わたし、二番目の彼女でいいから。8
第27話 京都正常化交渉 ②
普通は、別れた恋人にはなにもしないほうがいいのかもしれない。
未練を残さないためにも。
でも――。
「俺は今回のことで、遠野の生活や将来が損なわれてほしくないんだ。勝手な願いだってのは、わかってはいるんだけど」
机の上には、マンガ本が散乱している。
俺はマンガ本を巻数順に整えて、積んでいく。
積み終わったところで、遠野が手を伸ばし、その山を崩した。
ふたたび、マンガ本が散乱する。
「遠野……」
俺はもう一度、マンガ本を整理する。でも、すぐにまた遠野が手で振り払って山を崩す。
それを、二度、三度繰り返す。
俺は付き合っていたときのことを思いだす。
遠野がベッドに服を脱ぎっぱなしにしていたことがあった。俺が、『遠野はずぼらだな~』なんていいながら畳むと、遠野は意地になって、『そっちのほうがあとから着やすいんです、わざとです!』と服をひろげてまたベッドに放り投げた。それで俺がまた畳んで、遠野が放り投げてを繰り返した。
そのときは互いに笑いあっていた。
でも今は、遠野は顔を伏せている。
あんなに楽しかったのに、同じことをしているのに、俺たちは全然笑えない。
思い出だけが温かくて、でも今のこの部屋はなんだか冷たくて、俺は本当に自分がひどいことをしてしまったのだと痛感する。
自分で選び、背を向けたことなのに、あの場所に戻りたいなんて思ってしまう。
そして、遠野も同じ記憶を思いだしたのかもしれない。
三度目にマンガの山を崩したとき、ついに泣きだしてしまった。
目を真っ赤にして、洟をすする。
「……ごめん」
「なんで桐島さんが謝るんですか」
遠野はすぐに目元をぬぐった。
「そんなに私を元気にしたいなら、簡単な方法、あるじゃないですか」
それは――。
「桐島さんが、私のところに戻ってきてくれたらいいんです。東京のことなんて捨てて、戻ってきてくれたら、それで私は元気になります」
俺は、それに対してなにもいえない。
そんな俺をみて、遠野はまた顔を伏せた。
「今までは、こんなふうに私が落ち込んでいたら、桐島さんは頭をなでてくれたり、抱きしめたりしてくれました。今はもう、してくれないんですね」
「それは……」
「洗い物とか、片付けとか、魚とか、そんなの全部いりません。私は桐島さんに戻ってきてほしいだけです」
遠野の本当に望んでいることはわかっていた。それでも、俺はそれをするわけにはいかなかった。遠野が好きか嫌いかでいえば、もちろん今もまだ好きだ。でも、これはどうしようもない類のことだった。
俺はそれを言葉にしようとする。
でも、どういっても冷たく響きそうで、なかなか言葉がでてこない。
そのうちに――。
「もう、帰ってください」
遠野は顔をあげて、また泣きそうな目で俺をみて、いった。
「それができないなら、桐島さんが私のためにできることなんて、なにもありません」
◇
週明け、俺は一つの悩みを抱えながら教育実習にのぞんでいた。
授業をしながらも、ふと、考えてしまう。
次の週末、静岡にいって、遠野を応援するかどうか。
とても微妙な問題だ。
ふった男の相手なんて忘れたほうがいい、という考えかたもある 。それで遠野が元気になるのなら、俺はひっそりと去るべきで、もう会わないほうがいい。
でも俺は、宮前の帰る場所をつくらなければならないし、なにより遠野が心配だった。もしこのまま、遠野を放っておくことで彼女自身が損なわれてしまうのなら、俺はそれをなんとしても止めるべきだと思うのだ。
そして、それは福田くんに対しても同じだった。
「俺は、人生において『致命的なつまづき』というものがあると思うんだ」
スマホのスピーカーに向かっていう。
昼休み、校舎裏でのことだ。
「たった一つの出来事が、人生を大きく狂わせる。その人を、本来在るべき姿から大きく遠ざけてしまうような。そして、そういう出来事は得てして、そのときはとても小さな、ささいな出来事だったりするんだ」
『え? そんな語りをやるためにわざわざ東京から、教育実習中の昼休みを使って、私に連絡してきたんですか?』
スピーカーから抗議の声があがる。
浜波だ。
『私のことヒマ人だと思ってます?』
「たまに中学の同級生を思いだすんだ」
とても頭のいい男がいた。いつも満点を取っていて、ペーパーテストだけでなく、何事に対しても考えていることにキレのある、本当に賢い男だった。誰しもが、すごい大学にいって、将来は大人物になると思っていた。
でも、その彼はあるテストで、赤点をいくつかとった。信じられないことだった。体調がわるかったのかもしれないし、たまたま苦手な範囲が重なったのかもしれない。いずれにせよ、それがきっかけだった。
