だのに、こうして戦争が始まっては、その立場も御破算。これだけでも大きな損失だというのに、このままオルワナが勝ってしまえば、なお酷いことになるのは自明だ」
海路が通るから、というのはつまりそういうこと。ロケィラを支配下に置いたオルワナは、もはやコーチアドを中継して貿易を行う必要がなくなる。さらに、ロケィラとオルワナが海路を通じて繫がるということは、もとよりオルワナの隣国であるギリェ・イゼンまでもがロケィラと通ずることになる。必然、コーチアドの儲けは大きく目減りするはずだった。
「短期的な視野で見ても損害は自明だ。しかし、これをさらに大きな視点で見ると、なお酷いことになる」
「……どういうこと、ですかな」
「惚けるなよ、分かっているのだろう。オルワナがロケィラを吞み込めば、東方五国の軍事バランスが大きく崩れる。残る二国にいや勝る戦力を得たオルワナは、いずれダマカスカ、ギリェ・イゼンをも倒しにかかるだろう。二国がオルワナに対抗するためには、同盟を結ぶしかないが、そうなれば間を挟むルグド山脈が邪魔をする。兵力を集中する度に山道を越えねばならない労を厭って、コーチアドを回廊として使えるよう二国が求めてくるのは想像に難くない。さて、レプト商会長。その時になっても、中立という理由で協力を断れるかな?」
レプトは答えなかった。激変する軍事事情の中で翻弄される己が国の様を、誰よりもはっきりと思い描いていたのはこの老人である。もはや疑問の余地なく、コーチアドは商都としての蜜月を終えようとしていた。今後とも生き残っていこうとするならば、また別の方法論が求められることになる。
「が、ここで朗報だ」
うってかわった悪戯っぽい口調で、クルァシンは分岐を口にした。おおよその内容が推測できていたレプトは、溜め息をついて首を横に振る。
「貴国を勝たせるよう取り計らえば、後の通商にも便宜を図ってくださる、ということであれば──残念ながらお断りさせていただきましょう」
「ほう?」
「実を申せば、同様の条件でオルワナからも誘いを受けておりました。陸からはコーチアド軍が、海からはオルワナ海軍が、それぞれロケィラを挟み撃てば、この戦の勝利は堅いと……しかし、それさえも我々は断りました。貴方が求めるのはここを経由しての進軍でしょう。であれば、失敗した際のリスクの点でより勝る貴国に与する道理がございません」
「まぁ、その通りだな。今のロケィラは傍目にも敗けムードだ。沈みかかった船に便乗しようとする者はいない」
セレィの視線が針となってクルァシンを突き刺したが、彼はそ知らぬふうに顔を逸らした。そうして一拍を置いた後、クルァシンは両手を首の下に組んで悠然と逆接する。
「が、しかし。沈みかかった船に自ら乗ることは無理でも、胡椒を一粒載せることにやぶさかではあるまい?」
「……どういう意味ですかな?」
「投資と投機のお話だ。成功率の低い案件は、それ相応の代償とリスクマネージメントを用意してこそ。たとい船が沈んで胡椒が一粒海中に没したとしても、そちらに大した被害はないだろう。しかし万一、成功した場合の見返りが莫大だとすれば? これは商売として充分理に適っている」
「具体的な案件を聞かせてもらえなければ、なんとも答えかねますな」
答え渋るレプトへ、にやりと笑みを浴びせて、クルァシンは囁く。
「実を言うと、当方はこれから敵地へ降伏に参るところでな」
隣でセレィがかっと両眼を見開いた。ますます胡乱な目つきになった商会長に、クルァシンは狸の囁きを続ける。
「こちらは進軍したいのではない。降伏のための特使を派遣したいのだ。いやいや、セレィが直々ナバザ砦に赴き、駐留軍の目前で白旗を上げれば済むことと、きっとお前はそう言うのだろうが、少しは事情を考えてみてくれ。そこなセレィは事実上最後の皇位継承者なのだ。となれば、向こうもわざわざオルワナ女王の御前で慈悲を請わせるよりか、速やかにその首を落としたほうが後々の面倒が少ないと、そう考えても無理はあるまい?」
「そういった交渉も、ナバザ砦で済ませれば宜しいことでしょう。後々のロケィラ統治にあたっても、使いようによって皇族は有益です」
