キネマ探偵カレイドミステリー 特別版2



 束の計画は首尾よく進んだ。

 俺が「『フォー・ルームス』を観てみたい」と言うと、嗄井戸は大きな目をパアッと輝かせて、楽しそうに再生にかかった。何とも呆気なさすぎる。無邪気極まりないその様子に、ちょっとだけ罪悪感を覚える。でもまあ、嗄井戸が喜んでる姿なんて珍しいものじゃないしな。してやられてるところを見せてもらった方がこちらとしても楽しい。

 そうして観た『フォー・ルームス』は、束が好きだと言うだけあって、結構面白かった。客が魔女だとかいう荒唐無稽な話に、浮気相手と間違えられて殺されかけるベルボーイ。我儘放題の悪ガキの話や、例のジッポの賭けの話。ショートフィルムになっているから、観やすくてオチもはっきりしているから、飽きがこないのもいいところだ。

 嗄井戸の方も時々声をあげて笑っていたりなんかして、何とも幸せそうに映画を観ていた。これからどんな運命が待ち受けているかも知らずに楽しい時間を過ごしている嗄井戸は、普段よりずっと無邪気に見える。俺は悟った。誰かを慈しむ為には、余裕が一番必要なのだ。

 そして、話は冒頭に戻る。映画を観終わった後に「あの賭けをやってみないか?」と、さりげなく提案すると、上機嫌な嗄井戸は意気揚々とリーランド・スタンフォードの話をし始めた。こういうときの嗄井戸が、案外流されやすいことに感謝する。蘊蓄を語り終えて、気分もすっかり上々のようだ。

「じゃあ、オッケーってことでいいんだな?」

「勿論! さっきからそう言ってるじゃないか」

嗄井戸ははっきりとそう言った。めでたく言質を取らせて頂いたわけだ。後ろに控えている束も、事の次第に微笑んでいる。何せ展開が美しすぎる! 事が思い通りに運ぶのはなんて楽しいんだろうか。俺はニヤつきを抑えながら、いけしゃあしゃあとライターについて尋ねようとした。そのときだった。

「ちょっと待って。もう賭けは始まってるんだろ? それなら何かを忘れてない? 奈緒崎くん」

「あ? 何かって何だよ。今更怖気づいたってことじゃないだろうな?」

「滅相もない。ただ、賭けるものをまだ決めてないと思ってね。指の一本、車の一台に匹敵するものを僕らも決めないと」

 嗄井戸が芝居がかった口調でそう言い放つ。とはいったものの、まさか本当に指を差し出せとは言わないだろうし、賭ける車も無さそうだ。それなのに、何だか少しだけ嫌な予感がする。

「それじゃあ、俺が買ったら、お前は何でも」

「そうだね。差し当たって、十万でどうかな」

 俺の言葉を遮るように、嗄井戸がさらりとそう告げる。こちらを見つめる対戦相手の目はいたく真剣で、口から発せられた『十万』という言葉にはそれなりの重みが感じられた。結構な面倒事を解決出来そうな、大金の重みだ。

「…………は?」

「僕が負けたら、君に十万円を進呈しよう」

「十万……」

 冗談を言っているようには見えなかった。車よりも指よりもマシな代物ではあるが、およそ俺の範疇には無いような金額の話だ。一瞬、束と話した段取りの全てを忘れそうになる。今からやる全てはイカサマだ。台本のある小芝居でしかない! それで十万円を取るのは流石に、なんていうか、重い。そもそも、目の前の男は何を考えて十万円なんて引き出してきたんだ? 俺はなるべく動揺を顔に出さないようにして、どうにか言った。

「……俺、そんなに金ないんだけど」

「別に賭けるものは必ずしも同じじゃなくていいでしょ? 指と車みたいにね」

 嗄井戸が不思議そうに首を傾げる。軽く唇を尖らせたその顔を見て確信した。お友達の少ない嗄井戸高久くんは、きっとこういうおふざけの相場を知らないのだ! だから易々と十万円とか言えてしまうのだろう。空気が読めないとか金銭感覚が狂っているとかじゃなくてそういうのが全然わからないだけなのだ。

「いや、待て嗄井戸。こういうのはだな」

 すかさず価値観の修正に入る。俺は嗄井戸に「ぎゃふん」と言わせたいだけだ。何も大金をふんだくろうというわけじゃない。モラルの断崖に立たされるのは、ちょっとご遠慮願いたいのだ。けれど嗄井戸は何も察することなく、首を傾げる方向を変えただけだった。見慣れた白い髪が合わせて流れる。

