アトリウムの恋人

2 東京スフィア ③

 ちなみに仮想のマップは東京都限定だ。テストプレイと称して、まずは先行して東京だけをデジタル化している。なので、スフィアのシステムは東京以外には利用できないとされる。


「東京をデジタル化することでたくさんの利点があるのだよ。例えば、駅の構内でチラシを配ったり、施設内でパフォーマンスをしているアンドロイドもそうだ。スフィアからの情報によって活動をしている。アンドロイドを見た人間は、アンドロイドの知能に驚くが、実際に知能を持っているのはスフィアのほうだ」


 スフィアは東京の情報の集合体なのだ。モバイルからもアクセスができ、交通情報や施設の混雑状況なども確認ができ、防犯などにも利用されている。


「じゃあ、仮想のスフィアワールドとはなんなの?」


 遙花はるかが首をかしげている。


「スフィアワールドは、副次的に生まれてしまったものなのだ」


 東京のデータはすべてひようと数字で処理された。しかし、そのデータを処理する段階で、もうひとつの東京、つまり仮想の東京が生まれてしまったのだ。

 スフィアにおいて本来必要なのは東京の地図のみだった。しようさいに東京を処理した数字のことだ。しかし、正確に情報を処理するために、スフィアは東京のジオラマのような仮想マップを作ってしまったのだ。

 副次的に生みだされてしまった東京のジオラマは、誰の所有物でもなかった。情報は東京都や企業が管理したが、スフィアワールドの所有者の線引きはついにできなかったのだ。


「そのうちに、そのワールドに接続を試みるユーザーが現れた。ゲームセンターなどがそんのリアル体感ゲーム機をスフィアに接続したのが始まりだった。それがログインポイントだ」


 そのころのスフィアワールドは東京にすっぽりいたスペースのようなものであり、ルールのない無法地帯だった。そんな空き地でユーザーは独自に遊びを生みだしていった。チャットやおにごっこのような遊び、そして戦争ゲームまで。


「もちろん、非公式なログインだったが、それを取りまる法律もなかったからね。ほうしんにゆうで訴えようにも、データでできた街だ。しかし、じよじよに事故が起き始めた。あまりにそう世界の体感がリアルすぎて、現実と仮想をこんどうしてしまった」


 仮想世界での痛みを現実だとかんちがいしてしまったりとのしようれいがある。リアルな体感に、脳が現実のものだと間違って処理をしてしまうのだ。


「そこでスフィアワールドに企業が参入し始めた。ユーザーたちに危険がないようにルール作りをする代わりに、ワールドでコマーシャルを始めたわけだ」


 企業はまず専用のログイン装置を開発し、ログインのルールも少しずつ作り始めた。ワールドの所有者は誰でもないので、ルール作りは少しずつだった。企業の参入はスフィアワールドのメモリーの増加を意味することだった。メモリーの増加にともない、ワイヤーフレームのような仮想の東京の街は独自に進化をげていくことになる。


「スフィアワールドがっていた時期は至る所にログイン装置が配置された。もともとのリアル体感ゲーム機をいじっただけで、それほどコストもかからなかったようだからね」

「どんなゲームだったの?」


 まゆ遙花はるかに首を振ってみせた。


「ゲームではないよ。もうひとつの東京にログインする。ただそれだけだった。大げさに言うと、そこでユーザーたちはもうひとつの人生を生きることになる。ただそれだけだ」

「でも、自由に遊べるんでしょ」

「いや、ワールドのコンセプトは、不自由な世界、だった」


 不自由なスフィアワールド。その世界では飛ぶこともできずバイクを飛ばしてしつそうすることもできない。


「それでもスフィアワールドは急速に拡大した。仮想の世界で企業しゆさいのゲームなどが行われたり、さまざまな店も出店された。スフィアマネーが流通し、ユーザーの間でルールができていったわけだ」

「ふーん、楽しそう。仮想の世界で喫茶店とか開くのも悪くないかも」

「しかし、ちょっとしたトラブルにより、スフィアワールドは急速にこうはいした。企業もユーザーもワールドから離れていった」


 スフィアワールドの最盛期は短く、二、三年といったところだろう。


「じゃあ、スフィアワールドはもうしようめつしちゃったの?」

「いや、消えてはいないだろう。無人のこうとして存在しているだろうね。でも、もう何の価値もないからっぽの街だよ」


 繭子はそう締めくくった。


「……からっぽの街か」


 つぶやく遙花はるかの表情はさびしげだった。

 その日のサークル活動はそれで終わりとなった。どちらにしろ、明確な解答は簡単に出ることはないのだ。遙花の疑問と不安はたなの上に置かれることとなった。

 スチールケースの中身は、それぞれ分担して持つことに決まった。ふうとうの金はまゆが預かり、喫茶店のカードは、チケットはゆきむら、香水のびんは遙花で、あめ玉はまえとなった。それは遙花の不安をメンバーで分担してやろうとの処置でもある。

 遙花は秘密を話したことで少しだけ気分が楽になったようだ。もしかしたら、このままサークル活動はしようめつする可能性もある。遙花にとってこのサークルは、秘密の共有と分担との意味合いが強いだろうからだ。一人から五人、五分の一に分割されて目的は果たされた。

 前田は夕暮れの街を雪村と歩きながら空を見つめた。現実の東京と重なるように存在するスフィアのデータ。情報で構成された街がきりのように東京をおおっているのだ。駅前の通りに出ると、大小の三角積み木を並べたようななかサンプラザの建物が見えた。

 今日は金曜日なので、明日と明後日あさつては学校は休みだった。土日をはさんでサークル活動が行われる可能性は低いように思える。活動日も設定していないのだ。

 前田は雪村と別れて自宅へと向かった。駅からほど近いいつけんが自宅だ。前田は玄関には向かわずに、ガレージのシャッターを開けて中に入る。

 ここは前田の実の姉の家だ。姉はすでに結婚しており娘も生まれている。ただし、だんのほうは家を買ったと同時に海外へのにんが決定してしまい、仕方なく単身赴任をしている。

 前田の実家はにあるのだが、現在は姉のこの家に居候いそうろうをさせてもらっている。姉の旦那も、女性だけの家庭を心配しているのか、前田が住むことを歓迎してくれていた。そして、前田はほとんどこのガレージで生活していた。姉はあまりにも運転がなため車を売ってしまい、いたガレージを前田がゆずり受けたのだ。めいが妙に生活にかんしようしてくる以外は、快適な生活だった。

 前田はかばんを机にほうり投げてかわりのソファーに座った。頭上を見上げると薄汚れたコンクリートの天井がある。かべぎわの塗装がところどころはげたステンレス製の棚には、使わなくなった車の整備用具が並べてある。拾ってきた机の上には、これも粗大ゴミで拾ってきたパソコンを置いている。ほとんど使い物にならないが、データ整理程度はできるのだ。他にもコンポ、パイプ、本棚、オイルランプなども全て拾ってきたものだった。

 部屋に散らばるそれらのがらくたは、まるでパソコン画面にぞうに置かれたアイコンのようだと思った。前田はソファーに座り、いつの間にかうとうとしていた。久しぶりにあの夢を見てしまう。くらやみの中で手を伸ばしている自分が見える。あと少し手を伸ばせば届くのに、必ず届かずに終わる夢。

 あのときもう少し手が伸びていれば……。