ぷるぷると肩を震わせ、未だ経験のない恥辱に耐えるセレィを差し置いて、クルァシンは白々しく演技がかった説得を続ける。
「いかめしい軍人にそのような理屈が通じるものか。だから事情を考えろと言ったのだ。我らが最後の希望であるセレィ皇子を、万が一でも、功に逸った兵どもの手にかけさせられると思うのか? 女王に最後の慈悲を請おうというのが、そんなにも罪深いことか?」
「有角の民でない貴方にそう仰られても、今ひとつ説得力に欠けますな」
つるりとして凹凸のない額をちらりと見やり、レプトは辛辣に皮肉った。
「これは一本取られたな。しかし、俺はあくまで代弁者だ。今述べたことが、ロケィラ全国民の偽りなき本音であることは、理解していただけよう」
「もちろんですとも。ですがクルァシン殿、ただ降伏のために、貴方は何千の兵を送ろうというのですかな。セレィ様が心配なのはよく分かりますが、それでは降伏を装った奇襲を目論んでいると思われても仕方がありません。まして、オルワナ主力たる海軍は今頃海上にあるなれば……」
「誰が何千もの兵を送ると言った」
「え?」
「三百でよい。門前で待ちぼうけを喰らっている連中、あれだけでいいのだ」
その提案には、場の全員が意を測りかねた。ばかりか、セレィはいよいよ堪忍袋の緒を切らして、クルァシンに食ってかかった。
「ふざけるな! たった三百の騎兵で何ができる!」
「ああ、もちろん武器も全て置いていくぞ。降伏に武器は必要ないからな」
憤慨するセレィの頭を鷲摑みにして留めながら、クルァシンはさらに条件を連ねた。理解の範疇を越えた言動に、レプトは思考の海に吞まれて返事さえままならない。
「むろん、特使の代表は俺が務める。印璽を持参して、セレィに代わり慈悲を請うつもりだ。必要とあらばこの首とて差し出そう。この場にセレィを伴ったのは、ひとえに我々の誠意のほどを知ってもらうため。交渉を俺が代行しているのは、誇り高い彼女にこのような内容を口にさせることが、どうしても憚られたからだ」
しばし瞑目のなかで、レプトは考えに考えた──武器持たぬ三百の騎兵で何ができる? まさか本当に降伏するつもりなのか。いや、それにしては回りくどすぎる。どこかに陥穽があるはずなのだ。ここで三百の兵を通すことで、ロケィラを有利に導く何かが……。
「レプト、いい加減にしろ。お前がそこまで考えても思いつかないという時点で、通すための名目としては充分だろう?」
レプトは堪らず激高しかけた。オルワナに顔が立つだけの言い訳は用意してやったと、この若造は不遜にも言ってのけたのだ。わずかに三百の武器持たぬ騎兵……少なくとも名目上は降伏の特使……そんなものを通したところで、オルワナの勝利を早めこそすれ、いっかな不利益もあろうはずがないと……そういう名目が立ってしまうからこそ、レプトの老いたプライドは余計に刺激された。
「……分からない。何を企んでいらっしゃるのです、貴方は?」
「商会長、それは余計な勘繰りだ。今だけは馬鹿であったほうがいい。企みを知っていて通したのであれば、それはオルワナに対する不義となる」
「…………」
「まぁ、万が一の話──この特使の派遣と、なんら関わりはないが──これから未曾有の神風が吹き、ロケィラがオルワナに勝つようなことがあれば、事後のコーチアド商会にはこの返礼として、やがて始まるであろう海路を経由した通商の監督を任せよう。──これが、ぼろ船に載せた一粒の胡椒が金に化けた場合の話だ」
クルァシンの言い分には非の打ちどころがなかった。……とはいえ、レプトには未だ「断る」という単純にして完璧な選択肢が残されている。これがある限り、どれほど詭弁を連ねたところで暖簾に腕押しではないのか──少なくとも、横で聞いているセレィはそう疑っていた。
だが当のレプトからすればそうではなかった。彼からすればこの交渉、無下につっぱねることが必ずしも良い結果を生むとは限らない。敗戦ムード一色のロケィラでも、まだコーチアドと互角以上に戦う程度の戦力は残しているのだから。