルの縁に腰を下ろす一人の青年がいた。彼は、黒と赤を基調としたデザインの軍帽を被っており、何やら難しい顔をしている。彼もまた、少女同じように角ばったリュックを背負っている。

 俯いたままの青年は、この煌めく夜景の一切が目に入っていないようにじっとしている。

 そんな青年の姿を見据えた少女は、そっと微笑む。そして……、

 

 躊躇いなくビルから飛び降りた。

 

 彼女の体が、風を切り裂いて落下していく。急速に近づいてくる地面を見ても、少女に焦りはない。いや、それどころか彼女は笑みさえ崩していない。

 彼女の背中のリュックが微かな駆動音を上げ、変形を始めた。リュックの各所に次々亀裂が入り、その中から現れた緻密な機械部品が、ガシャガシャと動いて、新たな姿を成していく。

 そうして、僅か数秒も経たずして、猫耳帽子の少女の背には真っ白で大きな機械の翼が出来上がっていた。町明かりをこれでもかと返すその白き翼は、まるで天使のよう。

 すると、彼女の落下の勢いが収まり、ふわりと少女の体が浮き上がる。

 そのまま彼女は、風を切って摩天楼の間を飛んでいった。向かう先は青年の下だ。

 猫耳帽子の少女は眼下の景色に目を向ける。

 帽子。ハット。キャップ。サンバイザー。ヘルメット。ヘッドギア。フード。頭巾。

 街を行き交う人々は、様々な被り物を付けている。この時代では当たり前の光景だ。

 拡張映像に彩られた夜の都市に横切る少女の姿は、白い流星のよう。

 町の一瞬に刻まれたその光景は、この時代を象徴するような絵図であった。

 だが、少女はまだ知らない。

 二〇四二年。身体拡張技術HATによって、脳の潜在能力を引き出せるようになったこの時代。

 知能も知覚も肉体も、全てを後付けで高めることができるこの時代が、今、大きく変わろうとしていることを。

 

 ◆◆◆

 

 流星の如く過ぎ去った少女を、暗い路地から見上げる一つの影があった。

 それは、不思議な少女だった。三月半ばだというのに、麦藁帽子と手足の露出したサマードレスと、まるで浜辺に赴く令嬢のような恰好をしている。透き通るような白い長髪と相まって、少女はどこか浮世離れした雰囲気を纏っていた。

 そのとき、「ギャオッ」という耳障りな声とともに、暗がりから何かが飛び出して来た。

 少女に向かって飛び掛かって来たそれは、子供ほどのサイズの小鬼のような生き物だった。ゲームの敵キャラのような見た目といい、どう見ても普通の生き物ではなく、実体のない拡張映像…………のはずだった。

 麦藁帽子の少女が、フッと身を捻ると、小鬼のような化け物は、路地の壁に激突する。

 ガッ、と音を立てて拡張映像ARがぶつかっただけのはずなのに。

 少女は、斬るようにその腕を振るい、化け物を強かに打ち据える。

 その直撃を受けた化け物は、「ギッ」という悲鳴を上げて、光の破片となって消え去った。


「お見事」


 そんな声がしたかと思えば、路地の奥から、一人の男が歩いて来る。男は、チェック柄のディアストーカー帽と、ケープ付きのコートを羽織っている。創作の中の近代探偵のようだ。

 麦藁帽子の少女は、探偵風の男に目を向けると眉を顰める。


「最近、数が増えてますね。変な被害が出ないといいですけど……」

「そのために僕らがいる。地道に、人知れず、退治していくしかないさ。……それより、近くに大きな反応がある。かもしれない」


 ヤツ、と聞いた少女の表情が険しくなる。

 そうして、二つの影は足早に路地の闇の中へと紛れていったのであった。