錆喰いビスコ



  5 


「動くな」

 うなじにひやりとした殺気を感じ、ビスコは思わず動きを止めた。

「人質を置いて、諸手を上げい」

 弓で狙われているらしい。これまでとは段違いの熟練の気配に、ビスコの表情が引き締まる。

 パウーとの戦いでずいぶん時間を稼がれてしまい、他の自警団が集まる気配を感じ取ったビスコは、蜘蛛の巣のような下町の道を走り、ジャビを置いてきた地下道へ急ぐ途中であった。

 保険に、人質として眠るパウーの身体を抱えてはいるが、どうやら自分を狙う気配は相当な手練れのもので、小手先の駆け引きが通用する相手とは思えない。

 ビスコは言われた通り人質を置き、ゆっくりと両腕を上げて……

 だん! と、地面を蹴り砕いて飛び上がる。飛び上がりざまに引き抜いた懐の短刀を閃かせ、ぎゅるりと身体を捻り、殺気の主の首元めがけ振り抜いた。

 ぎいん!

 必殺の一刀が、同じく短刀によって防がれる。その、短刀越しにぎょろりと光る眼を見て、ビスコは叫びかける自分を慌てて抑える。

「……っ、あ……!」

「ウヒョホホ! 病み上がりのジジイに、容赦ないのォ」

「ジャビっっ!」思わず目を見開いて、叫ぶビスコ。覆面を剥いでげらげらと笑う師匠に、ビスコははじめ言うべき言葉を見つけられず、口をぱくぱくと動かすのみであった。

「う……動けるのか!? 傷はどうした!?」

「んやあ、この通りよ。弾ァ六発、入っとったらしいぞい」

 ジャビは言いながら、服の腹のあたりを捲り上げて、その縫い傷をビスコに指し示した。

「……てめえ、くそじじいっ! 結局、死に損なうなら、最初から元気にしてやがれッ!」

「ばかいえ、あんなん死ぬと思うわい。あのパンダ小僧の腕がなかったら、ワシもここまでじゃったろな。でもさあ、生きてるワシもワシで、すごくない?」

「……ばかやろう……あんな、遺言みたいな事、言うから。俺はっ……!」

 強面をくしゃりと崩し、こみ上げるものを必死で堪えるビスコ。

 猿のように裏路地を跳ね駆けるジャビを追いかけて、そこでようやく追いついてきたミロは、そのビスコの表情を目の当たりにして、思わずびくりと立ち止まった。

 人喰い赤星の流す涙は、この凶暴なキノコテロリストの胸の奥に息づく、暖かく少年らしい優しさをミロに感じさせ、その頬をわずかにほころばせた。

「……ミロ。お前、やってくれたのか」

「いえ! できることをしただけです。赤星さんの、アンプルが効きました!」 

「恩人に義理を返すのはキノコ守りの掟だ。俺にできることは、何でも言え」

「そんな、僕はただ……」

 ミロは照れくさそうにビスコから視線を少し逸らして、すぐ近くに倒れている、長髪の女戦士に眼を止める。

「……ああっ! パウー!」

「知り合いか。やっぱ」ビスコはひとつ頷くと、女の身体を助け起こして、壁に寄りかかるようにしてやった。「すげえ暴れっぷりだったから、眠り毒を噛ませてあるけど、寝てるだけだ」

「姉です、……眠り毒、って、赤星さん、勝ったの!? パウーに!?」

「こいつのサビにはまだキノコが効く。さっき、ジャビに打ったのを使え」

 ビスコが言い終わる前に、ジャビがひょこひょこと歩み寄って、余ったヒソミタケのアンプルをパウーへ注射してやった。紫色の薬液が、錆びた肩口から身体に吸い込まれると、パウーは少し眉を寄せたが、ほどなくして静かな、楽な呼吸に戻ってゆく。

「っす……すごい……!」

 キノコ守りの知識が作るアンプルの薬効は、ミロの才覚を持ってしても調剤できたことのない、素晴らしいものであった。これまで苦しみを抑えつけるようにして眠っていた姉の、その安らかな寝顔を見て、ミロは自分の心に新しい決心が湧き上がるのを感じる。

「ビスコ。ぼーっとしてられんぞい。自警のイグアナ騎兵がこっちまで迫っとる、もう五分とかからんぞ。次、囲まれたら、流石に抜けきれん」

「わかった。北門はすぐだ。行こう!」

「うん。ワシが食い止めとく。行ってきんしゃい」

「おう、……ああ!?」

 ビスコは駆け出そうとして、師匠の思わぬ返答に振り返った。

「何だ、食い止めるってのは!? てめえが来なきゃ、意味ねえだろ!」

「ちったあ考えろい。弾六発抜いたばっかりの老いぼれが、すぐ旅に出られるわきゃ、ねえだろう」

「考えるのはてめえだ、ジジイ! 調剤をどうする! 錆喰いを採ったって、その場に、調剤できる奴がいねえと……!」

 ジャビは白髭を撫でながら、いたずらっぽい眼で、ついと目線をビスコの横へ投げてよこす。

 ビスコが、ゆっくりとジャビの視線を追いかける、その先に、緊張に身を固めて立ちすくむ、童顔のパンダ医師の姿があった。ビスコの視線を受けてミロは一度ごくりと固唾を飲み、それでも一生懸命に、その眼を逸らさないように受け止めた。