「何?」

「だから、こういうのはそんな洒落にならない金額をだな」

「へえ、それじゃあ君は、負けを認めるってことか」

洒落にならない金額を取り下げようとする俺に対し、嗄井戸はつまらなそうな声で言った。玩具を取り上げかけられた子供のような表情で、言外に俺を批難している。

「はあ? 何でそうなるんだよ」

「最初に言っただろ。何があっても降りた方が負けだって」

 そういえば、そんなことを言っていたような気もする。でも、これはちょっとそういう問題じゃないんじゃないだろうか。引っかけ問題のような話に唖然としている俺を前にしても、嗄井戸は断固として引こうとしていない。まっすぐに俺のことを見つめている。

 どうしたものかと引き攣る俺に、そのとき不意に救いの声が降りた。

「駄目、奈緒崎くん。これは罠だよ。動揺しないで。まったくもう、高久くんの方も、こういうところで勝とうとするの、ちょっと大人気ないんじゃないかな」

「わ、罠?」

「ポーカーと同じだよ、奈緒崎くん。下手に大きいリターンを出されると、委縮するでしょ? 本当に勝ってもいいのかなって思っちゃうでしょ? 思わせぶりな態度を取られ過ぎても、案外奥手になっちゃうでしょ? 世の中に遍くそれらは全部罠なんだって」

「そうか……わ、罠……」

 すっかり裏返った声でそう繰り返す。すると、さっきまで飄々としていた嗄井戸が、不意に束のことを見て、訳知り顔で頷いた。けれど、さっきと違って目が笑っていないように見える。

「へえ、束ちゃんがついてるのか。最近奈緒崎くんに随分甘くない? まあ、君が付いているからといって、僕の勝利は揺るぎないけど」

「私は別にどっちに肩入れするってつもりもないよ。ただ、このままだと高久くんのブラフ一つで奈緒崎くんが負けちゃいそうだから、公平を期す為に言っただけ。奈緒崎くん、勝負はもう始まってるんだからね。高久くんも、絶対に逃がさないんだから」

「今更降りるつもりはないさ。でも、奈緒崎くん。君も相応のものを賭けてもらうよ」

「勿論! でも、奈緒崎くんは絶ッ対に負けないからね!」

 俺が何か言う前に、束がそうびしっと宣戦布告を決める。にわかに嗄井戸VS束の様相を呈し始めた部屋の中で、俺は息を呑んだ。さっきまでのスムーズな進行が失われてしまっている。どうして俺がこれに巻き込まれてるんだろうか。自分に明確な被害が這い寄ってくる段になってようやく、イカサマに加担しようとしたことを反省する。けれど、もう後には引けなかった。

「そうだ! 今の俺には勝利の女神が微笑んでんだよ! お前には悪いが、ここは十万貰ってやるよ! ……で、万が一、億が一、俺が負けたときはいくら払えばいいんだ……?」

「別に君に金銭なんか期待しないさ。その代わり、きっちり取り立てさせてもらうよ。君自身でね」

 そのとき、背筋を冷たい汗が流れた。負けることなんかあり得ないはずなのに、まるでギロチン台に掛けられるときのような気分だ。……負けることなんかあり得ない、とか思ったときに限って裏切られるやつってなんて言うんだっけ? フラグ? ちょっとそれは、ご遠慮願いたい。

「そうだな。もし僕が勝ったら、君は一日僕の言うことを聞くんだ。いい? 僕がワンと言えって言ったらワンと言ってもらうし、ぎゃふんと言えって言ったらぎゃふんだ」

「……ぎゃふんって言わせるだけじゃないよな?」

「君のぎゃふんに十万の価値があるとでも?」

 ちょっと聞いてみただけなのに、嗄井戸の言葉に冷たく両断されてしまった。

「ああ、別に気にしなくていいよ。僕は『僕が奈緒崎くんに負けるはずがない』っていう自信に十万円を賭けているわけであって、君の一日が十万円に値するなんて元より思ってないからね」

 挑発する為なのか、嗄井戸がそう言ってせせら笑う。それを見て、俺の方も、こいつを負かしてやりたいと切実に思った。その麗しい顔を歪ませて、俺と束の天下を取り戻さなくちゃならない。俺の方も、びしっと人差し指を突き付ける。

