◇
怒りが頭を巡る。なぜ魔女に跪かなければならなかったのか。なぜ自分がそれをする羽目になったのか。原因となる魔女を睨みつけた。
「いやあ、いい顔だねえローグ君。やはり若者の苦悩は蜜の味だね」
目から涙をこぼすほどにミゼリアは笑っていた。ローグの肩をお疲れ様、とばかりに叩いてくるのでムカついて堪らない。
「絶対に後悔させてやる……」
「期待しているとも」
「くそ……というかお前だって若いだろうが。何が若者の苦悩だ」
「若く見えているなら何よりだね」
それでローグは気づく。
(そうか……魔女は歳をとらなかったな)
「まあそんなことはどうでもいい。約束を果たしてあげよう。おいで」
ミゼリアはスイッチを切ったように笑うのをやめ、壁の前に立った。
「『永遠の夜に残る死肉よ、塵となり消え失せろ』」
詠唱により魔術を行使する。現象が反応し、作用する。ミゼリアの前にあった壁が光り輝き、光の放射が収まると、黒い泥のようなものが壁から流れ落ちてくる。泥が流れきると、そこには落書きの消えた壁があった。
「こんなものかな」
「……お前、子供程度の魔力しか使えないんじゃなかったのか?」
魔力と魔術の関係は人形劇になぞらえられる。複数の〈人形〉に演技させるには、複数の〈手〉が必要になる。それと同じことだ。複雑な魔術を行うには、多くの魔力を込めなければならない。しかしミゼリアは子供並みの魔力でそれをやってみせたのだ。
「そりゃあ、私の魔力の扱いが優れているからさ。褒めてくれていいよ」
「……」
どうでもいい戯言を尻目に壁を見つめる。
壁には〈空間転移〉の刻印が刻まれていた。赤い線が幾何学的な模様を形作っており、その中にはローグの知らないものもあった。極めて精緻な刻印。が、しかし一部分に欠けがある。おそらく犯人が意図的にやったのだろう。これでは刻印も機能しない。
「……慎重な奴だ」
ローグは首を横に振った。
「……まあこの転移門が使えなくても良い。分析すれば行き先くらいはわかるはずだ」
「待てよローグ君。私が何者か忘れているのかい? 私は『魔女』だよ? 刻印の復元くらい行えるさ」
見るとミゼリアが片眉をあげ、微笑んでいる。
「本当か?」
「嘘吐いてどうするんだい? このままやってしまおう。さあ『地脈の狭間に流れ、溢れよ血潮』!」
ミゼリアの言葉が作用する。壁の刻印が赤く染まり、まるで生きているように脈動し始める。
(今度は復元魔術か……簡単に使いやがって)
「これで跳べるようになったね。さ、犯人の顔でも拝みに行こうじゃないか」
「少し待て。応援を呼んでくる」
言うとミゼリアに手首を掴まれた。なぜ?
「つまらないことをするなよローグ君。私たち、二人で捕まえよう。そっちの方が面白いだろ?」
嫌な予感がした。
ミゼリアの笑みが深くなる。
「おま――」
ローグが何か言う前に、ミゼリアが壁に向かって跳んだ。ローグの体も引っ張られ、次に目を開けると室内にいた。薄暗い。椅子とグレーのデスク。床には大量の段ボール箱。切れかけの蛍光灯がチカチカとしている。周囲の棚には見覚えがあり過ぎる『違法薬物』の瓶が所狭しと収まっており、そこら中から独特の臭いがした。
「なっ! お前らどうやって!?」
男がいた。ツナギ姿の肥満体。左手には瓶。
お互いの視線が交差する。
と、驚愕から何かを決断したように男の目が据わっていく。男は瓶を握ったまま、右手をポケットに突っ込む。引き出されたのは黒光りする拳銃だった。
照準がローグの頭に合わされる。
ローグはミゼリアへの怒りの言葉を噛み殺し、自分の手を握りしめた。
パアン。
炸裂音に合わせ、左に頭を振ると、背後にあった瓶が音を立て割れる。ローグは前方に踏み込んだ。ゼロ距離。肝臓に一発入れた。男の体がくの字に曲がり、声にならない声を上げる。そして、ぶるぶると細かく震え、天を仰いだ後、ローグの方にもたれかかってきた。急いで受け止めるも、がくんと膝が折れ曲がる。
