翠がかった黒色の瞳が、真っ向からセレィの碧眼を捉えた。膝下までの三つ編みに結われた二房の下げ髪が、強い潮風にふわりと舞った。そこには、ダラィオンを相手取っていた時のような、皮肉と虚飾の色はなかった。ただ、これだけは回り道なく伝えねばならないという、重い責任の気配があった。
「……すぐに信じろとは言わない。いずれにせよ、まずは目先の敵だ」
戦況を引っくり返してみせよう、と男は言い切った。その結果をもって、俺に信を置くか否かを決めればいい、と。
作り話にしても耳を疑うような大言の連続に、セレィはしかし嘲笑でも憤激でもなく、ただ静かに問いを投げた。
「──お前は何なのだ?」
「あんたたちが歴史書と夢物語に語り継いできたものの眷属だ。そのものではないが」
「名は、何という」
「奄倉信」
セレィは眉根を寄せて、何度か口の中で、その名を反芻した。
「……オオクルァ……偉大なるクルァシン、か。ふん、大層なことだな」
きっと鋭い視線を男に返して、セレィは毅然と言い切った、
「信については保留としておこう。お前の言うとおり、今日の功だけで判ずるには不足だ。
だから──まだ偉大なるはつけん。真の器が知れるまで、お前はただのクルァシンだ」
そう言って、荒々しく差し出された右手に、男は微笑った。むしろそれぐらいが丁度いいに違いないと──自嘲気味に匂わせて、その手を握り返したのだ。
──導神クルァシン。
エナ・ガゼという名の世界を巡る、神々と人の物語は──後年そう記されることになる若き神によって、今まさに序の幕を開かれたのだった。
エナ・ガゼには大陸がひとつしかない。地図の中心を大胆に占めるゴルォグンナ大陸がそれである。東方五国、中陸八国、西栄十二国の計二十五国を有するこの土地は、古代の地学者が図示したところ、丁度逞しい左腕を根元から切り落として置いたような形をしていたため、そこから想像を豊かにした詩人たちが数多のネルマフカ神話群を作り上げた。
ネルマフカ神話は神代、混代、人代の三時代に分けて構成され、神代の終わりに己が左腕を切り落として地を成した父神ネルマファを至高神とする。大陸全土においてこの信仰は共通し、仰ぐ神に大差はない。ただし、『左腕大陸』のちょうど肩口から二の腕までにかけてを国土とする中陸・西栄諸国の人々は、左腕のなかでも御神体により近い位置に住まうという理由から、より末節に近い部分に住まう東方の民を蔑視する傾向がある。
ゴルォグンナ大陸に住まう民族は多岐に渡る。有翼種、有角種、牙種、盲種など、彼らは大抵が一見してそれと分かる特徴を備えている。彼らは決まって父神ネルマファと母神メリェノスとの間にもうけられた八子神に起源を主張し、それゆえに父母両神に次ぐ信仰の対象には違いがある。必然、多くの場合は民族単位がそのまま国家単位となるが、二種以上の多民族を包括する国もある。
有角種の統治するロケィラは、地図の上では最東方に位置する国のひとつである。紛うことなき沿岸国でありながら、隣国オルワナとの軍事事情のために海との親しみは薄い。彼らは八子神の第三子『双角持つユルフィネク』を祖として奉じ、隣国オルワナの有翼種らが奉ずる『八重羽のクロトァ』との対立は、神話をそのまま歴史と見るならば、神代の昔、母神メリェノスの乳房を巡って両子神が争ったことに端を発する。兄弟喧嘩の延長上に血で血を洗う大戦が起こっているとは傍目にも失笑の限りだが、当事者たちの間でそれを諧謔とする風潮は、今のところはない。
*
翌日の夕刻、疲弊しきった即席海軍を引き連れて、ロケィラ皇子セレィは湯煙馨る皇都ビンナスクに帰還した。兵たちの足取りは一様に重い。ダラィオン率いるオルワナ海軍にもたらされた被害は決して小さくなく、その対価としてあるはずの戦果はあまりに乏しいものだったからである。