「いいか、俺はお前から絶対十万ぶんどってやるからな……泣いても喚いても絶対赦してやんねえぞ……」

「それは結構」

「奈緒崎くん、ボッコボコにしちゃえー!」

「束ちゃん。もう露骨な肩入れを隠さなくなったね」

「それはそうとして、この部屋ジッポなんかあるのか?」

 嗄井戸の言葉を遮るように、そう言って、束の方を見る。ここですかさず例のジッポを取り出し、俺達に渡せばミッションコンプリートだ。最早勝ったも同然である。さあ今だ、と言わんばかりに束に目配せをした瞬間、思いもよらない方向から声がした。

「あるよ」

 そう言って嗄井戸は、すっくと立ち上がり、毛布を引きずりながら近くにあった棚の方へ向かった。普段からは想像も出来ないくらい俊敏な動きだ。そして、いかにも上等そうな赤い袋を持ってくる。予想してた展開と違うぞ? と思うより早く、嗄井戸が袋の中身をひっくり返した。

血のように赤い袋の中から、ざらざらと大粒の石のような何かが雪崩れ出てくるのが見える。ざっと二十以上あるだろうか。

「さて、奈緒崎くん。僕はどれを使おうかな。あるいは君は、どれを使う?」

 そう言いながら、嗄井戸は長い指でその中の一つを摘まみ上げた。複雑な模様の中に、小さな十字架が彫られている、銀色のジッポライターだった。正直、頭を抱えたくなってしまう。よりにもよって今ここで大量のジッポライターを出してくる、なんて展開を誰が予想出来ただろうか。よくもまあそんなに集めたものだと思う。

「全部見た目だけのレプリカだけどね。これは映画『コンスタンティン』でキアヌ・リーブスが使用していたものと同じライターなんだ。勿論、ちゃんとした実用品だよ。当然『フォー・ルームス』で使われたものもあるし、『マレーナ』で男たちが挙って火を差し出したシーンのライターもあるよ」

 一つ一つライターを取り上げながら、嗄井戸がそう語る。豪華絢爛な彫り物がされたライターもあれば、シンプルで小さなものもある。コレクションを久しぶりに他人に見せられて気分がいいのか、嗄井戸は楽しそうにジッポライターを選んでいた。反面、俺は卒倒しそうな気分である。もうポーカーフェイスもクソもない。救いを求めるかのような気分で束を見ると、束の方も唖然とした顔を晒していた。アフレコするなら「スペシャルヤバい!!!!!!!!!」だろうか。今更そんな顔をされても困る!

 これで、嗄井戸の自信の正体も明かされた。豪奢で高級そうで、折に触れてちゃんと手入れされていそうなコレクション。十回連続で着火するのがとっても簡単そうな数々だ。

ライターなんか持っていなさそうな男だが、小道具なら話は別だ。好きなものを沢山閉じ込めた愛すべき城の中に、コレクションの名目で持ち込まれたジッポライターたち!

 束の計画は持ち込まれた時点で破綻していたのだ。何が完璧な計画だ! ザルにも程があるだろフリーエージェント!

 けれど、乗ってしまった俺に責任があるのも否めない。嗄井戸のことを打ち負かせるかもしれない、という考えに取りつかれて、俺はかなり浮かれていたのだ。

正直な話、束は俺が負けようと特に関係が無いが、俺の方にはわかりやすい罰がある。さっきの嗄井戸の、悪魔のような顔を思い出す。断頭台の想像が俄に現実味を帯びてくる。

「どうしたの奈緒崎くん。何だか顔色悪くない?」

「……んなことないですけど。手に入れた十万円を何に使うかについて考えてただけなんですけど」

「ふうん。……まあ、どうでもいいけど、さっさとどっちか決めてよ」

「は? どっち?」

 不意に投げかけられた疑問に思考が止まる。どっちって、つまりどういうことだ?