「重――!」
気絶した男の全体重がローグにのしかかってくる。不自然な態勢で支えきれない。しかしいくら犯罪者相手とはいえ、地面に激突させる訳にはいかなかった。歯を食いしばりながら男を持ち上げ続けていると、魔女から声が飛んだ。
「おおーやるねえローグ君、巨漢を瞬殺とは。褒めてあげよう」
「お前! 見てないでこいつを床に下ろすの手伝え!」
「すまないね、私は非力なんだ。役に立てそうにない」
白々しい声が聞こえた。
「思ってもねえことを言うんじゃねえ!」
「本当にすまないと思ってるんだ。応援するから許してくれ。頑張れローグ君」
「くそったれがぁっ!」
腕と腿が悲鳴を上げるのを何とか耐え、男の背中を壁に預けさせる。ずるずるとローグはその場にへたり込んだ。
「はあ……はあ……」
「休憩している場合じゃないぞローグ君。せっかくの情報源だ。インタビューしなくては」
「手伝いもしなかったくせによく言うぜ……」
ローグは体を起こした。それから拳銃を回収し、安全を確保すると、目線を合わせ、男の頬を叩いた。
「おい、起きろ」
「……ああ」
男がうっすらと目を開ける。
「お前はこれからムショにぶち込まれるわけだが、その前に聞きたいことがある」ローグは言った。「クライムを殺ったのはお前か?」
男が目を逸らす。
「……黙秘する」
「時間稼ぎは無駄だぜ。現場からお前の所まで繋がってる刻印があるんだ」
「……」
ローグはため息を吐き、辺りを見回しながら、
「ここにあるヤクを押収したら、何年お前をムショにぶち込めると思う? だが真実を話せば、多少は融通してやる」
「……俺は知らない」
ローグは立ち上がった。揺さぶってみても男の顔に後ろめたさが出てこない。――ということはこいつじゃない。
「誰かを庇っているのか?」
「っ!」
男の反応が目に見えて変わった。額からあぶら汗が滲み出ている。ローグはデスク側の椅子を指し、
「そこの椅子、お前が座るにはやけに低いな。来客でもあったのか?」
「……知らないと言っている」
「何人と手を組んだ? 女か?」
「……」
男は目線を下げ、口を閉ざした。
これ以上は時間の無駄だ。
快楽犯罪者は多少詰めれば、すぐに自白する。だが、誰かを庇うために行われる犯罪は別だった。そういう奴は材料を固め、時間をかけて追い込まなければならない。もう抵抗しようがない――そう思わせるところまで行かねば、自白をさせることはできないのだ。
「今度こそ手伝えよ。こいつを署に連行する。取調べはあそこで行う」
ローグは言った。男を立たせると壁に刻まれた刻印に向かう。が、背後の魔女は付いてこなかった。
「おい、手伝えって言ってるだろうが」
「ふうむ、どうにも退屈だね」
「退屈だと?」
「もっと劇的に情報を得る手段があるだろう。たとえば拷問とか」
あっけらかんとした口調に眉が吊り上がるのを感じた。
「馬鹿言うな。そんなもの法律で禁止されている」
「法律ねえ、確かに大切だ。でもねローグ君」
と、魔女が人差し指を左右に振り、笑いながら言う。
「私がそれを守る必要はどこにもないんだよ。魔女だからね」
まるで敵意を感じさせず、釣られて笑ってしまいそうになるくらい朗らかな顔だった。薄暗いこの場に全くふさわしくない。しかし空気が変わったのが肌に伝わり、背筋が震え始めた。はっきりとした違いだ。自分の立っている場所がいつの間にか、処刑台の前に変わっているような、そんな飛躍を感じる。
魔女がしなやかな腕を天に掲げる。
そして、見せつけるように、
「さあ、ローグ君。人形劇の始まりだよ」
パチンと指を鳴らした。
「な、なんだこれは。何が起きてる!」
途端にローグの傍から悲鳴が聞こえ、振り向いた。
男の左腕がゆっくりと持ち上がっていくのが見えた。だがまるで見えない糸で吊っているかのようにぎこちない。操り人形のように、ぶらぶらと左右に揺れながら上昇していく。
