青々と晴れ渡った空に、堂々たる入道雲が天高く積み上がっている。
千切れ雲が時折、強く射す夏日差しを隠しては、からりと乾いた風が汗ばむ身体を涼やかに吹き抜けてゆく。
栃木、《浮き藻原》。
忌浜北部に広がるこの高原、名の由来にもなっている《浮き藻》は、春から夏にかけて勢いよく萌え、玉状になってふわふわと空中を漂う。それらが日中の光を溜め込んで、夜に柔らかく発光する様はなかなかに美しく、旅人の心の慰めにもなるのだったが、およそ旅ゆく無骨の賞金首には、そういう風情はあまり興味の対象にならないようであった。
「……よかった、追ってこないみたいだね」
「暑っっつい! わかったから引っ付くな! ヒトデか、てめー!」
ビスコの後を必死でついていくミロに、ビスコが袖で額を拭い、返事を返す。
熱を持って漂う浮き藻に加えて、足元に萌える若草と、転々とそこらに転がる自動車や戦車などのスクラップが夏の陽に焼けて、厚着せざるをえないビスコに玉の汗を浮かせていた。
「僕の見立てだと、キノコアンプルのおかげで、パウーはもう三ヶ月は持つと思う。問題はジャビさんのほうで、壁の中でもひと月ぐらいが限度だと思うんだ」
ビスコはキロリとミロを見やって、びくりと竦むミロに、先を促すように頷いてみせる。
「ジャビさんの言う通り、秋田の秘境みたいなところに錆喰いがあるんだとして、歩いてちゃとっても間に合わない。かといって、車なんかで行けるような旅路じゃないし、忌浜高速道なんか使ったら、すぐ自警に捕まっちゃうだろうし……」
「お前、俺を喧嘩だけのアホだと思ってんな。そんな事ァ、わかってる。考えなしで、飛び出してくるわけねえだろ!」
「何か、アイデアがあるんだね!」
ビスコはそこで、小さく毒づきながらも、腰のポーチから、折り畳んだ地図を取り出した。覗き込むミロに示すように、生傷まみれの指が地図をなぞる。
「足尾の骨炭脈の末端が、丁度この北あたりまで伸びてる。炭鉱の中の一番長いトロッコ線が、山形南部まで続いてるらしい。うまく乗り継げれば、二日とかからねえはずだ」
「足尾の、炭鉱、って……」
ミロの表情が、徐々に怪しげに曇ってゆく。
「骨炭脈の、中を通ろうってこと!? そ、それは、ビスコ! いくら何でも、無茶だよ!」
足尾骨炭脈とは、東京爆災の後に出現した新たな燃料資源『骨炭』の排出源として栄えた、日本有数の炭鉱地帯のことを言う。
骨炭は、錫や黒炭などの鉱物が錆び風で変質した新世代燃料であり、骨のように白い外観からそう呼ばれたとか、テツジンの飛び散った骨を苗床にして発生したからだとか、名前の由来には諸説あるものの、とにかく現代にも多く使われている一般的な燃料の一種である。
かつてその広大な鉱脈の採掘権を巡って、栃木、新潟、福島などの県が争い、炭鉱の拡大開発が行われたが、しかしそれも、炭鉱内に増え続ける異形の進化生物や、噴出する有毒ガス、頻発する爆発事故などが重なり、現在はどの県もこの鉱脈から手を引いている。
今はただ、トロッコのトンネルに穴だらけにされた山脈が、天然の火薬庫としてそびえ立っている……というのが、足尾骨炭脈の現状であった。
「骨炭脈に潜んでる鉄鼠は、おそろしく凶暴だって噂だよ。集団でかじりつかれたら、骨になるまで十秒かかんないって。いくらビスコが強くたって、僕らだけで、そんなの相手に……」
「誰が、二人だけで行くっつったんだよ」
「ええっ!? だって、他に……」
そこでミロは、ビスコが自分の言葉を話半分に聞きながら、先ほどからあたりをきょろきょろと見渡しているのに気がつく。
「ねえビスコ。さっきから何か、探してるの?」
「その、三人目をな。……いま、見つけた」
ビスコがそこで指笛をひとつ「ぴい」と鳴らすと、突然、眼前の土がぐわりと持ち上がり、巨大な蟹が二人の前に立ち塞がって、日の光を隠した。