「だってまだ、どっちが着火役か決めてないだろ?」

 嗄井戸が不思議そうにそう言ってくる。それを聞いてハッとした。密かに息を呑む。

そうだ、そうだった。俺は例のイカサマが頭にあったから、自然と嗄井戸が着火する側だと思い込んでいたが、別にそういうわけでもないのだ。嗄井戸は多分、単に自分のコレクションを見せつけたかっただけで、必ずしも自分が着火するものだとは思っていない。だから、今更どっちが着火役に回るかを尋ねてきたのだろう。

つまり、純粋なギャンブルとしてなら、まだ勝つチャンスはある。イカサマは出来なくなったが、ギャンブルならまだ出来る。それに気付いた瞬間、俺は咄嗟に手を挙げた。

「俺がやる! 着火の方!」

「ふうん。まあ別にいいけど」

 特に何の感慨も無さそうな声で、嗄井戸が言った。一体、どうしてこうなってしまったんだろうか。ただただちょっと嗄井戸のことを嵌めてやろうとしただけなのに、一世一代の大勝負の始まりだ。当初の予定は大幅に狂い、どういうわけだか俺は大量のライターに向き合わされている。俺の今後を占うそれらは、あまりにバラエティに富んでいて、どれが正解かわからない。

 着火役に回ったのは、何となくそっちの方が向いているような気がしたからだ。映画好きの嗄井戸のことだから、レプリカとはいえライターだってそれなりに良いものを揃えていることだろう。だとすれば、あとは個人の手先の器用さに拠るはずだ。

 カフェでチャレンジしてみたときのことを思い出す。コツはいるが、正直そう難しいことのようにも思えなかった。細工されたライターじゃなかったら、十回の着火に成功していたんじゃないかと思う手応えだった。それなら、いけるかもしれない。

 三分ほど悩んでから、ようやく俺は沢山のライターの中から一つを手に持った。まっすぐに嗄井戸のことを見て、挑戦的に掲げて見せる。

「じゃあこれ、借りるな」

「へえ、一応それを選んだ理由を聞いてもいいかな?」

 俺が選んだのは『マレーナ』に出てきたらしい、シンプルなライターだった。俺はそのシーンの最中、堂々と寝こけていたので実際に観たことはないんだけど。

「お前この映画好きだって言ってただろ。だから、一番手入れされてるんじゃないかと思ったんだ」

「……へえ」

 嗄井戸が意外そうな顔をする。さっきまで何が何やらわからぬような敵意に漲っていたのに、不意に雰囲気が柔らかくなったような気がした。ギャンブル仕様で皮肉気に彩られていた表情がいつものものに戻る。このまま賭け自体無かったことにならないかな、と馬鹿なことを思いながら、フリント・ホイールに指を掛けた。

「いくぞ」

「いつでもいいよ」

「頑張れー奈緒崎くん!」

 束の切実な応援を背に、親指に力を込めた。カチッという音と共に一回目の火柱が上がる。ささやかだけれど、綺麗なものだった。嗄井戸がリズムよくカウントダウンを始める。

「はい、一回、二回、……あ、三回目で失敗」

「えっちょっ、今のナシで」

「はい、チャレンジ終了。まさか三回目で失敗するとはね。はい僕の勝ち」

「ちょっ、えっ、もっかいとか無い!?」

「あるわけないだろ。指が飛ばなくてラッキーだったね、奈緒崎くん」

 勝負は物の数秒で終わった。一回目の火柱が上がり、二回目が上がり、三回目でいきなり不発に終わった。嗄井戸の無慈悲な宣告を受けて、手の中のライターが途端に所在なさげに見える。開始数分で寝落ちた俺へ『マレーナ』の復讐だろうか。それにしても、あまりに呆気無さすぎる!

束はしれっとした顔で「えー、大変遺憾に思います」とのコメントを発していた。遺憾に思うどころの話じゃない。俺は床に崩れ落ちると、心の底から言った。

「殺してくれ……」

「残念だったね奈緒崎くん。まあ、今回は君に運が無かっただけの話だ。気に病む必要はない」

 果たして何をさせられるんだろうか。指が飛ばなくてラッキーだったと嗄井戸は言ったが、果たして本当にラッキーで済むお話なのか?

 そのとき、敗北者らしく床に蹲る俺に対し、嗄井戸が妙なことを言い放った。

「口を使う誘惑方法は、何も口付けだけじゃない。これに懲りたら甘言に惑わされないことだよ、奈緒崎くん」

 キザったらしい言い回しだったが、何故か妙に引っかかる。そのとき、束が小さく笑ったような気がした。今回の話を持ち掛けてきて、勝利を約束してくれたキュートなフリーエージェント。

 そう、全ては矢端束の甘言から始まったのだ。

 嫌な予感に震える俺に、嗄井戸が笑顔で声を掛ける。

「それじゃあ奈緒崎くん。とりあえず『ぎゃふん』って言ってもらおうか」