「っ、ボケたか、ジャビっ!」

「赤星さん! 僕も! 僕も、連れて行って下さいっ!」

 袖にすがりつくミロの思った以上の力に、ビスコはそれを払いのけることもできず、ただ驚愕に口を開いた。

「ッは、離せッてめえ、ジジイから何か、吹き込まれたなっ」

「聞きました、《錆喰い》のこと! お役に立てますっ、調剤もできる、貴方の傷も治せます!」

「バカ野郎っ、お前みたいな、ちょっと目離したら死んでそうな奴、誰が連れていくかよッ」

「いま、何でもお願いを聞いてくれるって、言ったばかりです!」

「俺はランプの精じゃァねェんだよォッ」

 ビスコはそこで眼を剥いて、烈火のごとくミロに怒鳴りつけた。

「お前みたいな都市育ちのガキが生きていけるほど、壁の外は甘くねえんだッッ! その生っ白い腕の一本二本で、済む話じゃねえんだぞッ」

「それが、なんだ!」

 ミロは勇気を振り絞り、その目に力をみなぎらせて、叫び返した。

「姉さんを、ただひとりの肉親を、救えるかもしれないんだ。腕なんか、くれてやる、首が飛んだって、構うもんか!」

 ミロの全力の、剥き出しの叫びが、ビスコの鉄の心にびしりと亀裂を走らせた。

 口を真一文字に結んで両目を見開き、ミロの胸元をぐいと引き寄せ、その瞳を覗き込む。

 これまで、ジャビ以外の誰も、ビスコの相棒たりえたことはない。その暴れ馬のような鉄の意志力は、どんなに武勇に優れるキノコ守りも、鞍から振り落としてきた。

 まして眼前で震えるこの少年は、錆び風が吹けば飛びそうにか細く、弓も引けず、蟹にも乗れないのだ。壁の外に出たことすらない、生っ白い都市の少年にすぎない。

 ただ、その眼だけは。

 その澄んだ青色の瞳だけは、葛藤の中で震えながら、それでも……

 ビスコの翡翠の瞳と強く引き合って、恒星のように、燃え立つ意志に煌めいていた!

『二班、三班、散開! 北門へ回りこめーッ』

「ビスコ! 自警じゃ! もう迷っとる暇ぁ、ありゃせんぞッ」

 ビスコはそこでひとつ、大きく息を吸い込んで、三秒だけ瞑想した。

 目を見開くと、激情を覚悟に変えた、キノコ守りの一等星の精悍な顔がそこにある。ありったけを吐き出して、震えながら自分を見つめ続けるミロに、その鋭い眼光を向けて、言った。

「死にたくなきゃ、ちゃんと言うことを聞け。キノコ守りの旅の基本は、相棒同士、二人一組。片方が死んだら、そのまま道連れだ」

「赤星さん!」

「それと! それだ、その、クソめんどくさい敬語をやめろ! 相棒は常に対等なんだ。俺はビスコ。お前はミロ! わかったかよ!?」

「わかりまっ……」

 ギロリ、とビスコにさっそく睨まれて、ミロはあわてて口を噤むと、弾けるような笑顔を浮かべて、言い直した。

「わかったよ、ビスコ!」

「ウヒョホホ」ジャビが屋根の上で、高らかに笑った。

「新タッグ誕生ちゅうわけじゃの。ほい、もう行けい!」

 追い迫る自警団、イグアナ騎兵の道を塞ぐように、ジャビの放ったキノコ矢が、ぼぐん! ぼぐん! と咲き、忌浜の夜にまた喧騒を呼び込む。遠く跳ね飛んで行くジャビへ、ビスコは口を開きかけて何か言葉を迷い、そして、やめた。

「おい、お前、姉貴はどうすんだ。このまま寝かしとくのか!?」

「大丈夫! 自警団の、団長だもん。自警団のみんなが、しっかり保護してくれる。ポーチにも、たくさんキノコアンプルを入れておいたから! あっ、でも……」

「今生の別れかもしれねえんだ。時間はねえが、顔ぐらいよく見とけ」

 ミロは頷いて、寝息を立てる姉に駆け寄り、自分の腕につけていた革のブレスレットを、姉の腕にはめてやる。

「何度も、何度も……僕のこと、守ってくれた。僕の、盾になってくれた。だから、一度ぐらい。僕がパウーを守っても。パウーのために傷を受けても、いいでしょう……?」

 眠る姉の額に自らの額を押し付けて、少しだけ、目を閉じる。

「僕が、かならず。かならず、助けるから。待ってて、パウー。姉さん……」

 ミロはしばらくそのまま、愛情を確かめるように姉を抱いていて……ふと、思い出したように慌てて跳ね起き、ビスコへ向き直った。

 新しい相棒は手首の時計を血走った目で眺めながら、凄まじい落ち着きのなさであたりを見回している。

「お、お、終わったよビスコ! もういいよ!」

「遅っっせえええんだこのボケーーッッ! 始める前に終わる気かァッ!」

 ミロの言葉を聞くなり、憤然と腕をひっ掴み、そびえ立つ北門へ向けて駆け出してゆく。

「ミロ、ってのは、」ふと振り返って、ビスコが聞く。「あの、ココアみてーなアレか? 牛乳で、溶かす……」 

「うん! 強い子のミロ。母さんが、つけてくれたんだって……」

「けッ。強い子の、ミロ、か」ビスコは、走りながら紫色の矢を番え、壁の手前の地面に向けて撃ち刺した。矢毒はすぐに菌糸を巡らせ、周囲の地面を徐々に紫色に変えていく。

「……悪い名前じゃあ、ねえ!」

 ミロの身体を抱え、ビスコが思い切り矢を踏み抜けば、ぼぐん! と大きい衝撃とともに、巨大なエリンギが咲き誇る。それに乗って跳ね飛んだ二人の身体が、忌浜の夜空へ踊り、そのまま高い壁を越えて、新しい地平へと飛び出していった。