怒声めいたダラィオンの号令が飛び、旗艦に乗り込んできていたオルワナ兵たちが動く。
「油断するな兵ども。こいつは妖しの術を使うらしいぞ」
緊張を含み始めた声色で、ダラィオンは言った。じりじりと迫り出す包囲網に圧迫されながら、謎の男はくすりと笑った。
「慎重なのはいいことだな、ダラィオン。でも、ひとつ勘違いしている」
「潰せ!」
円陣を組んだ兵の密度が飽和点に達した瞬間、ダラィオンは止めの号令を下した。一人ずつの間隙を置いてまず半数が突進し、残る半数がその穴を埋めていく。熟練の指揮と訓練に基づく、精緻極まりない用兵であった。槍衾で武装した分厚い肉の壁に圧殺されようとする間際、男はすぅと肺を膨らまし、
「──妖しの術なんて使っちゃいない」
ささやかに地面を蹴る音を、何人が聞き届けたことか。聞き届けたとしても詮無いことではある。その音が耳に入った時には、すでに男の身体はダラィオンの懐にあるのだから。
「単に、あんたの目が追いつかなかっただけだ」
床板の破砕するかん高い音。鎧の軋む強い音。その内側で肉が窪む鈍い音。
──それら全ての合奏に見送られながら、
「───がぁっっっっ!?」
海将ダラィオンの巨軀は、甲板上をまっすぐに、飛魚のごとくかっ飛んでいった。
「……重い野郎だな。栄養あるもの食いすぎなのと違うか」
両膝を開いた半身の構え、大地に根ざすかのように深く腰を落とした姿勢で、男はぼそりと呟いた。激烈な踏み込みは床板を砕き、直接の打点であったのだろう肘先からは薄らと煙が立ち昇っている。
「ぅ、ぁ……」
旗艦最前部の斜檣に激突し、ずるずると海に没していこうとするダラィオンを、
「おっと、どこへ行く」
三度神速で駆け寄った男が、首根っこを摑んで寸前で引き留めた。不安定な棒の上、人ひとりの体重を片手に悠々と佇む姿に、兵たちはいよいよ畏怖を禁じえない。
「──さて。おい、そこのお前」
副官と目星をつけたオルワナ兵に向けて、男は横柄に言った。
「手旗信号を出せ。内容はこうだ──『速やかに全艦撤退。南東へ三十里下り、そこで投錨して指示を待て』」
「な、誰がそんなことを──!」
「らしいぞ、将軍」
片手にぶらさげたダラィオンの身体を揺すぶりながら、男は苦笑した。副官が言葉に詰まる。
「ほら、まだ寝てくれるな。決めるのはあんただぞダラィオン。どうしても今日のうちに勝ちたけりゃこう言えばいい──『俺に構わずこいつを殺せ』とな。……その重い甲冑を着けたまま、飛ぶなり泳ぐなりできる自信があるんなら、だが」
「……ぅ、う……」
「こら、眠るな」
男は残った右手でダラィオンの頰に平手をかました。容赦なく覚醒を強いられて、ダラィオンは残酷なほど明晰になった意識のなかで、己の状況を理解しなければならなかった。
「……オルマ……艦隊を、撤退、させろ。ただし、この周辺の四隻は残せ……げふっ!」
「将軍……」
「早く……!」
上官の命令では否応もない。オルマ副官はやりきれない面持ちで懐から手旗を取り出した。男はもっともらしく頷いて、生き残りのロケィラ兵たちに囲まれて立ち尽くすセレィへと視線をやる。
「何をやってるんだ、セレィ。あんたも自分の艦隊を下がらせろ」
「──何だと?」
「阿呆か。取引が成り立たんだろう。いいか、ダラィオンの身柄を保障することと引き換えに退いてもらうんだぞ。畢竟、こっちの兵力は、もしこっちが約束を破ってダラィオンを殺害ないし誘拐しようとした場合に、向こうが強襲をかけて殲滅できるかもしれないと判断するギリギリの数でなくちゃならない。こいつが四隻残すと言ったのはそういうことだ。だから、そうだな……こっちは護衛の二隻を残して全艦撤退させろ」
