海が──滾っている。
怒号、呻吟、断末魔の叫び。ひとたび目を閉ざせば、声の主に人畜の区別をつけることさえ難しい。生のままの怖れが悲鳴となり、吟味されぬ憤りが怒号となり。そういった原始の感情が振るう剣が、槍が、鏃が──対話なき世界において、瞬きの間に全てを解決していく。
第四次キレド海戦。実に三百年ぶりとなるロケィラ・オルワナ間の海上戦が火蓋を切って落とされてから、すでに二時間余りが経過していた。その間、実に二十七もの船が無数の木片と成り果て、二千四百の兵を道連れに青黒い海の底へと沈んでいる。
「皇子、どうか全軍に撤退の指示を! 始めから無茶な戦だったのです! ただでさえ数に劣る我々が、海戦で有翼種に勝てる道理がございません! セレィ皇子、どうかご英断を!」
「ならん!」
両軍の戦船がかち合う最前線。部下の進言を一蹴したのは、引き締まった顔つきに情熱的な風格を持つ女だった。大地色の戦装束に白銀の胸甲を重ね、その腰元には両刃の剣を具している。それは紛うことなき殿方の戦装束であり、しかし悲劇的なほど女に溶け込んでいた。まだ多少のあどけなさを残す顔つきも、数年の後には勇武の相にすり替わっているだろうと予想させるほど。
さらに──何よりも女の印象を強めるのは、その額の中央に隆起する、同胞たちよりもふたまわりほども大きな、真白い一角だ。
「考えてもみよ! ここで退けば、我らが皇都と奴らの間には、もはや小石ほどの要害もない! 浜を基点に次々と援軍を送り込まれ、完全包囲に持ち込まれるは必定! そうなってしまっては、我々に残される道は、緩やかな餓死か降伏のみだ!」
止むことなく飛来する矢を果敢に剣で弾き飛ばし、傷ついた兵たちを庇って立ち塞がりながら、セレィと呼ばれた女は猛然と言い切った。その言はまったくの事実であったが、部下はなおもかぶりを振った。
「しかし! その皇都も、ここで我々が全滅してしまっては、いったい誰が守れるというのです! すでに損害は全軍の半数近くに及び、撤退には今が最後の機! いまこの一秒の間にも、失われていく兵の数がどれほどのものか……!」
部下の絶叫に、セレィはついに言葉を失って歯嚙みした。言われるまでもなく、彼女にも状況は理解できている。このままでは徒に兵力を消耗し、軍の体を成せぬところまで追い詰められてしまう他にない。その前に撤退しろという部下の言は、言うまでもなく妥当なものではあったが……。
(ここを逃げたところで……破滅を先送りするだけではないか!)
退けるわけがなかった。憂国の士であればこそ、全軍の半数を失い、先んじて即位した十三の兄弟が残らず死に絶えた──そんなロケィラ皇国史上最悪とも言える時期にも、セレィは迷うことなく皇位を継いだのだ。
「──ッ! 皇子、敵艦が寄せてきます!」
「何かに摑まれぇッ!」
船体の横っ腹に衝撃が走り、甲板で戦闘していた海兵が何人か海中に没した。甲冑を着けたままで水没すれば、甲冑を投げ捨てるか、さもなければ速やかに溺死する他にない。しかし──
「──! 敵兵が乗り込んできます!」
「くっ……迎え撃て!」
甲板上に陰影が閃く。背の翼をはためかせ、ふわりと軽やかに舞い降りるオルワナ海兵たちの姿に、セレィは忌まわしさを覚えるしかなかった。本来的に陸戦を主とし、ゆえに船上での戦闘に練達しないロケィラ兵は、水没に怯えること著しい。一人溺れ死ぬ度に士気は低下し、すでにセレィの勇猛をもってしてもカバーしきれないところまで来ていた。
鬨の声。鋼のぶつかり合う音がいっそう激しさを増す。鏃による手傷を身体じゅうに負いながら、それでもロケィラ兵たちは勇敢に敵を迎え撃つが、勢いの差は歴然だった。満身創痍の兵らは雪崩をうって飛び移るオルワナ兵に次々と斬殺され、司令官であるセレィのもとへと血塗れの路が開かれていく。
