わたし、二番目の彼女でいいから。4

第29話 健全早坂さん②

「それでね、二回も観ちゃったの!」

「俺、その映画つまらないと思うな」


 こりずに、早坂さんが面白かったといった映画を、評論家気取りで批判した。自分でもひどいやつだと思った。でもそんなにひどいことをいっても、早坂さんは俺に対する好感度を絶対に下げないのだった。


「ごめんね、私、知識もセンスもないから、ああいうので面白いって思っちゃうんだ。でも、もっと勉強するね。桐島くんと同じように、あの映画がつまんないって思えるようになるくらい、勉強するね」


 もうダメだ。こんな寂しそうな顔をする早坂さんをみるくらいなら、アホみたいに早坂さんに優しくして、スポイルするくらい甘やかしたい。

 そう思ったら、口が勝手に動いていた。


「俺も予備校通おっかな」

「え?」


 早坂さんの表情が明るくなる。早坂さんは夏からすでに通いはじめていて、ここ最近、「桐島くんと一緒に通いたいな~」と、それとなくいっていたのだ。


「まあ、そろそろ本腰入れて勉強しようと思ってたし」

「いこ」

「え?」

「今からいこ。ちょうどこのあと授業あるし。体験授業で参加させてくれるよ」


 俺の腕にすがりついてくる早坂さん。

 予備校は学校の人間関係と隔絶している。そこでなら早坂さんも、正式な彼女として振る舞うことができる。そんな計算が働いて、俺はいってしまう。


「いいよ、いこう」


 桐島ソフトランディングプランが、早坂さんに敗北した瞬間だった。



 予備校には、モチベーションの高い人たちが通っているイメージがある。ストイックに勉強に集中していて、人間関係も希薄な印象だ。

 実際、初めて入った校舎は静かで、空気はひんやりとしていた。

 でもそこはやっぱり同年代の集まりだし、早坂さんは愛想もいいから、他校の生徒たちとも仲良くしているようだった。早坂さんに手を引かれて教室に入っていくと、普段仲良くしているらしい女の子の集団が声をあげた。


「え、もしかして、早坂さんの彼氏さん?」

「うん、桐島くん」

「すご~い!」

「どうも、桐島司郎です」


 俺が軽く挨拶を交わしていると、早坂さんが「桐島くんはこっち!」といって、背中を押してみんなから引き離す。


「もうちょっとちゃんと自己紹介してもよかったんじゃないのか」

「だ~め!」


 座るところは自由らしい。早坂さんは俺を一番後ろの角の席につれていく。


「なんで?」

「だって、みんな勉強とか習い事を一生懸命してきた真面目な子たちなんだもん。男の子に耐性ないから、桐島くん程度のメガネでもかっこよく感じちゃって、ころっといっちゃうかもしれないもん。そうなったら大変でしょ?」

「全方位に失礼なんだよなあ」


 授業がはじまる直前まで、早坂さんの知り合いがやってきては、興味津々といった顔つきで、「真面目そうな彼氏だね」などと声をかけていった。早坂さんは照れながら、「うん」とうなずいていた。


