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「あ、この映画の前売り、特典付きだったんだ」
事の発端は高久くんのそんな一言だった。ハッとしたようにそう呟いては、思い出したように私のことを見る。その目が「どうせ無理だろうな」という気持ちを滲ませながら、じっと言外の期待を投げていた。そう素直な反応をされると困ってしまう。私も真摯に打ち返すしかなくなってしまうじゃないか。
「絶対嫌だからね」
「だよねー……」
「だって、個数限定の特典付きなんて絶対朝から並ばなくちゃいけないでしょ? 札束積まれてもお断りしたくなっちゃうな」
「……こう、フリーエージェントの特別任務として……」
「生憎だけど、束ちゃんは美学を持ったフリーエージェントだからね。そういう牛乳とアンパンが似合いそうなお仕事はお断りするの」
高久くんの眼前にびしっと指を突き付けて、華麗にそう言い放つ。高久くんは諦めきれないのか、まだ不満そうに口を尖らせていたけれど、そのまま怒られた子供みたいに大人しくなった。
そもそも、と思う。高久くんは外に出られない。『前売り券』なんて本来無用の長物だ。どうせ使われないことが決まっている予約票。少し前の高久くんなら、きっと目を向けようともしなかったはずの代物なのに。特典目当てとはいえ、高久くんはそれを欲しがっている。自分では意識していないのだろうけど、その変化は一体どういうことだろうか。
ともあれ、朝から並ぶのは流石にご遠慮願いたい。私だって花の女子高生だし、賃金ないし事件解決の対価として差し出すのは買い出しであり掃除の約束だ。早朝勤務は範疇に無い。
そこでふと、この部屋に出入りするもう一人のことを思い出した。
「あ、それこそ奈緒崎くんに頼めばいいんじゃない?」
「あー……でも、意外と奈緒崎くんって僕のお願い聞いてくれないんだよね。結構面倒臭がりなとこもあるし。そんな奈緒崎くんが朝から並んでくれるとは思えない。天地がひっくり返っても無い」
言われてみればその通りだ。彼は雇われている身じゃない。単に高久くんのところにいるのが楽しくて来ているだけの単なる同窓生だ。言うことを聞く義理なんかない。
何せ、奈緒崎くんは高久くんのお友達なのだ。
「でも、その言葉でいいことを思いついたよ」
高久くんがうって変わってにっこりと笑う。悪戯っぽいその笑顔のまま、高久くんは今しがた思いついた計画の全容を話し始めた。私が高久くんと喧嘩したことにして、奈緒崎くんに『高久くんを嵌める賭け』のことを持ち掛ける。そうして、自分を嵌めようとしてくる奈緒崎くんのことを、逆に騙してやるのだ、という計画だった。
「でも、束ちゃんがジッポライターを取り出す前に、僕は予め用意していた大量の『まともに火の点かないライター』を出すから。奈緒崎くんは絶句するだろうな……。そしたらきっと、あの性格上、奈緒崎くんは自分が着火役をやるって言い出すだろうね」
「ねえねえ、それ、奈緒崎くんが着火役を志願しなかったらどうするの?」
私がそう尋ねると、高久くんは何も持っていなかった右手の中から、小さなコインを取り出してみせた。簡単な手品だ。けれど、注視していなかったら、まるでそれは突然宙から取り出されたように見えるだろう。
「そうしたら、袖口に仕込んでおいたちゃんと着火するライターを使うさ。火力も十分のしっかりした奴を用意しておけば、僕の失敗はありえない」
高久くんは自分の思いついた計画にご満悦のようで、ソファーの上でいつものぬいぐるみと戯れている。
「正直さあ、奈緒崎くんって結構僕に対して、容赦もしくは遠慮、またはその両方がないときがあるだろ? だから、ここらで奈緒崎くんのことを一回懲らしめたいんだよ。奈緒崎くんをぎゃふんと言わせた上で、言うことまで聞いてもらえる! 一石二鳥だと思わない?」
「なんだかスペシャル楽しそうだね」
「正直な話、一度ぎゃふんて言わせたいんだよね」
真剣な顔で高久くんがそう話す。そう真剣な顔で言うようなことでもない気がするけど、本人は至って本気みたいだ。
「どんなに悔しくても人はぎゃふんって言わないんじゃないかな……」
「いや、言わせる! 束ちゃん、これなら協力してくれるよね?」
「まあ、別に構わないけど……」
私は面倒なことを回避できるし、高久くんは欲しいものが手に入る。それに、ちょっと面白いし、高久くんは楽しそうだ。
「あ、でも、奈緒崎くんがイカサマに乗らなかったら? 高久くんのことを騙すのは可哀想だとか言ったら……」
「……奈緒崎くんがそんな殊勝なことを言うと思う?」
「ごめん、言わないと思う」
「そうと決まったら早く準備しないとだね……」
そう言いながら、高久くんが楽しそうにソファーから降りて、雑多に物の溢れる部屋を物色し始めた。普段はあまり動かないのに、こういうときの動きだけはやけに俊敏で、なんか現金だなあ、と思う。それでも、その横顔が思いの外穏やかで幸せそうなので、私は少し嬉しくなる。今までには無かった表情だ。これからは、意外と沢山見られそうな表情だ。
(了)