ちなみに仮想のマップは東京都限定だ。テストプレイと称して、まずは先行して東京だけをデジタル化している。なので、スフィアのシステムは東京以外には利用できないとされる。
「東京をデジタル化することでたくさんの利点があるのだよ。例えば、駅の構内でチラシを配ったり、施設内でパフォーマンスをしているアンドロイドもそうだ。スフィアからの情報によって活動をしている。アンドロイドを見た人間は、アンドロイドの知能に驚くが、実際に知能を持っているのはスフィアのほうだ」
スフィアは東京の情報の集合体なのだ。モバイルからもアクセスができ、交通情報や施設の混雑状況なども確認ができ、防犯などにも利用されている。
「じゃあ、仮想のスフィアワールドとはなんなの?」
遙花が首を傾げている。
「スフィアワールドは、副次的に生まれてしまったものなのだ」
東京のデータはすべて座標と数字で処理された。しかし、そのデータを処理する段階で、もうひとつの東京、つまり仮想の東京が生まれてしまったのだ。
スフィアにおいて本来必要なのは東京の地図のみだった。詳細に東京を処理した数字のことだ。しかし、正確に情報を処理するために、スフィアは東京のジオラマのような仮想マップを作ってしまったのだ。
副次的に生みだされてしまった東京のジオラマは、誰の所有物でもなかった。情報は東京都や企業が管理したが、スフィアワールドの所有者の線引きはついにできなかったのだ。
「そのうちに、そのワールドに接続を試みるユーザーが現れた。ゲームセンターなどが既存のリアル体感ゲーム機をスフィアに接続したのが始まりだった。それがログインポイントだ」
その頃のスフィアワールドは東京にすっぽり空いたスペースのようなものであり、ルールのない無法地帯だった。そんな空き地でユーザーは独自に遊びを生みだしていった。チャットや鬼ごっこのような遊び、そして戦争ゲームまで。
「もちろん、非公式なログインだったが、それを取り締まる法律もなかったからね。不法侵入で訴えようにも、データでできた街だ。しかし、徐々に事故が起き始めた。あまりに仮想世界の体感がリアルすぎて、現実と仮想を混同してしまった」
仮想世界での痛みを現実だと勘違いしてしまったりとの症例がある。リアルな体感に、脳が現実のものだと間違って処理をしてしまうのだ。
「そこでスフィアワールドに企業が参入し始めた。ユーザーたちに危険がないようにルール作りをする代わりに、ワールドでコマーシャルを始めたわけだ」
企業はまず専用のログイン装置を開発し、ログインのルールも少しずつ作り始めた。ワールドの所有者は誰でもないので、ルール作りは少しずつだった。企業の参入はスフィアワールドのメモリーの増加を意味することだった。メモリーの増加に伴い、ワイヤーフレームのような仮想の東京の街は独自に進化を遂げていくことになる。
「スフィアワールドが流行っていた時期は至る所にログイン装置が配置された。もともとのリアル体感ゲーム機をいじっただけで、それほどコストもかからなかったようだからね」
「どんなゲームだったの?」
繭子は遙花に首を振ってみせた。
「ゲームではないよ。もうひとつの東京にログインする。ただそれだけだった。大げさに言うと、そこでユーザーたちはもうひとつの人生を生きることになる。ただそれだけだ」
「でも、自由に遊べるんでしょ」
「いや、ワールドのコンセプトは、不自由な世界、だった」
不自由なスフィアワールド。その世界では飛ぶこともできずバイクを飛ばして疾走することもできない。
「それでもスフィアワールドは急速に拡大した。仮想の世界で企業主催のゲームなどが行われたり、様々な店も出店された。スフィアマネーが流通し、ユーザーの間でルールができていったわけだ」
「ふーん、楽しそう。仮想の世界で喫茶店とか開くのも悪くないかも」
「しかし、ちょっとしたトラブルにより、スフィアワールドは急速に荒廃した。企業もユーザーもワールドから離れていった」
スフィアワールドの最盛期は短く、二、三年といったところだろう。
「じゃあ、スフィアワールドはもう消滅しちゃったの?」
「いや、消えてはいないだろう。無人の荒野として存在しているだろうね。でも、もう何の価値もない空っぽの街だよ」
繭子はそう締めくくった。
「……空っぽの街か」
つぶやく遙花の表情は寂しげだった。
その日のサークル活動はそれで終わりとなった。どちらにしろ、明確な解答は簡単に出ることはないのだ。遙花の疑問と不安は棚の上に置かれることとなった。
スチールケースの中身は、それぞれ分担して持つことに決まった。封筒の金は繭子が預かり、喫茶店のカードは悠羽美、チケットは雪村、香水の瓶は遙花で、あめ玉は前田となった。それは遙花の不安をメンバーで分担してやろうとの処置でもある。
遙花は秘密を話したことで少しだけ気分が楽になったようだ。もしかしたら、このままサークル活動は消滅する可能性もある。遙花にとってこのサークルは、秘密の共有と分担との意味合いが強いだろうからだ。一人から五人、五分の一に分割されて目的は果たされた。
前田は夕暮れの街を雪村と歩きながら空を見つめた。現実の東京と重なるように存在するスフィアのデータ。情報で構成された街が霧のように東京を覆っているのだ。駅前の通りに出ると、大小の三角積み木を並べたような中野サンプラザの建物が見えた。
今日は金曜日なので、明日と明後日は学校は休みだった。土日を挟んでサークル活動が行われる可能性は低いように思える。活動日も設定していないのだ。
前田は雪村と別れて自宅へと向かった。駅からほど近い一軒家が自宅だ。前田は玄関には向かわずに、ガレージのシャッターを開けて中に入る。
ここは前田の実の姉の家だ。姉はすでに結婚しており娘も生まれている。ただし、旦那のほうは家を買ったと同時に海外への赴任が決定してしまい、仕方なく単身赴任をしている。
前田の実家は千葉にあるのだが、現在は姉のこの家に居候をさせてもらっている。姉の旦那も、女性だけの家庭を心配しているのか、前田が住むことを歓迎してくれていた。そして、前田はほとんどこのガレージで生活していた。姉はあまりにも運転が下手なため車を売ってしまい、空いたガレージを前田が譲り受けたのだ。姪っ子が妙に生活に干渉してくる以外は、快適な生活だった。
前田は鞄を机に放り投げて革張りのソファーに座った。頭上を見上げると薄汚れたコンクリートの天井がある。壁際の塗装が所々はげたステンレス製の棚には、使わなくなった車の整備用具が並べてある。拾ってきた机の上には、これも粗大ゴミで拾ってきたパソコンを置いている。ほとんど使い物にならないが、データ整理程度はできるのだ。他にもコンポ、パイプ椅子、本棚、オイルランプなども全て拾ってきたものだった。
部屋に散らばるそれらのがらくたは、まるでパソコン画面に無造作に置かれたアイコンのようだと思った。前田はソファーに座り、いつの間にかうとうとしていた。久しぶりにあの夢を見てしまう。暗闇の中で手を伸ばしている自分が見える。あと少し手を伸ばせば届くのに、必ず届かずに終わる夢。
あのときもう少し手が伸びていれば……。