わたし、二番目の彼女でいいから。2

第9話 門限破り①

 秋といえば文化祭。

 俺たちの高校では前夜祭と後夜祭があるため、開催期間がちょっと長い。

 準備はもう始まっている。クラスのみんなは遅くまで残っているし、グラウンドではステージの設営がおこなわれている。


「謎解きゲームならさ、いかにもミス研って感じで人気でると思うんだよ」


 生徒会長の牧が熱弁をふるう。

 放課後、俺と橘さんがいつものごとく部室でくつろいでいたところ、この男が乗り込んできて、ミス研も文化祭でなにかやれ、といいだした。


「……といわれてもなあ」


 もともと部室を使いたいだけの名ばかり部活だ。夏休みは奇跡的にそれっぽい活動をしたとはいえ、本来的には俺と橘さんしかおらず、そのふたりともがミステリー小説をちょっと読むくらいのもので、創作的なモチベーションは一切ない。


「橘はどうなんだ?」


 牧に話をふられ、橘さんは無表情にこたえる。


「特に意見はないけど、部長がやるっていえばやる。そんな感じ」

「相変わらず体温低いなあ。文化祭だぞ? もっとアゲてこうぜ」


 とにかく、と牧はいう。


「なにか考えておいてくれよ。でないと顧問のミキちゃんだって立場ないんだからな」


 わかったわかった、と俺はいう。考えるだけならタダだ。


「ていうか、まだつづいてるんだな」

「まあな。ミキちゃん、仕事で悩むこと多いから、俺がついてないと」


 この牧という男、大卒二年目の教師と付き合っている。英語担当の三木先生。ミス研の顧問でもあるため、部の活動実績がないと彼女が職員会議で詰められることになる。


「そういうことだから頼んだぞ。一応これ、渡しとくからな」


 牧がチケットを二枚、手渡してくる。


「なんだよ、これ」

「遊園地だよ。お化け屋敷あるし、脱出ゲームも開催中だから参考になるだろ」


 それだけいうと、牧は忙しそうに部屋をでていった。生徒会長だから文化祭でもいろいろと仕事があるのだろう。あわただしい空気は牧とともに去り、静かな空気が戻ってくる。

 橘さんと俺だけの空間、小説のページをめくる音だけが部屋に響く。

 細かい雪が降り積もっていくような、そんな沈黙。

 しばらくしたところで──。


「さて、と。生徒会長もいなくなったことだし」


 橘さんが本を置いておもむろに立ちあがる。


「部長、コーヒーいる?」

「ああ」


 橘さんがサイフォンを使ってコーヒーを淹れる。サイフォン式コーヒーとは、簡単にいうと、手のこんだ淹れ方をするコーヒーのことだ。夏休みが明けてすぐ、橘さんはそのための道具を部室に持ってきた。そして毎日、俺にコーヒーを淹れてくれる。


「はい、部長」


 テーブルの上にカップが二つ置かれる。


「ありがとう」

「どういたしまして」


 橘さんはそういってから、しれっとした顔で俺のとなりに腰かけた。部長と部員の距離感というには近すぎる。なにより橘さんは柳先輩と婚約しているのだ。しかし──。

 短いスカートからのびる白い太ももが、俺の足にぴったりと寄せられていた。


「橘さん……この部屋は広い」

「砂糖は一個でいい?」

「ソファーだって寝転がれるくらいのスペースがある。もう少し空間を広く使ってもいい。これはさすがにくっつきすぎだ」

「今日はちょっと濃いめに淹れた。司郎くんの口にあえばいいけど」

「あの、橘さん、話きいてる?」


 最近の橘さんは俺のためにせっせとコーヒーを淹れるし、ふたりきりのときは司郎くんと下の名前で呼ぶ。そして、向かい合って座るのを極端にいやがり、となり合って座りたがる。


「司郎くんといると……まだ少し緊張する……」

「会話が成立しないんだよなあ」

「両想いってすごいよね」


 橘さんは低い温度を保ったまま、伏し目がちにつづける。


「司郎くんは他の女の子にできないようなことを私にしていい。逆に私も、他の男の子にしちゃいけないことを司郎くんにしていい」

「いや、なにしたっていい、ってことはないんじゃないか?」

「いいよ」

「あ、やっと会話できた」

「だって私、司郎くんになら、なにされたって嬉しいから」

「究極的なんだよなあ」


 そして多分、俺もそうだ。橘さんになら、なにされたって嬉しい。それが一番好きということなのかもしれない。


「私たち、普通の顔して一緒にいるけど、もう、なにが起きてもおかしくない。ほんの少し踏み込むだけで、感情を決壊させることも、その感情にまかせて互いの気持ちを確かめることも、なんでもできる。そう考えると……少し緊張する……」


 そういいながら、橘さんはその華奢な体を俺にあずけてこようとする。

 放課後の部室で、特別な空気を持つ一番好きな女の子を抱きしめたい。そう思う。

 でも──、俺はその体を押し返していた。


「なんで?」


 橘さんのきれいな眉間にしわがよる。


「なんで、そういうことするの?」

「何度もいってるだろ。『二番目の彼女でいいから』ってやつ、俺、受け入れてないからな」


 夏の合宿で、俺は初めて橘さんとキスをした。そのとき、彼女はいった。

 俺が今までどおり早坂さんとイチャイチャできるように──。

 俺がこのまま柳先輩と仲良くしていられるように──。

 それでいて橘さんとも恋人になれるように──。


『私、二番目の彼女でいいから』


 あのときはそのままずっとキスをつづけてしまった。でも合宿が終わってからというもの、橘さんが恥じらいながら近づいてくるたび、俺は押し返している。


「不道徳すぎるだろ。先輩に隠れてそういうことするなんて」

「まだいい人でいたいんだ」


 橘さんの表情が冷たくなる。


「そういう司郎くん、きらいだな」

「そうはいっても、よくないものはよくない。もし俺たちがそういうことをしてるって早坂さんが知ったら、どう思うか」

「早坂さんとはただの練習なんでしょ?」


 橘さんは俺と早坂さんが二番目同士で付き合ってることを知らない。早坂さんには別に好きな人がいて、俺を練習にしているだけという『練習彼氏』の言い訳を信じている。しかし、勘のいい橘さんだ。いつまでも隠し通せるはずがない。