オレンジ色の甲殻が陽光にまぶしく輝き、振り上げた大バサミは、自動車ぐらい容易に叩き潰しそうな、迫力と威容に満ちている。
「うわ、わ、わああ!」
「バカ。味方だ」
思わずビスコの後ろへ隠れるミロを肘で小突き、ビスコは嬉しそうに大蟹へ歩みよると、甲羅についた土を丁寧に払ってやる。抵抗もなくそれに身を任せる大蟹の様子を見て、ミロも少しづつ警戒を解き、それでもやや唖然としてビスコへ問いかける。
「そ……そのひと、ビスコの、友達?」
「兄弟だ」あらかた土を払いのけた後、ビスコは大きな脚を跳ね飛んで、背中に敷かれた鞍へ飛び乗った。「テツガザミの、アクタガワ。壁の東から回り込ませたんだ。こいつ、暑いの苦手だから……土に潜ってるだろうと思って、探してた」
テツガザミは、名前の通り非常に硬い甲殻を持つ大型蟹である。
その強靭な身体と扱いやすい性格から、海沿いの県の自警団に動物兵器として採用されていたこともあり、アクタガワもその末裔であろうと思われる。大砲や機銃を背負ったまま、山岳、沼、砂漠と場所を選ばず行軍できるテツガザミの踏破力は凄まじく、その甲殻と強靭な鋏による攻撃と合わせ、一時は無敵の兵科と言われたほどであった。
が、沖縄の蟹兵部隊が九州へ行軍する際の異常気象で、好物のコムギエビが大量発生したために全兵が海へ飛び込んだきり戻らなかった、というなんとも間抜けな逸話から、今では自警団にテツガザミを見かけることはほとんどなくなっている。
「炭鉱に潜むタイプの動物は、歯や毒が通らない相手には絶対に襲い掛かってこない。どんな場所でも歩けて、力も重機より強い。アクタガワは俺たちの切り札だ。お前も、早めに仲良くなっとけよな」
改めてそのアクタガワの威容を眺めれば、左の大バサミこそ凶悪に見えるものの、すっとぼけた愛嬌のある顔をしており、先ほどから暇そうに土をほじる仕草も相まって、なかなか可愛らしく見えてくる。
自分に手を差し伸べるビスコへ、ミロはおそるおそる近寄ってその手を掴むと、ビスコの隣、右肩の鞍へ引き上げられてそこへストンと収まった。
「うわあ――っ、凄い……!」
アクタガワの上から見る景色は、青々と茂る浮き藻原草原をずっと遠くまで見渡せる、雄大な眺めであった。ミロは先ほどまでの恐怖も忘れてすっかり喜び、前に身体を乗り出して、アクタガワのそのすっとぼけた顔を覗き込んだ。
「猫柳ミロっていいます! よろしくね! アク」
ミロが自己紹介を言い終わることはなかった。アクタガワの右のハサミで首元を『ぐい』と掴み上げられ、そのままはるか前方へ向けて無遠慮にブン投げられてしまったのである。
「ゆわああ――――――――っっ!!」
「あ、ああっっ!! バカ、アクタガワ、お前っっ」
遠く悲鳴を上げて、放物線を描いて落ちてゆくミロを、アクタガワを降りたビスコが慌てて追いかける。茂る草と柔らかい浮き藻のおかげか、ミロに怪我はないようだったが、ぶすりと膨れて唇を噛む涙目のその顔から、精神的なダメージは容易に察することができる。
「……嫌われてる」
「……。く、くひひひ……!」そのふて腐れたような言い草に、ビスコもさすがに笑いを殺しきれず、腹を抱えて笑った。恨めしそうなミロの視線を受けて慌てて咳払いをし、言う。
「バカ、その程度で腐るな。お前だって、知らないカニが背中に乗ってきたら、ブン投げるだろ。あいつだって、蟹なりにプライドがあるんだ。お互いに慣れていくしかねえ」
「彼のプライドと、僕の首の骨の、どっちが先に折れるかってこと?」
「予想以上に、口の減らねえパンダだなあ」
ビスコは腕を組んで少し考え込んでいたようだったが、のんびり近寄ってきたアクタガワの、その肩の荷袋とミロの白衣を見比べて、ひとつ頷く。
「いずれにしろ、アクタガワに乗れなきゃ、炭鉱も通れない。よし。まず、形からだ。……そういや、アクタガワ、医者は嫌いだった」