「もう、みんなったら」


 早坂さんは困ったように笑いながらいう。


「恋愛のことになるとすぐ舞いあがっちゃうんだから」

「あ、うん」

「予備校は勉強しにくるところなのにね!」

「そ、そうだな」


 みんな一つずつ席を空けて着席しているが、早坂さんはしっかり俺のすぐとなりに腰かけている。


「学生の本分は勉強だよね! 恋に騒いでちゃダメだよね!」


 いろいろと思うところはあるが、授業がはじまれば早坂さんは真剣な表情でノートにシャーペンを走らせていたし、ちゃんと切り替えはできているのだろう。

 俺も授業に集中して黒板に書かれた数式にとりかかる。

 ここはメガネキャラとしてさらっと解いて、「さすが早坂さんの彼氏! すごい!」といわれたいところだ。しかし──。

 思いのほか難しくて手が止まってしまう。

 周りをみればみな平然とシャーペンを動かしている。

 かなり焦る状況だ。

 でも、あきらめるわけにはいかない。俺は少年時代から勉強だけが取り柄だった。

 やるんだ、桐島司郎、ここでやれなきゃ俺はただのひょろひょ──。



「仕方ないよ、受験コースだし、学校よりも先に進んじゃってるもん」


 帰り道、早坂さんに慰められる。外は真っ暗だ。


「しかし、ここまでできないとは……」

「うん、このままだと桐島くんの数少ない取り柄がなくなっちゃうね。ただのひょろひょろメガネになっちゃうね」

「フォローする気ある?」

「でも大丈夫だよ、桐島くんならすぐにできるようになるよ」


 早坂さんはぐっと拳を握りながらいう。


「ていうか、早坂さん全部解いてたよな」

「うん、最近がんばってるんだ。だって、桐島くんと付き合って成績落としちゃったら、あの彼氏がよくないとかみんなにいわれちゃうもん。そんなのヤなんだ。だって、桐島くんは最高の彼氏だもん。これは良い恋だもん。だから私、いっぱいがんばるの!」


 早坂さんは励ますように明るい声でいう。


「私にできることは桐島くんにもできるよ。家で復習、まずは数学!」

「数学!」

「数学!」


 早坂さんが明るく合いの手を入れてくるから、俺もリズミカルに連呼する。


「よし桐島くん、そこでラップだ~!」

「え~」


 いや、そんな楽しそうな顔でみられても、できないものはでき──俺にまかせろ。


「数学! できないとわかったことが収穫、遊んでるヒマはないぜ週末!」

「英語!」

「英語! できなきゃ受験はチェック・メイト、洋画で勉強ヘイトフル・エイト!」


 そこから全教科で韻をふんだ。ひととおりラップし終わる頃には、俺は早坂さんの明るいテンションにあてられて、すっかり元気になっていた。


「なんか励まされちゃったなあ」

「えへへ」


 早坂さんは照れた顔をする。そして俺の腕をつかむと、つま先だちになって、俺のほっぺに口づけをした。


「がんばってね、桐島くん」


 それは応援のキスだった。

 手をつないで、一緒に歩く。繁華街の光が夜の街をいろどっている。

 早坂さんの吐く息は白い。制服の上からコートを着て、マフラーを巻いて、いかにも冬の装いだけど、早坂さんの周りはポカポカと暖かい空気が漂っているようだった。


「桐島くん、大好きだよ」


 そういいながら、くっついてくる早坂さん。


「これからも一緒にいてね」

「ああ」


 俺はうなずいていた。

 今の早坂さんは、自分が選ばれたという思い込みによってつくられている。けれど、まちがいなく、明るくてかわいらしい、一〇〇パーセントの彼女だった。

 俺はこんな幸せそうな顔をしている女の子を傷つけることができるだろうか。別れをきりだして、他の女の子を選んだといえるだろうか。

 スキー学習の夜には必ず結論をだす。その決意は変わってない。

 でも今は──。

 この幻みたいな早坂さんに溺れることにした。



 俺と早坂さんのほんわか彼氏彼女生活は予備校が中心だった。授業が終わって駅に集合して、予備校にいって一緒に勉強する。かなり真面目なふたりだ。

 カフェで大学選びの本を開いたりもする。


「私、もう第一志望決めたよ。桐島くんは?」

「まだなんだ。学部も決めてない」

「将来やりたいこと考えたら、自然に決まるんじゃないかな」


 以前とはちがって、早坂さんは俺と同じ大学に通いたいとか、そういう気持ちはないみたいだった。


「桐島くんの意志が優先だもん。別々になるのが普通だよ。でも私がいないからって、浮気しちゃダメだよ~」


 紅茶のカップを両手で持ちながら、おどけたトーンでいう。

 早坂さんは完全に、健全な女の子だった。いってることは正しいし、前みたいに無理に俺に合わせてブラックコーヒーを飲むこともない。

 過激なことも一切しなくなった。


「大人になったらしようね」


 そういうのだ。原因はやはり俺と橘さんがしたことだった。俺が早坂さんとしてないのは、俺が早坂さんの体を大事に想っているから。橘さんとしたのは、橘さんの体を雑に扱ってそういう衝動を処理したから。早坂さんのなかでは、そのように処理されていた。