「う、腕が! お前たちが何かしたのか!?」
男は右腕で左腕を押さえつけようとしているが、止まらない。それどころか――
「落ち着きたまえ、そんなに時間はかからないはずだよ。まあ君次第だけどね」
魔女の一声で右腕の動きもおかしくなった。
男の右腕は、顔の前まで持ち上げられた左手人差し指の爪を、先端から摘んだのだ。とても本人の意思でやっているようには見えない。嫌な予感が溢れ出す。
「お、おいやめろ! まさか」
青ざめる男に魔女が言った。
「まずは爪を剥ぐつもりだ。自分でちゃんとできるね?」
「や、やめ――」
ぶちん。
音がはっきり聞こえた。
「――――――――――――――――」
声にならない叫び。
男の目が見開かれ、顔中に汗がびっしりと浮かんでいる。ただ爪を剥がされたのではない。自分自身で剥いだのだ。その痛みは想像すらしたくなかった。気がつけば、ローグは魔女の方を睨みつけていた。
「……これ以上やめろ。監獄に送り返すぞ」
「ふうん?」
男の方に向けられていたミゼリアの視線が、緩慢にローグへと移る。にこやかな顔は変わらない。
「あともう何度かやれば、情報を吐いてくれそうじゃないか。それなのにやめるというのかい?」
「……最初からそんなこと頼んでいない」
「その方が効率がいいのに?」
「……いいからやめろ」
「捜査官のプライドという奴かい? ここには私たちしかいない。安心したまえ、君がそこの彼を犠牲にしてもバレやしないよ」
「……魔女の言うことは絶対聞かねえ」
「ふむ」とミゼリアが顎に手を当て、
「どうしてもダメと言うのかい?」
「……許可なんてやるか」
「ということは、君は彼を助けたいということなのかい?」
指を鳴らす音が聞こえ、ミゼリアの声音が変わった。低く、重い声に。
「それでは君の望み通りにしてあげよう」
同時に、ローグの体が動かなくなっていた。頭からつま先まで完全に硬直している。目線もずらせない。唯一閉じた口の中で唾だけが飲み込めた。
(やられた)
魔術をかけられた気配などなかったはずだ。
一体どうやって。
思考を巡らせていると、男がうずくまりながら震えているのが見えた。それから、背後に気配を感じ、頭上から魔女の声が降ってきた。
「君がこれから受けるものはね、そこの彼が受けるはずだったものだよ。説明してあげようか」
先ほどとは打って変わって楽しげな声と共に、視界にノコギリが映る。
「これで腕と脚を一本ずつ落とし」
電動ドリルが映る。
「お腹に穴をいっぱいあけて」
手斧が映る。
「最後に頭を割るんだ。これを肩代わりできるなんて君はすごい奴だね」
メニューの内容を聞いていくうちに、現実味がなくなっていく。自分は今、夢を見ているのではないだろうか。しかし一方でローグの頭は正常に働いている。これは魔女が実際にやっていることで、魔術の一種だ。人間を人形にする魔術。〈人形鬼〉の代表的な魔術。
考えるほどに逃げ場がなくなっていく。
せめてもの抵抗に舌を噛み切ろうと、口の中で、歯に舌を噛ませた時、
「ダメじゃないか、私のお人形さんなんだから」
口の中すら支配された。
魔女がローグの肩に顎を乗せ、横目で顔を覗いていた。まるで心を読まれたかのような反応速度だった。
「ちゃんと全部やりきろうね?」
耳元で魔女はそう囁いた。
魔女の言葉により、自分の右腕が勝手に動き出す。押し付けられたノコギリの柄を握る。左腕の肘関節に刃先を当て、上下に激しく引き戻すとジャケットごとシャツが裂け、金属の冷たさを感じた。
刃が肌に触れている。
次の瞬間、赤いビーズが軽やかに噴き出した。止まらない。どこまでもビーズは噴き出して、雨のように降り注ぎ、床の上を跳ねていく。一つ一つのビーズがしゃかしゃかと音を鳴らすのを聞いているうちにその音が誰かの声に切り替わった。
「わかった頼む! 喋るからやめてくれ!」