キノコの菌糸を馴染ませた、ヒトデ革のズボンとチュニック、マムシ革のブーツ。腰回りには、キノコ毒の薬管を挿したアンプルサックと、とかげ爪の短刀を二本、雑多な道具を詰め込んだポーチが二つ。刀の鞘のようにしてベルトへ矢筒を差し、使い込んだなめし茸の外套を首から羽織れば、それが全身を錆の脅威から守る、いっぱしのキノコ守りの正装である。
ミロにこの一式を着せてやれば、白衣の時より幾分精悍に見え、ビスコから見ても存外、馴染んでいる。
実際のところ、ミロもビスコが考えていたほど虚弱なわけではなく、幼い頃からのパウーとの鍛錬のおかげもあって、蟹に乗るための体の基本はできている風ではあった。
それを思った通り伝えてやると、ミロは満面の笑みで喜んで、アクタガワへ飛び乗り……
かれこれ三時間。
「うわああ――――――っっ、止まって――――っっ!!」
もう、何度目かもわからないミロの悲鳴が、広い浮き藻原にこだまする。
ビスコは拳大ほどの鉄壺を焚き火にかけながら、ミロを横目に見てアドバイスを叫ぶ。
「曲がるとき、ビビって逆に体重かけるから、アクタガワが怒るんだ! そいつを信用しろ、動きを強制するな」
「そりゃ、言ってることは、わかるけどーっ!」
「なら、あとは慣れだ。平気だ、お前の首の骨が勝つ……たぶんな」
ミロは、何度も地面に放り出されて泥と擦り傷まみれの顔に汗を滴らせて、それでもアクタガワの鞍に華奢な身体で這い上がると、なんとかもう一度手綱を取った。
(す、少しは、ちゃんと……隣で、教えてくれてもいいのに!)
ずっと遠くで何やら火を焚いている、あんまりにも放任主義なビスコをうらめしげに横目に見つつ、ふと、ミロが前に視線を戻すと。
何やら大荷物を背負った、小柄な行商人が道をとぼとぼと歩いているのが、すぐ眼前まで迫っていた。ミロは慌てて手綱を引きしぼり、大声で叫ぶ。
「うわっ! 人! 人がいるってば! アクタガワ、ストップ、ストーーップ!」
アクタガワの急ブレーキとともにミロは前方へすっとび、危うく石道に叩きつけられるところ、漂っていた浮き藻のひとつにぼふんと抱きとめられて、かろうじて勢いを殺して着地した。
「い、痛ったああ……! あ、アクタガワ、速すぎるよ……!」
ミロは打ち付けられた脇腹を摩りながら、先の商人の安否に思い当たって、慌てて跳ね起き……ようとして、自分の様子を覗き込む、小柄な少女と目を合わせた。
「あ、目え開いた。死んじゃったかと思った」
「っあ、ごめんなさいっ! ど、どこか、怪我しませんでした?」
「それ、こっちの台詞だよー? まあ、いっか」
商人はミロににやりと笑いかけ、背後のアクタガワの威容を振り返った。
「きみさあ、すんごい蟹、乗ってるね! こんな立派なの、あたし、初めてだなあ」
懐にするりと飛び込むように白い肌がすり寄り、金色の瞳がミロを見上げた。目に痛いようなピンク髪の、小柄な少女である。揺れる三つ編みが、深海で踊るクラゲを思わせた。
「よく見たら、か〜わいい顔してる! ねえ、パンダくんって呼んでいい? こんな蟹、買っちゃうぐらいだから、稼いでるんでしょー。ねえねえ、奥さんいるの?」
耳元で囁かれる少女の声に、ミロはぶるりと震え、慌てて首を振った。
「わ、わあっ! 違います、アクタガワは僕の蟹じゃないんです! 相棒の……その、友達で」
「なあんだ、連れがいるの? ちぇー、つまんねー」
くらげ少女はあっさりとミロから離れて、アクタガワを見つめながら思案するように、耳の前の三つ編みをぐりぐりと指で遊ぶ。そして……憮然とした顔を、一瞬でにこやかな笑顔に変えて、不思議そうに自分を見つめるミロと目を合わせた。
「ねえ、パンダくん。こんな大蟹にさ、ただ乗って慣れてたら身が持たないよ。乗りたてのころは、眉間のあたりに柚子の香を焚いてやるのが普通なの。そうすりゃ蟹だってリラックスするから、自然と、ご主人に懐いてくれるんだよ」