 逆説的に、今してしまうと、大切にされてない。もしくは橘さんに後れをとったことを認めることになる。だから、早坂さんはとても潔癖になっていた。

 早坂さんは今まで自分が否定してきた、いい子の価値観を身にまとっていた。

 手をつなぐだけ、腕を組むだけ。


「キスはほっぺまでね」


 笑いながらいう早坂さん。俺はそれで全然よかった。体が目当てじゃない。

 俺たちは仲良しふわふわカップルで、デートでいきたい場所のリストをつくって、順にまわっていった。早坂さんのリクエストは動物園や水族館のようなほのぼのしたものが多かった。

 突然ライオンが吠えて俺の後ろに隠れる早坂さん、イルカに水をかけられてびしょ濡れになる早坂さん。ラーメン店にもいきたがるから、連れていってあげた。野菜がいっぱい盛られているタイプの店で、いろいろと注文の仕方があるからそれも教えてあげた。


「こういうデートでよかったのか?」

「うん、だってこういう店初めてだもん」


 ラーメン店や牛丼チェーンに入ったことのない女子はそれなりにいるらしい。


「つゆだくって、こういうことだったんだね」


 牛丼チェーンで初めての牛丼を食べた日の帰り道、早坂さんがいう。


「でもラーメンとか牛丼で喜んじゃう私って、ちょっと安上がりな女の子かな?」

「これからもその調子で頼むよ」

「すっごく高いブランドのカバンとかねだっちゃおうかなぁ!」


 早坂さんと過ごす時間はまるで陽だまりのような温かさがあった。

 とても穏やかで、安心感がある。

 彼女の魅力が最高潮に達したのは、週末、土曜日のことだった。

 その日、予備校で模試があった。全科目終了し、くたくたになって校舎をでる頃には日が傾きはじめていた。そこで早坂さんがいったのだ。


「ずっと桐島くんといきたいって思ってた場所があるんだ」


 ついていってみれば、そこはデパートの屋上広場だった。子供が遊べるように人工の芝生が敷かれ、小さな滑り台などの遊具が置かれている。


「小さい頃、よく家族できてたんだ」


 夕方だから、ほとんど人はいない。


「私のお気に入りはこれ」


 それはパンダカーと呼ばれる、パンダの乗り物だった。四本の脚でのそのそ歩くあれだ。


「古くなっちゃったなあ。前はもっときれいだったんだよ」


 一緒に乗ろ、というので、俺たちはパンダの背中にまたがった。早坂さんが前で、俺が後ろ。硬貨を入れたところで、パンダがゆっくりと動きだす。


「私ね、小さい頃、これに乗るのが大好きだったんだ」


 子供の頃ってお父さんとお母さんに守られて、愛されて、すごく幸せだよね、と早坂さんはいう。


「あのときの幸せな気持ちとか、包まれてる安心感とかって、大人になるにつれてなくなっていくよね。懐かしさだけが残ってさ。ああいう幸せな時間ってもうこないって思ってた」


 でもちがったね、といいながら早坂さんは俺をみる。


「桐島くんといると、あのときみたいな幸せな気持ちになれるんだ。すごくあったかくて、安心で。ありがとね、桐島くん」

刊行シリーズ

わたし、二番目の彼女でいいから。7の書影
わたし、二番目の彼女でいいから。6の書影
わたし、二番目の彼女でいいから。5の書影
わたし、二番目の彼女でいいから。4の書影
わたし、二番目の彼女でいいから。3の書影
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わたし、二番目の彼女でいいから。の書影