「もしかして、ちがうの?」


 青みがかった瞳が俺をとらえてはなさない。しかしすぐに、「まあいいけど」と橘さんは話を終わらせた。


「早坂さんが司郎くんのこと本気で好きでも、どっちでもいいよ。私は二番目でいいから」


 だから隠れてわるいことしようよ──。

 そういって俺のネクタイをつかんで、顔をひきよせてキスをしようとする。

 すんでのところで、俺はまた肩をつかんで止める。


「橘さんだって、早坂さんとは友だちだろ」


 ふたりは最近仲がいい。休み時間、橘さんが早坂さんの教室にいたりする。座る早坂さんの後ろから、橘さんが髪を編んであげたりして、すごく女の子っぽい。みんなにいわせると、その光景はとても「尊い」らしい。


「たしかに休日、一緒にお出かけしたりするけど」

「早坂さんもああみえて、自分をフラットに扱ってくれる友だちがほとんどいないんだ。だから橘さんと知り合えて、嬉しいんだと思う」

「私だって女の子の友だち全然いないし、早坂さんと仲良くなれて嬉しいけど」

「だったらその友だちに隠し事するのはよくないだろ」

「そうだけど……そういって、また、してくれないんだ。早坂さんとは練習でもするのに」


 橘さんは眉間にしわをよせて不満そうな顔をする。夏以来、キスをしたことはない。俺が拒否するからだ。そうするたびに、普段は表情一つ変えない女の子がフラストレーションをためる。そんな橘さんのリアクションを嬉しく思ってしまう俺は、ろくでもない男だと思う。


「映画館では手をつないでくれたのに」

「あれは……」

「別にいいけど」


 あのとき、俺は橘さんの手を振り払わなかった。だから俺も共犯だ。だけど、橘さんはそのことを問いただしたりしない。


「わかった。司郎くんは誰も裏切りたくない。だから私とは今までどおり部長と部員でいる」

「……まあ、そういうこと」

「部長が望むなら、私はそれでいいよ。婚約者として正しく振る舞う。部長を困らせるようなことはしない。わるい子じゃなくて、いい子でいる」


 ていうか、部長のことなんてもうどうでもいい。そういって、橘さんは体を離す。


「そもそも全然好きじゃない」

「正面からいわれるとけっこうきついな」

「今から他人だから」

「極端なんだよなあ」

「もう帰る。一緒にいても全然楽しくないし」


 橘さんは帰り支度をしながら、テーブルの上に置かれたものに気づく。そしてため息をついて、やる気のない動作でその紙片をつまみあげた。


「これはどうするの?」


 牧が置いていった、二枚の遊園地のチケット。


「どうしようかな」

「部活の出し物を考えるために視察にいくというのはとても自然なことだと思うけど」

「そうだな」


 俺は少し考えてからいう。


「じゃあ今週の土曜日にでもいってみるか」

「誤解はないと思うけど、これデートじゃないから。なにも期待しないで」

「なかなかいうな」

「ただの部長と部員だから」

「わかってるって」

「部長とふたりきりとか超だるい。めんどくさ。いっそひとりのほうがいい」

「そのセリフ、俺じゃなかったら死んでるからな」


 これはデートじゃなくて、文化祭のためのただの視察だ。

 誰も裏切らないし、やましいことはなにもない。

 ただの部長と部員の関係。でも──。

 俺は橘さんとふたりで出かけることを早坂さんや先輩にいうことはないだろう。

 そして多分、橘さんもそうだ。



 橘さんは人目を惹く。街を歩けば、男の人も女の人も橘さんをみる。きれいだな、とかそういう感じのリアクションじゃない。ありふれた日常のなかに突然、場ちがいに美しいものがあらわれて、みな思わず驚いてしまうという感じのリアクションだ。

 週末、電車に乗っているときもそうだった。

 乗ってくる人たちはみな必ず橘さんを二度見した。

 俺はそんな橘さんとシートにとなり合って座っていた。

 ふたりで、遊園地に向かっている。

 海沿いの風景が列車の窓を流れていく。車両はガラガラだ。休日の動きだしにしては遅すぎる時間帯だからだ。海面に陽の光があたって、きらきらと輝いている。


『橘さん、明日どうする?』

『昼からゆっくりいけばいいんじゃない? ただの視察でしょ?』


 そんなやりとりを昨日、電話でした。橘さんの口調は終始、気だるげだった。

 どうやら橘さんは本当に俺に興味を失くしたようだった。


「橘さんは相変わらずニッポン放送?」

「そういう部長はどうせ文化放送でしょ。アングラぶってるね」

「最近はTBSラジオもチェックしてる」

「そう。興味ない」


 他愛のない会話をする。文化祭の視察に仕方なくついてきている女の子って雰囲気だ。

 そして会話をしているうちに橘さんは寝てしまう。でも肩がふれ合うことも、こっちにもたれかかってくることもない。


「まずはお化け屋敷いく。みておきたい」

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わたし、二番目の彼女でいいから。7の書影
わたし、二番目の彼女でいいから。6の書影
わたし、二番目の彼女でいいから。5の書影
わたし、二番目の彼女でいいから。4の書影
わたし、二番目の彼女でいいから。3の書影
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