ヤトリが優しく微笑んで尋ねると、少女は返答に困ったように口ごもり、「し、失礼した」とごまかすように謝って早足に廊下を去っていった。その背中を見送って、ヤトリが首をかしげる。
「何だったのかしら? まがりなりにも高等士官の候補生を乗せる船に、一般の旅客が居合わせているとは考えにくいんだけど……イクタ、あんたはどう思う?」
「んー、食用に適するまで残り五~六年、きっちり熟するまでは十五年ってところかな……」
「誰もあんたのストライクゾーンの下限なんか訊いてな──」
ヤトリのツッコミを、突然襲ってきた船体の激震がさえぎった。全員が一斉に体勢を崩し、手に持っていたカップの中身が残らずこぼれ落ちる。これまでの揺れとは明らかに一線を画する、それは波によるものではない深刻な「衝突」の震動だった。
「──何事!?」
同室の面々の中でいち早く体勢を立て直しながら、ヤトリが状況を分析にかかる。他方、トルウェイは仰向けに倒れかけたハロの肩を抱いて支え、最上段の寝台から落ちたイクタは、弾力に富むマシューの身体を下敷きにして、図々しくも無事でいた。
「おおマシュー、まさか身を挺して助けてくれるなんて……。乾杯しよう、僕らの友情に」
「うう……おまえなんて頭から落っこちれば良かったんだ……」
イクタを押しのけたマシューがようよう起き上がった頃、寝台で大人しくしていた精霊たちも緊急事態を察して動き出し、それぞれの主のポーチに収まった。全員が互いに怪我のないことを確認し合っていると、開いたままのドアから船員の叫び声が響いてくる。
「しょ、諸君、落ち着いて聞いてくれ! この船は船底を暗礁にぶつけて浸水を始めている! たった今船長から総員退艦の命令が下された! 動ける者は直ちにデッキへ向かい、水夫の指示に従って救命ボートに乗り込め!」
避難を指示する声は危機感にうわずっている。座礁、浸水、総員退艦──これらの単語から運命的に導き出される一つの結末を、絶望的なイメージと共に、その場の全員が同時に思い描いた。
「皆、聞いたわね! デッキに向かうわよ!」
だが、悲観的な予想を一瞬で跳ねのけて動き出した者も一人いた。ヤトリシノ・イグセムだ。
「慌てなくていいわ、私の後ろを一列になって付いてきなさい! 荷物は最低限よ!」
こういう状況で迷うことなく場を仕切ることができるのがヤトリという人間だ。緊急事態に直面して烏合の衆と化した集団を、即座に秩序付けるだけのリーダーシップが彼女にはある。そして彼女以外の面々も、この場面で烏合の衆に甘んじてはいなかった。
ヤトリを先頭にして階段を駆け上がり、デッキに出て行った彼女らを、豪雨と猛風の洗礼が出迎えた。大人の胴回りを越える太さのマストが風圧で軋みを上げ、その上では水夫たちが風を孕んでパンパンに膨らんだ帆を畳もうと命がけの作業をしている。すでに船体は平常から20度近く傾いており、そのうえ時刻は宵の口。闇に沈んだばかりの海面は、ぞっとするほど真っ暗だ。
「大時化ね……。この局面で悪天候のピークなんて、私たちも神様に嫌われたものだわ」
「誰の日頃の行いが悪かったのかな。心当たりのある人は手を上げてみて」
「考えるまでもなくあんた一択でしょ。これからは聖典をネタにしたジョークは慎むことね」
イクタと緊張感のない軽口を叩きつつ、ヤトリは集団の先頭に立ってデッキ後部へ向かう。そこには四艘の救命ボートが用意されており、うち一艘は水夫の手によって海面に下ろす準備が整えられていた。やって来たヤトリたちへ、船員からの指示が飛ぶ。
「来た者から乗り込め! 民間人のお前たちが最優先だ!」
「民間人」という響きに少しだけ不本意な表情をしたヤトリだが、そんな感傷もすぐに振り切って行動を再開した。ハロを一番に乗せて、それからマシュー、トルウェイ、イクタの順、最後に自分がボートに乗り込んでいく。
