「高久くんをぎゃふんと言わせたいと思ったことはない?」
事の発端は、矢端束のそんな甘言からだった。ちょっと話があるんだけど、と連れ出された先のカフェで、束が蠱惑的に笑う。にっこりと笑うその顔が何だかちょっと恐ろしくて、最初は警戒心を抱いた。けれど、『ぎゃふん』の響きの魅力的なこと! 二秒ほど躊躇ってから、ゆっくりと言った。
「……何だよ藪から棒に」
「イエスかノーかで答えて欲しいな」
「正直なこと言っていい?」
「もっちろん!」
「めっちゃ言わせたい……」
「だよねー」
束がけたけたと笑う。乗せられてしまったことは悔しいが、言わせたくないと言ったら嘘になる。相手のツボを心得ることはセールストークの基本だが、その点で矢端束は神がかっていた。甘言が鼓膜をとろかし、判断力を鈍らせる。
「実は、高久くんと喧嘩しちゃってさ、この前」
「喧嘩。なるほど」
「まあ一応仲直りしたんだけどさ、束ちゃんは本音と建前を上手に使い分ける系のエージェントだから、表ではそう言ったものの、まだちょっと怒ってるわけ」
「怖いんだけど」
「だからここらで一つ、高久くんをぎゃふんと言わせるべきかなって思ったの」
「どんなに悔しくても人はぎゃふんって言わないんじゃないか?」
「そこを言わせる作戦があるんだよ」
束が矢継ぎ早にそう並べ立ててくる。考える暇すら与えられないまま、ずぶずぶと引き込まれていくようだった。
「高久くんと勝負をするの。絶対にこっちが勝つ、イカサマの賭けでね」
「はあ、イカサマ」
「それで高久くんを負かして、何でも言うこと聞かせるって約束させるの! 賭けの代償としてはいいでしょ? ね、二人で協力して、高久くんにぎゃふんって言わせようよー!」
「……えー」
「いいでしょ! やろうよー! お願い!」
正直、本当にうまくいくのか? 感の強い話ではあった。実際問題、嗄井戸は結構賢い。その賢さに助けて貰ったことも、舌を巻いたことも、幾度となくある。その嗄井戸に何かを挑んで、すらっと勝てる気がしなかった。
ただ、そんなことは目の前の束だって承知のはずだ。それでもなお、こんな話を持ち掛けてきたってことは、何かしら勝算があるってことだろう。
「なんていうか嗄井戸って俺のこと馬鹿だと思ってるじゃん」
「うーん、まあ高久くんのところに来た理由が理由だからね」
「それを踏まえてもやっぱ、ぎゃふんとは言わせてみたくなるじゃん」
「わかるよ奈緒崎くん。私たちは一度高久くんのぎゃふんを聞かなければだよ! あの澄ました顔を歪ませ、束ちゃんの天下を取り戻さなければ!」
最終的に取り戻されるのは束の天下だけになっている気もするが、確かにいつも澄ました顔をしている奴がしてやられているのを見るのは、この上なく面白いだろう。それに、俺に比べて束の方がずっと嗄井戸に迷惑をかけられているだろうし。
フリーエージェントとして世話を焼いている束は、引きこもりの嗄井戸高久にとっていなくてはならない存在である。当然嗄井戸との付き合いもそれなりのはずであり、長い付き合いであるからこそ腹に据えかねることもあるだろう。束は女子高生ながら、懸命に艱難辛苦を耐え忍び、どうにかこうにかあの男のところで働いているのだ。その暴虐を思うと、やっぱり嗄井戸をぎゃふんと言わせねばならぬと思ってしまう。
「そうだよな! よし、俺達で存分に嗄井戸のやつを叩き潰してやろう!」
「奈緒崎くんが乗り気になってくれて、私もスペシャル嬉しいよ。それじゃあ作戦を説明するね」
そう言いながら束が取り出したのは、一枚のDVDだった。ベルボーイらしき男を中心に、身なりのいい男やセクシーな女性たちが写っている。タイトルは『フォー・ルームス』。何だか聞き覚えのあるタイトルだった。
「束の好きな映画か」
「ザッツライト! ご存知の通り、私が大好きな映画なんだけど、今回はこれを使います」
「DVD? どうするんだ?」
「フォー・ルームスは四話構成からなるオムニバス形式……ここでいうショートフィルムが四つ繋がっている形式のことなんだけど。その四話目に、とある賭けが出てくるんだよ」
「賭け?」
「シンプルな賭けだよ。ジッポライターを使って、十回連続で着火出来たらその人の勝ち。出来なかったら負け。勝ったら賞品として高級車を手に入れられるけど、負けたらその代わりに指を切られる」