「思い切ったな、皇子さん。だが愚策だった」
その路の中央を、屍を物ともせず、無遠慮な足取りで踏破する影があった。初め一貫して灰色であったのだろう両翼の羽毛は、今や返り血によって斑に染まっている。戦斧などは朱色の鋼による鋳造かと見紛うほどだ。
海将ダラィオン。オルワナ海軍主力部隊を統率する、歴戦の武士である。
「まさかそちらから海に出てくるとはな。浜に陣を構えて、得意の陸戦に最後の望みをかけるものとばかり思っていたぜ。そういう意味では大した奇襲だったさ。だがよ……」
己が大翼を豪快に振り乱し、ダラィオンは愉快そうに膝を打った。
「このザマを見ろよ。手前さまの兵士は、慣れない海に怯えて、船上も自由に動けない有様だ。操船も稚拙で、こちらの天弓隊には絶好の的。笑いが止まらんぜ。この圧倒的な条件の差を、払暁の奇襲くらいでどうにかできると思った、どっかの指揮官のおめでたさにな!」
喉を鳴らして大笑し、ダラィオンは無遠慮に敵将との距離を詰めた。咄嗟に剣を構えたセレィを、片腕を翳して制する。
「やめときな。女だてらに……と誉めてやりたいところだが、ここでアンタ一人が頑張ってどうなる? 雌雄は決したんだ。となれば、敗軍の将に残された仕事は只ひとつ──首を差し出すことで、舞台の幕を降ろすことだけさ」
ダラィオンは戦斧の峰で示すように首筋を叩いてみせた。それを真っ向から凝と見つめて、しばし無言の逡巡の後──セレィはついに剣を下ろした。
「……呉れてやろう」
「いけません、皇子!」
悲痛な面持ちで止めに入る臣下を、かぶりを振って制し、セレィは凜然と付け加えた。
「ただし! 兵の命を安んずると、神名に誓って約するならば、だ」
満足のいく返答を受け取って、ダラィオンはにやりと口元を歪めた。
「安心しな。担ぐ神輿を失って気の抜けた連中なんざ、こちとら撫で斬りにするのもかったるい。だいいち、そっちの皇族も、いいかげんタネ切れだろう?」
身の丈ほどもある戦斧を剛と振りかぶり、ダラィオンは笑みを潜めて頷いた。
「神名にかけて誓うとも。──アンタのそっ首ひとつで、この戦はキレイに終わるだろうさ」
「──そんなことを誓われても、こちらとしては保証しかねるのだがな」
場違いに吞気な声が空気を割った。両群の兵たちは反射的に首を巡らせて、その結果として例外なく瞠目した。
先刻まで何の影もなかった操舵室の屋根上。翠と真紅の色彩の、見るも鮮やかな衣装を纏った男が立っていたからだ。
「──なんだ? てめぇ」
後ろ手に天弓隊への指示を送りながら、ダラィオンは内心で訝った。……どのような奇人であれ、この場にあるからには、ロケィラ・オルワナいずれかの勢力に与する存在でしかないはず。だのに、その男の額はつるりと平坦で、背中にも両翼は見当たらない。ダラィオンばかりか、差し向かいのセレィまでもが同じく怪訝な面持ちになった。
一方で、つまらないことを問われた、とでも言いたげに肩をすくめて、男は答えた。
「もう忘れたのか。あんたがついさっき、その名にかけて誓ったものじゃないか」
「そうかい。じゃあ死にな」
ぞんざいな号令一下、空気を裂く弦音。セレィの旗艦を八方から包囲する形で待機していた天弓隊から、矢という矢が一斉に放たれたのだ。が、しかし──
「セレィ皇子。こんな戦で叩き売っていいほど、あんたの首は安くない」
前触れもなく真横から声がして、セレィは意表を突かれた。ダラィオンも同様である。今しがた針鼠になったはずの男が、彼女の隣で腕を組んで悠々と佇んでいるのだから。
「包囲隊形!」