アトリウムの恋人

2 東京スフィア ④

    *


 そして、月曜日。

 まえは窓ぎわの席でぼんやりと外をながめていた。梅雨の時期だが今年はあまり雨が降っていない以外は、いつもと変わらない朝の学校風景だった。

 クラスメイトと笑顔で会話する遙花はるかの姿が見える。彼女にも変化はない。もともと彼女は解決を望んでいなかったのだろう。心の底にまっていたものをただきだしたかった。

 前田は淡々と月曜日の授業を消化していった。二年七組のふんは明るかった。知らず知らずのうちに七組は遙花の気分の影響を受けているのかもしれない。遙花の感情はの巣のようなネットをかいして周囲のクラスメイトに伝染していくのだ。

 そして放課後、前田が帰宅の用意をしていると、横に遙花が立っていた。


「先に行っててね」

「何が?」

「サークルに決まってるじゃない。私はちゃんをさそってくるから」


 きょとんとする前田をよそに、遙花は当然のように言ってから教室を出ていった。


「放課後に遙花ちゃんと遊べていいよなー」


 前の席で座っていたあさがうらやましそうにこちらを見ている。


「なあ、どんな活動してるんだよ」

「うるせえな、お前は追試だろ。さっさと行ってこいよ」


 前田は「うぐう」と悲鳴を上げる浅尾を残して教室から出た。一年の教室に向かい、ゆきむらを拾ってから北校舎へと向かう。


「僕も、もう活動はないと油断してましたよ」


 雪村もそう思っていたようだ。


「なんのつもりなんだろうな。あれ以上話し合っても、解決しそうにないのに」


 前田と雪村は首をかしげながら部室へと急ぐ。部室の扉を開けると、すでに遙花と悠羽美の姿があった。


まゆさんは、今日は忙しいって」


 遙花はケトルでお茶を入れていた。いつの間にか部室ががらっと変わっていた。たなにはもとからあったクイズや雑学本がきちんと並べられほうこうざいも置かれている。ティーバッグやマグカップなどの用意もされていた。見たことのない紅茶がたくさん置いてある。


「土曜日に来て、ちょっとそうしたんだ」


 前田の視線に気づいた遙花が言った。


「なんで?」

「だって、これから活動してこの場所で過ごすことになるんだよ」


 な笑顔を浮かべる遙花はるかに、まえはうなずくしかなかった。これは男と女の空間処理の違いだった。いかに機能的に過ごすかと物を配置する男に対し、女は無駄な物を置きたがる。その空間で時間を使うことを重視するのだ。うちの姉の家を見てもそれがわかる。ピンクのフリフリで統一されたあの空間がいやで前田はガレージに逃げているのだ。

 とりあえずかばんを置いてこしを下ろした。ゆきむらは平然とお茶の用意を手伝っている。はちょこんとに座ってブロッククッキーをかじっていた。

 とりあえず前田はお茶を飲んでようを見ることにした。アップルティーをすすってひといきき、はっと机の上のクッキーに気づいた。陶器のうつわに入れられたそれは明らかに手作りだった。


「このクッキーうまいぞ。なあたかはしはこれ食えよ」


 前田は悠羽美がかじっていたカロリーメイトをうばって、強引に机の上のクッキーを渡した。いぶかしげにしていた悠羽美は、クッキーを一口かじったところでぴたりと動きを止め、「はわわ」とうめくような声をらした。


「そこまでまずくねえだろ」


 前田は小声で言い、遙花がお茶を飲んでいるうちに残りを雪村のかばんし込んだ。


「なあ、捨てたりしたら半殺しにするからな」


 前田は雪村に耳打ちした。


「当然ですよ。せっかくなんで全部僕が食べますよ」


 まだ遙花の手作りお菓子に接したことのない雪村はそう答えた。逆に遙花のクッキーを食べようとしない前田の態度に不満げだった。


「あ、食べてくれたの。どうだった?」

「おいしいよな、高橋」


 前田が言うと、はっと我に返った悠羽美がうなずいた。


「……音楽的、かな」

「やった、うれしい。あ、残りはもう食べちゃった?」

「あ、ごめん、全部食べちゃったよ」

「いいの、いいの。また作ってくるからね」


 遙花がうれしそうに笑う。そんな表情を見ると胸が温かくなった。


「あ、悠羽美ちゃん、もうおなかいっぱい?」

「うん、家に持って帰る」


 悠羽美は食べかけのクッキーをハンカチに包んでいた。


「じゃあ、始めようか。私、土日でちゃんと調べてきたの。古本屋さんで関連しよせきを買ってネットでもけんさくして」

「もしかして、スフィアについて?」

「うん。だって、そのサークルじゃない」


 遙花はるかの言葉に、三人はきょとんと顔を見合わせた。


「あの、どういった感じでやるんですか。まゆさんが言うにはサービスも終わったということでしたが」

「私ね、みんなにあのことを話したらすっきりしたの。でも、それで終わりじゃ勝手だし駄目だなって思った。だから、まずちゃんと知ることから始めようって。もしかしたら、私の知らないところで変なことが起こってる可能性もあるけど、でも、私はみんながいるから大丈夫」


 ああ、なんてれいな笑顔を作れるのだろうと思った。


「もしかしたら、スフィアワールドに入れる可能性もあるんだ。スポンサー企業のサービスが休止しただけで、ワールドは存在するんだから。だから、スフィアワールドのログインを目標としたいの。……どうかな?」


 遙花の意見に反対する者はいなかった。


「部長の意見でいいよ。俺もワールドには興味があるからさ」


 まえはうなずいた。スフィアワールドに興味があるのは本当だった。


「正確な知識を得ることは大切ですよね。ログイン場所が見つかったとしても、いきなりじゃちょっとこわいですから」

「うん、だからまかせて。みんなにわかるように説明してあげるから」


 ゆきむらが気をつかってホワイトボードを引っ張ってきたが、遙花は首を振った。


「こういうのって視覚イメージでおぼえたほうがいいと思うの。だから、基本的なスフィアワールドの構造を教えてあげるから、前田君と雪村君はちょっと外に出てて」


 前田と雪村は、遙花に強引に部室からしだされた。部室の中ではごそごそとなにかセッティングするかのような気配があった。


「どういうことなんですかね」

「とりあえず遙花の言うとおりにしよう。なによりも彼女のな笑顔をこわすことだけは避けたい。だからにやるべきだ」


 ひそひそ話していると部室の中から声が聞こえた。


「廊下は現実の世界だからね。そして、この部室がスフィアワールドなの。じゃあ、ログインしてきていいよ」

「……ログインってどうするんだろ」


 ポカンと廊下にっ立っていると、遙花がぴょこんと顔をのぞかせた。


「扉を開けて入ってくるの。スフィアへの接続は扉を開くのに似ているから」


 前田は遙花にうながされ、がらりと扉を開けた。


「今ログインしたよ。ここがスフィアワールドだから油断しないでね」


 前田は部室に入ってぜんとする。を囲むように並べられた机の上に、ゴムの人形が並べられている。ちらりとホワイトボードを見ると、スフィア・ナカノ書かれていた。


「ここは東京都なか区だよ。つまりスフィア・ナカノなの。そうの中野はけっこう栄えていたらしいよ。ほら、中野ブロードウェイとかあるじゃない。だから、コアなユーザーが集まったりしたの」

「あれらがユーザー?」


 まえは机に並べられたゴム人形を見た。


「そう。ああして仮想ワールドに集まって遊んでいたんだって」

たかはしはなんなんだ?」


 にぽかんと座っているの頭には色紙で作ったっかがっている。


「悠羽美ちゃんはストライカーなの」