「は? 指?」
「でも、換金すれば数千万円の高級車だからね。指一本の代償にしては破格じゃないかな?」
俺は自分の指を見ながら、束の言葉を考える。確かに、数千万の高級車ともなると結構な年月汗水垂らして働いても手に入るか怪しい。ジッポライターを十回連続で着火させるのが実際どれだけ難しいのかはわからないが、これだけ聞くと割のいい賭けのようにも思えてしまう。
「元々はヒッチコックの『南部から来た男』のパロディなんだけどね。このジッポライターの賭けは結構有名なんだよ」
「で、もしかしてその賭けを嗄井戸に持ち掛けろってことか? 映画観た流れで?」
「察しがいいね、奈緒崎くん。まあ、私の考えなんて大体わかっちゃうか」
そう言って、束がテーブルの上にあるものを置いた。何の変哲も無い、小さな銀色のジッポライターである。
「というわけで、奈緒崎くん。これ、十回連続で点けてみて」
「指は飛ばされないよな?」
「ふふ、さあ早く」
鼓膜を撫でられるような甘い声でそう囁かれて、俺は仕方なく左手にジッポライターを持った。ちゃんとしたものなのか、意外と重量がある。蓋を開けて、フリント・ホイールに指を掛けた。
一、二、三、……と軽妙にカウントが重ねられていく。カチ、カチ、という音に合わせて、小さな火柱がはっきりと現れ、消える。これ、もしかして十回なんて簡単じゃないのか? と思った瞬間、カチ、という音が空回った。火柱も上がらずに、ウィックはただただ沈黙していた。
「残念、記録は九回だね。高級車獲得ならず、ペナルティとして指が回収されちゃってたかも」
束がにっこりと微笑む。それを聞いてぞっとした。これがもし本当の賭けだったら、俺の指はあっさりと切断されていたかもしれないのだ。俺は思わず、ライターを持っていない方の右手をぎゅっと握る。
「あはは、でもごめんね。別にこれは奈緒崎くんの腕とか運が悪いとかいうわけじゃないんだよ。これ、イカサマだから」
「イカサマ?」
「そう。このジッポライター、絶対に九回までしか着火できないようになってるの」
束は俺の手からひらりとライターを奪い去ると、自分の目の前にモノクルよろしく掲げて見せた。
「作戦はこう。私がこのライターを高久くんの部屋に仕込んでおく。どうせ高久くんは部屋の中をアクティブに歩き回るタイプじゃないし、あれだけ物が多い部屋だし、ライターの一つがあってもおかしくないよ。この賭けを再現するってなったら、高久くんはライターが無いかなって探すだろうから、その隙に私が引き出しからこのライターを取り出す! 高久くんは何の疑いも無くこのライターを使って賭けをするだろうね」
「そんな上手くいくもんか?」
「勿論。何せ、あの部屋をいつも片づけてるのは私だしね。家主よりも細部を知っていると言っても過言じゃないと思うよ」
「まあ確かに……で、上手く『フォー・ルームス』を観せる方法は?」
「そんなの奈緒崎くんが言えば一発だよ! あの奈緒崎くんが自分から映画を観たいって言うのなんか珍しいし、言えば絶対観せてくれると思うよ!」
「確かにな。あいつ意外とそういうとこチョロいっていうか……」
「ね? いけそうな気がするでしょ? 外ならぬ奈緒崎くんだからこそ使えるアイデア!」
束はもうすっかり勝てる気満々のようで、ガッツポーズまで決めている。
「本当に大丈夫か? それに、俺が着火役に回れって言われたらどうするんだよ」
「そのときも心配要らないよ。私が上手く誘導してあげる。矢端束の弁舌巧みなこと、舌が回り出すと、矢も楯もたまらぬってとこだよ! それに、私を味方につけたら、負ける気がしないでしょ?」
甘い言葉だと思った。人ならざるものに魅入られたときはこんな気分になるんじゃないかと思う、何とも言えない陶酔感。錯覚には違いないだろうが、俺には何だか束が勝利の女神に見えてしまっていた。一人じゃ絶対に敵わないだろう嗄井戸に、束となら勝てるんじゃないかという気になってくる。
「よし、やってやろうぜ!」
「そうこなくっちゃ!」
俺達は華麗にハイタッチを決めると、約束された勝利に笑い合った。二人で組んで、嗄井戸のことを少しだけからかってやる。そのことでこんなに愉快な気分になっているのが不思議なくらいだった。