言われた内容をしばらく咀嚼して、セレィは納得いったふうに副官へと指示を出した。二人の手旗信号がそれぞれの艦隊に撤退指示を出し、実際に艦影が水平線の彼方へと霞んでいくまで、数時間の時を要した。
「……さて、どうやら行ったか。そら、こいつは返すぞ」
撤退が進行する間じゅう片手にぶらさげていた巨体を、男は文字通り放り投げてオルワナ艦へと返してやった。血相を変えて駆け寄ってくる部下たちを片手で払いのけ、憤怒の形相も露わに、ダラィオンは男を睨み返す。
「……さぞや爽快だろう。してやったりって気分だろうな」
「大当たり」
男が返した軽口に、オルワナ軍随一の猛将は裂けたと見紛うほどに唇を釣り上げて狂笑した。
「はは、は──名は訊かねぇ。てめぇの名を思い出すのは、工夫を凝らして苛め抜き、いたぶり殺した記憶に浸る、その瞬間だけでいい」
「いい趣味してるな」
「だが、俺の名は覚えておけ。──ダラィオン・ゴラ・ヌクサンカ。そう遠くない未来、命乞いをするてめぇが、何度も何度も様付けで叫ばなくちゃならねぇ名前だ」
ありったけの憎悪を込めて言い捨てたダラィオンに、男は悪戯っぽく人差し指を向けて、小さく声を発する。
「aterasamadiaay」
まったく意味を摑めず、ダラィオンは眉根を寄せる。男はにやりと笑って告げた。
「呪いをかけた」
「!?」
「これから十日の間、お前はロケィラへの侵攻を再開してはならない。もし禁を破れば、全身を吹出物に覆われる業病に罹って死ぬことになる」
顔面を蒼白にして、ダラィオンはぱくぱくと口だけを開け閉めした。男は愉快そうに大笑してなお畳み掛けた。
「それ、そろそろ前兆が出始めてもおかしくない。うなじの辺りが痒くはないか?」
咄嗟に手をやりかけたダラィオンに、最後の冷笑を浴びせて、男はすげなく背を向けた。残された海将は言葉もなく立ち尽くし、かすれる声で部下に出発を促すと、自分はとっとと船室に籠もってしまった。
遠ざかっていく四隻のオルワナ船。その遠い姿を眺める男の背中に、ぴしゃりと、鋭い声が浴びせられた。間一髪で窮地を脱したロケィラ軍の将・セレィである。
「一応、礼は言っておこう」
「そりゃどうも」
「目的はなんだ?」
過剰な怖れも媚もなく、真っ向から事の核心を質すセレィの態度が好転をもたらしてか、男は微笑んだ。身体を翻し、真っ向から女の目を見据えて、口を切る。
「セレィ・メル・ロケィラ。あんたを導きにきた」
開口一番、男はどことも知れぬ中天を指差した。
「そう遠くない未来。この世界全体を標的とした、大規模な侵略活動が始まる」
「──何だと?」
「強大で、容赦のない相手だ。ひとたび彼らが大地を席巻すれば、土着の文化を根こそぎ破壊し、政の全てを自分たちに都合のいいように塗り替えていく。事象を支配する理法にまでも手を加え、己が世界の生産活動に否応なく組み入れていく。
それに抗するためには、小国が群雄割拠する今の状況では駄目だ。来たる時に向けて、各国の団結を図り、一丸となって侵略に抗する態勢を作り上げねばならない」
セレィは何を問い返すでもなく、じっと押し黙り、値踏みするように男の話を聞き続けた。男は嚙んで含めるようにゆっくりと、しかし淀みない口調で続けた。
「あんたにはその矢面に立ってもらう。東方五国、中陸八国、西栄十二国。そして周辺諸島に住まう数多の先住民族たち。その全てを蹂躙することなくして統一し、いずれ始まるだろう侵略に備えるんだ。俺も可能な限り、協力は惜しまない」
「本気で言っているのか?」
「本気で言っている。だから、真剣に聞いて欲しい」