「リーランド・スタンフォードの賭け、というものがある」
嗄井戸はそんな言葉から始めた。
「一八七〇年、エティエンヌという男が、走る馬の図を発表したんだ。それはとてもよく出来た版画だったんだけど、どの図も押しなべて『蹄のどれかは地面についている』って図だったんだ。肉眼で見たものをスケッチしただけだから仕方ないよね。でも、その絵は間違っているって批判した人間が一人いた。それが、当時のニューヨーク知事、リーランド・スタンフォードだ」
「へえ」
「スタンフォードは『馬は走るときに、四本の足を同時に地面から離して走る』と主張したんだ。人間のように、どこか一本が地面に着いていなくちゃいけないってことはないってね。後に引けなくなった彼は、このことを証明出来なければ、二万五千ドルを払うと約束した。けれど、証明出来たら逆に、二万五千ドルを支払ってもらう、とも」
「に、二万五千ドル?」
「今も勿論だけど、当時にしては途方もない大金だよ。そして、この賭けを判定する為に、天才写真家のマイブリッジという男が呼ばれたんだ。マイブリッジは走る馬の写真を連続して撮影し、出来上がった写真をスクリーンに映し出して、馬の動きを映像として『記録』したんだ。連続写真は滑らかに動画として走り出し、馬の脚は四本同時に地面から離れていたことを全員に納得させた」
「じゃあ、スタンフォードは賭けに勝ったんだな?」
「ああ。でも、この連続写真を撮り、スクリーンに投影するのにかかった費用はざっと四万ドルだったらしいからね。殆ど実入りにならなかったらしい。まあ、彼は殆ど執念で勝とうとしていたからね。金の問題じゃなかったのかもしれない」
「……なんとも言えない話だな」
「しかし、このときの連続写真は、映画の原型になったんだ。スタンフォードの賭けによって生み出された『動く写真』は映画の種と呼んでもいいだろう。そういうわけで、賭けというものは間接的に映画の発展に寄与したというわけなんだ。賭けが存在しなければ、映像の発展も大分遅れていたかもしれない」
「……で、つまりどういうこと?」
「僕は意外と、賭け事が嫌いじゃないんだ」
そう言って、嗄井戸は悪戯っぽく微笑んだ。そして、こう続ける。
「賭けるものは何でもいいんだよね? そして、それについてはお互いに文句を言わない。勝負を途中で降りようとしたら負け。公明正大、シンプルな賭けにしようじゃないか。あとはライターが必要だけど、部屋にあるかな……ちゃんとしたものが必要なら改めて買いに行かなくちゃいけないけど……」
「そんなんどんなやつでもいいって。一個くらいあるだろ。大丈夫、どんなんでも文句言わないって」
「そう? それならいいけど」
こうして賭けの詳細を詰めていく嗄井戸の目はキラキラと輝いている。なんだか素直に楽しそうだ。こいつのこういうところは好きだな、と思う。人生を楽しんでいるようでとってもよろしい。
「つまり、いいんだな」
「勿論、受けて立つよ」
嗄井戸がそう言ったのを聞いて、俺は密かにほくそ笑む。掛かったな、麗しの秀才。嗄井戸は俺よりずっと賢い。けれど、こういう子供っぽい提案にほいほい乗ってしまうあたり、まだまだ詰めが甘い、と思う。対人関係の何たるかを知らないから、こういうあからさまに裏がありそうな話に乗ってしまう。
「わー、楽しそうな賭けだね。よーし、ここは束ちゃんが、その勝負を見届けてあげる!」
部屋の端に優雅に佇む束が、そう言って軽やかに笑う。いけしゃあしゃあとそう言ってのける彼女には、後ろ暗さなんか欠片もなかった。つくづく恐ろしい相手だな、と思う。絶対に敵に回したくない相手だ。
俺は不自然にならない程度に、束に目配せをする。束は気付かれないよう軽く頷くと、にっこりと笑った。キュートな笑顔だ。
「公平に頼むよ」
嗄井戸は呑気にそんなことを言っていた。しかし残念ながら、今から始まるのは最初から最後まで完全完璧にイカサマの茶番である。余裕ぶったその顔が引きつるところを想像すると、ここ最近で一番満たされた気持ちになった。