くらげ少女は懐の革バッグから黄色い瓶を取り出すと、その細い指で、ひらりとミロの前にかざしてみせる。蓋を開ければ、山柚子の爽やかな香りがかすかにそこから漂った。
「えっ! や、やっぱり、そういう方法があるんですね!」
「常識だよう。こんな無茶して、綺麗な顔に傷つけたらもったいないよ。丁度、香が余ってるからね。あたしがちょっとばかし、手本を見せてあげる!」
「わあ、本当ですか! あっ、でも今あんまり、持ち合わせが……」
「くふふッ……お金なんか取らないって!」猫みたいな金色の瞳が、にい、と笑った。
「困った時はお互い様。こんなろくでもない世界でしょ……あたしは、人情だけは大事にするって、決めてるの!」
その、アクタガワから半キロほど離れて。
ビスコは油断のない顔で、目の前の鉄壺を見つめている。くつくつと弱く煮える赤い液体に、頃合いを見て何やら緑色の胞子を少し、足す。しばらく様子を見た後、鉄の鏃を慎重に、一枚ずつ浸してゆく。
ミロのそれと比べ、極めて原始的に見えるこれが、いわゆるキノコ毒の調剤である。
傍目にはシンプルでも、少しでも加減を誤れば、調合中のキノコ菌が一気に発芽して大事故に繋がってしまうため、非常に繊細かつ危険な作業といえる。
特にビスコの調合するキノコ毒というのは、発芽威力を極限まで高めたとんでもなくピーキーな代物が殆どで、本人か師匠のジャビでもなければ、触れることすら危険であった。
危険度の見返りに、ビスコのキノコ毒は素晴らしく高品質で、独創的かつ豊富な種類も持ち合わせている。特にエリンギなんかは、発破ダケの発芽力にタマゴタケの弾力性を合成し、強力なジャンプ台として機能させた、ジャビをして唸らせるビスコの代表作である。
一方で、人間や蟹を癒したり、病を回復させるキノコアンプルについてはこれは、ビスコは才能のかけらも持ち合わせなかった。薬は毒と違い、人体に効果的に作用させるための繊細なバランス感覚が必要で、いくらジャビがそのあたりを教えても、心肺の停止しかねない極端な薬ばかり出来上がるのである。これについてはジャビはそうそうにこの分野に見切りをつけ、それ以上のキノコ薬学はビスコに教えていない。
ビスコは菌が落ち着いた頃合いを見計らって、浸した鏃を壺から鉄箸で拾い上げ、試しにそこいらに生えた太木に向けて、鏃を素手でぶん投げた。
ばぐん、ぼぐん、ぼぐん!
鏃の刺さった太木から、連続的に赤く綺麗なキノコが咲き、平たく薄い傘をゆっくりと広げ、ふわりと胞子をばらまいた。骨炭の鉱脈も食い破って咲く、赤ヒラタケの毒である。
「……うーん。まあ、いいか」
ビスコは自前のキノコ毒の出来にとりあえず納得すると、焚き火を消し……
「うわ―――――っっ! かに泥棒――――っっ!」
しばらくぶりのミロの悲鳴を聞き流そうとして、その内容に、ぴく、と身を固めた。
「かにどろぼう……??」
思わず声のほうを見れば、方向も定めずめったやたらに走り回るアクタガワ、その鞍に、見知らぬ大荷物の少女が座っている。ミロはといえば、アクタガワの巨大な左のハサミに捕まって、ぶんぶんと上下に揺れている。
「だ、騙したなっ! 手綱を離せよっ、アクタガワ、返せーっ!」
「人聞き悪いなあ! パンダくん、悪いのはあたしじゃなくて、世の中なの! いいから諦めて、手ぇ離しなってば!」
当人達が必死なのはわかるのだが、遠目にはなんとも間の抜けた絵面ではある。
「……何、やってんだ、あのバカ!」
大体の状況を察したビスコは、背中の弓を抜き放って、ぱしゅん! と一弓放ってみせる。
ビスコの矢は、走るアクタガワのちょうど鞍あたりの高さを漂う、大きな浮き藻に突き刺さって、ぼぐん! と、一瞬で勢いよくシメジの群れを咲かせた。
「ぎにゃッッ!」
くらげ少女はシメジの凄まじい発芽の威力に、潰れたような悲鳴を上げて吹っ飛んで、アクタガワから転がり落ちた。それに追い打ちをかけるように、ビスコの二矢、三矢が少女すれすれの地面に突き立っては、爆発するシメジで少女を逃げ惑わせる。