全員の身柄が収まったところで、イクタの姿を眺めた水夫が、すまなさそうに付け加えた。
「お前のパートナーは光精霊だな? よく聞け、座礁のせいで船員に負傷者が出ていて、今はまだこのボートに水夫を乗せてやれない。救命ボートは全て本船にロープで繫留してあるから流されることはないが、いよいよとなったら道連れを避けるためにロープを切らなければならない。その時は光信号で近くのボートに居場所を伝えてくれ。多少流されていても、必ず合流する!」
イクタがクスと共にうなずいたのを見届けると、水夫は繫留のロープを繰り出して、彼らを乗せたボートを海面に降ろしていった。荒れる大海原に放り出された小舟は、右へ左へと激しく揺さぶられ、乗り込んだ者たちを生きた心地にさせない。
「じょ、冗談じゃないぞ! 海がこんな荒れようじゃ、いくらボートで避難したって……!」
「マーくん、もう少し右に寄って! ベッケルさんは左に! 船全体で体重のバランスを均一にするんだ! この波じゃ、一度転覆したらもう二度と回復できない!」
ヤトリに次ぐ冷静さでトルウェイが指示を出し、マシューとハロが無我夢中でそれに従う。一方のイクタは、叩きつける豪雨の中、致命的に傾きつつある本船にじっと目を凝らしていた。
「どうしたのイクタ、いつもの減らず口を叩きなさいよ。あんたが黙るとゲンが悪いわ」
「君が僕の言動をジンクスにしていたとは知らなかったな。……それよりヤトリ、あの子だ」
言われたヤトリがイクタの視線を辿ると、ついさっき船室の前で出くわした少女が、デッキ上でこれから救命ボートに乗り込もうとする様子が目に入った。細い肩を震わせているのが遠目にも見て取れる。まさか一人旅という年齢でもなさそうだが、他に連れの姿は見当たらない。
「……あっ!?」
その瞬間、悲劇が起きた。横っ腹に波の張り手を食らった船体が激しく傾き、はずみでデッキの端に立っていた少女が海に向かって投げ出されたのだ。滞空は一瞬──悲鳴を上げる間もなく、小さな身体が黒い海に吞まれて消える。
かろうじてデッキに踏みとどまった水夫の一人が、浮き輪を片手に血走った目を海面へ走らせた。……が、遅い。助けを出そうにも、少女の姿はとっくに波の狭間へ隠れてしまっている。
「む、まずい。あれは死ぬ」
限りなく過去形に近い事実を呟いたイクタは、その場で立ち上がって上着を脱ぎ始めた。
「クス。まだあの子が見えているなら凝集光で照らしてくれ」
「イクタ、危険です。やめた方が……」
「頼むよ」
主の請願を受けたクスが、渋々といった様子で腰のポーチを抜け出してボートの端に立ち、腹部の「光洞」から強い光を放って海面の一角を照らし出した。続いてイクタは、船底に転がっていた救命用の浮き輪を抱えて、それに結び付けられていたロープの先端をヤトリに預ける。
「簡単に放したら化けて出るからな」
「ちょっ、あんた──!?」
ヤトリに考える時間を与えず、イクタは頭から海に飛び込んでいった。荒波に負けじと手足で水を搔き、凝集光の指し示す場所へとまっすぐに進んでいく。やがて真っ黒な海の中へ潜り込んでいった彼の背中を、ボートに残された面々は固唾を吞んで見守るしかなかった。
「………………ぶはぁっ!」
見ている側からは永遠にも感じられた十数秒の後、死体のようにぐったりした少女の身体を抱えて、イクタが海面に浮かんできた。ヤトリたちがほっと安堵の息をつく。
「もームリ、もー死ぬ! 助けれー!」
そんな間の抜けた悲鳴に応えて、四人が一斉にロープを引っ張り始める。今にも転覆しかねない揺れの中では、バランスを保ちながらボートに二人を引き上げるだけでも一苦労だった。