「諸君、本日はまことに大儀であった! まずは湯に浸かって疲れを落とし、しかる後、肉とパンで腹を満たして泥となり眠るがいい。明日もまた、諸君の力を頼みとするところは大きいであろう。我らの額に一角の燦然と輝く限り、ロケィラの勝利に揺るぎはない!」
兵たちを宿舎に戻らせるセレィの声は疲労を感じさせない。戦装束も替えぬままに宮中を闊歩し、引見の間まで来たところで、彼女は玉座にどっかと腰を下ろした。すかさず傍らに侍女がひざまずき、濡れ手拭と冷えた果汁を供する。セレィはまず果汁を一気に飲み干すと、塩でざらざらする顔を手拭で荒々しく拭った。
「思ったより元気だな。慣れない船戦はきつかっただろう」
宮中、ましてや皇子の御前において、何人にも許されぬ語調だった。仰天した侍女が首を巡らせると、玉座と三間ほども隔たらない位置にその姿はあった。彫りこそ浅くも凜々しく整った顔立ちに、底知れぬ理知を秘めた漆黒の瞳。紅の深衣に重ね着た、翠の貫頭衣との色彩も鮮やかに──セレィらの眼には前例のない、独特の麗しさを備えて、導神クルァシンはそこに立っていた。
「宮中の礼法を知らんのか。引見の下命を待て、たわけ」
「俺は別にあんたの臣下ではないからな。会うべき時に会いにくるさ」
露骨に眉根を寄せる皇子の言を、クルァシンは軽く受け流した。事態に対応できず、侍女たちは哀れなほどおろおろしている。許可なしの入室自体が言語道断だし、皇子を前にひざまずくこともなく直立を保つなど、彼女らからすれば卒倒ものの不遜であった。
「それに、儀礼をどうこう言っている場合じゃないのは、そっちも承知しているはずだろう。さっさと本題に入るぞ」
机と地図をよこせ、とクルァシンは侍女に命じた。困惑する彼女らの背中を、セレィの「用意してやれ」の一声が押す。
ほどなく、七人がかりで運ばれてきた大机に東方地図を広げさせて、麗しき長髪の神はいよいよ本題の口火を切った。
「ひとつ問うが、この戦の敗因はなんだと思う?」
クルァシンの何気ない一言に、セレィの双眸がかっと見開いた。
「敗けてはおらん!」
「……ああ、失言だった。訂正しよう。現状の戦況的不利は何に由来すると思う?」
激昂を一瞬で収め、セレィはほとんど間を置かずに答えた。
「戦の序盤、兵力を小出しにしたばかりに、ナバザ砦を陥とし損ねたことだ」
ご名答、とクルァシンは言い、こっそり安堵の息をついた。大きな声では言えないが、これから導いていく相手が阿呆では話にならない。
「ロケィラとオルワナの間には峻険なマガタ山脈が立ちはだかっている。海路を使えぬロケィラ軍がオルワナへと至る道は、ナバザ峡谷を辿るルートか、商国コーチアドを北から迂回するルートしか存在しない」
クルァシンは机の隅から文鎮を取り上げ、それらを地図上のマガタ山脈に並べて置いた。ふたつの鉄塊は間にわずかな隙間を残し、その空間はそのままナバザ峡谷の地形を表している。
「しかし中立を標榜するコーチアドは、両国が戦時下に入って以後、一部の通商を除いて国境を閉鎖している」
縦にふたつ並んだ文鎮のさらに上、東方でもっとも小さな国土の全面に、クルァシンは地図上で×印を引いてみせた。
「こうなると必然、ロケィラ軍が選びうる道は、ナバザ峡谷しか存在しないわけだが……」
クルァシンは文鎮の隙間を指でなぞった。もちろんオルワナ側もそれは心得ている。ナバザ峡谷には千金を費やして頑強極まりない砦を設営し、守り手に数倍する兵力をもってしても容易には覆せない地の利を獲得した。
「言うなれば、この砦の攻略は、この戦の最大にして唯一の要。ここを手早く陥とせばロケィラが勝つし、ここを最後まで守りきればオルワナが勝つ。つまるところ、リスクを怖れない大胆な用兵が勝利への道筋だったわけだが……」
「ロケィラ軍は一枚岩とはほど遠かった。それは認めよう」