「誰の蟹に、手ェつけてんだ、コラ! そのまま、餌になりてえかァッ!」
「ぎゃーッ! わーッ!」叫び散らすくらげ少女の逃げ足はすさまじく、ビスコの脅しが聞こえたのかすらわからないほど、すでにはるか遠くへ走り去っていた。ほどなくして、鞍に主人を失ったアクタガワが、ビスコの元へゆるりと走り戻ってくる。
ビスコの前で、ようやっとアクタガワの大鋏から転げ落ちたミロは、泥や浮き藻ですっかり汚れた顔を拭い、ごほごほと咳き込んだ。
「この、バカ! 何がどうなったら、あんな……!」
ビスコはミロに怒鳴りつけ……ようとして、それはもう見るからにすっかりしょげかえって俯く、生傷まみれのミロの顔を見て、そのあまりの不憫さに何も言えなくなってしまった。
「び、ビスコ、ごめん、僕……!」
「いい! 謝るな。……今日はもうお前が持たねえ。先に進もう」
「だ、大丈夫! 時間がないよ、はやく、乗れるようにならないと……」
「その、産まれたての鹿みてえな足でかよ。訓練はまた明日だ。怪我だけ、治してこい」
「……うん、わかった」
言いながらビスコは、少し眉間に皴を寄せて、次の手に考えを巡らせていた。
ミロの才能云々よりも、本音を言えば、キノコ守りでもない素人にすぐに蟹に乗れなんて、そもそも無茶な話なのだ。
キノコ守りにしてもそのすべてが自在に蟹を操るわけではないし、中には、薬物による催眠状態を利用して、半強制的に蟹を操るキノコ守りも存在する。
(急ぐ旅とはいえ、アクタガワに、薬は使いたくねえが……)
ビスコが思いを巡らせながらミロを眺めていると、ミロは自分の少ない荷物を抱えて、てくてくと……どうやら、アクタガワの方へ歩いてゆく。
「アクタガワ。無理させちゃって、ごめん。薬、塗るから、じっとしててね!」
ミロが懐から紫色に輝く薬菅を取り出し、アクタガワへ歩み寄ると、さすがにアクタガワも不気味がったのか、ぐわり! と大鋏を掲げて威嚇する。アクタガワの威嚇の迫力といったらすさまじく、他の動物はおろか、兄弟分のビスコをしてたじろがせるほどである。
それへ、
「強がってもだめ! ほっといたら、筋肉が弱くなるよ! はい、きをつけっ!」
少しの怯みもみせずに、ミロが声を張った。驚いたのはビスコで、それまで大鋏を掲げていたアクタガワが徐々に警戒を解き、ゆっくりと、威嚇を解いたのである。
「そう! いい子だね。はい、おすわり!」
アクタガワの白い腹を撫でて、笑顔のミロがささやけば、とうとうアクタガワも全身の緊張を解いて、足を折ってそこへ座り込む。ミロが、手にした薬液をアクタガワの関節に吸い込ませてゆくと、ほのかに香草のような香りが辺りにただよった。
呆気にとられて自分を見つめるビスコに、アクタガワを撫でながら、ミロが声をかける。
「ごめん、あんな無茶な乗り方されたから、ずいぶん筋肉に傷をつけちゃった。でも、ツキヨモギの再生薬を使ったから、アクタガワなら、歩きながらでも治るよ!」
(……俺は、自分の傷を直せって、言ったんだがなあ)
ビスコは隣まで歩いていき、不思議そうな顔で、落ち着いたアクタガワとミロを見つめる。
「おまえ、これができるのに、なんで、背中に乗れないんだ?」
「……? これがって、どれが?」
「……。く、ひ、ひひひ……。まあ、いいよ」
ビスコはそこで愉快そうに笑って鞍へ飛びのり、ミロの手を引いて、右の鞍へ上げてやった。手綱に反応して走り出すアクタガワの上で、ビスコがつぶやくように言う。
「予定変更だ、蟹の訓練はやめる。おまえ、蟹に関しちゃ、才能がある」
「ええっ!? あんな、有様だったのに!?」
「でも、アクタガワと話した。俺も初めて見たよ、蟹に乗るまえに、蟹と話せる奴なんて」
巨大な八本足で走るアクタガワの気性は、ふしぎと穏やかで、右肩に乗っている異物感も、先の一幕でずいぶんと柔らいだようであった。