最初はほんの些細な変化だった。勉強なんてできても意味ない、なんていうようになったり、宿題をやってこなくなったりした。
今思えば、彼のなかの勉強の価値を落とすことで、プライドを保とうとしたのだろう。
でもそのときは周囲も、彼自身もそういう心の動きに気づかなかった。
あいつ、本当は頭よくなかったんじゃないか、という周囲。
そういわれて彼は意識的にか無意識的にか、さらに勉強の価値を落とすという行動を加速させてしまった。気づけば、いつのまにかクラスで一番素行がわるくなり、そして誰よりも勉強ができなくなり、高校にも進学しなかった。
今、彼がどこでなにをしているのか、もう誰も知らない。
風の噂で、知り合いからお金を借りれるだけ借りていなくなったときいた。
はじまりは、たった一度の中学の定期テスト。
そこからの致命的な転落。
『つまづき』
もちろん、同じ状況になっても失敗しない人もいる。
ただ、俺がいいたいのは、ほんの小さな出来事が、巡り巡って人生に取り返しのつかないダメージを与えることがあるということだ。
そして恋愛における傷というのは、『つまづき』になりやすいと感じる。
だから――。
「俺は今回のことが、遠野や福田くんにとって、致命的なつまづきにならないようにしたいと思うんだ」
『なるほど。話が長過ぎて、いつツッコミをいれたらいいか戸惑っていましたが、結論だけきけば説得力はあります』
「そうなんだ」
遠野はバレーが不調になり、福田くんは授業にでない日が発生するようになった。そういうことは俺を少し不安にさせる。
『でも、どうするんですか? 桐島さん、みゆきちゃんにも追い回されてるのに、そんな余裕あるんですか?』
「三正面作戦だ」
『……なんかまた変なこといいだしましたね』
「京都で遠野たちをフォローする。宮前もちゃんと元いた場所に帰す。みゆきちゃんとの関係も区切りをつける。今回、俺はこれを同時にやり遂げようと思う」
全力で取り組むべき事柄が三つあるから、どれも正面ということで三正面作戦というわけだ。
「俺はそれらを明るくやり遂げようと思う」
『でた! 無駄にポジティブ!』
「ナイーブになってもいいことないからな」
いいながら、俺は遠くに目をやる。
「実はさっきから、校舎の陰から、みゆきちゃんが俺の様子をうかがってるんだ」
昼休み、職員室をでた俺についてきたようだ。また、なにか授業の質問とかにかこつけて話しかけてくるつもりなのだろう。
「そろそろ、ガツンといってやろうと思う」
『大丈夫なんですか?』
「俺が高校生の小娘に負けるはずないだろ」
『フリにしかきこえないんですけど!?』
「一発かましてくるか」
『冷静になってからのほうがいいと思いますね』
「先生の威厳ってやつをみせてくるか」
『私の話をきいてない?』
「ちょっと、みゆきちゃん!」
『桐島~!』
俺は浜波との通話を切って、校舎の陰にいるみゆきちゃんに近づいていく。
みゆきちゃんは俺にみつかって、あわてたように前髪をおさえたり、スカートを整えたりしはじめる。
「ぐ、偶然ですね、桐島先生っ」
「いや、俺についてきただろ」
「それは……」
みゆきちゃんは顔を真っ赤にする。そしてつま先をみながらもじもじしたあと、いった。
「わ、私とデートしてください」
「みゆきちゃん、それはダメだ」
俺は実に先生的な態度でいう。
するとその瞬間、みゆきちゃんが哀しそうな顔をしてうつむく。
「でも……私……中学の頃から、桐島先生のことが……桐島先生だって……あのとき……」
ここでかわいそうと思ったりしてはいけない。いつもそれで失敗してきた。
こういうときにバシッといわなければいけない。バシッと。だから、いう。
「みゆきちゃんは俺なんかよりずっと若いんだ」
「若い……」
「それに、とてもかわいい」
「かわいい……」
「だから、ちゃんと同年代のかっこいい男と付き合って健全な恋をするべきだ。年上の男がよくみえるのは幻想なんだから」
俺はバシッといったつもりだった。でも、みゆきちゃんの表情はちょっと明るくなっていた。
「ん? なんで?」
「若くて……かわいい……」
「なんか変なとこだけ拾われた気がするな」
ニュースの切り抜きだろうか。
「桐島先生……私のこと……若くてかわいいって思ってくれてるんだ……」
みゆきちゃんは、ぴょんと跳ねて俺の手をつかむ。
「先生は教育委員会とか、不祥事とか、そういうの気にして遠慮しちゃってるんですよね……」
「くそ~ちがうんだ~」
「私、桐島先生に手をだされても……絶対誰にもいいませんから! 私、本気ですから!」
そこでチャイムが鳴って、昼休みが終わる。
みゆきちゃんは上機嫌で教室に戻っていった。
俺はため息をつく。
実は、あまりよくない状況になっている。
みゆきちゃんが、教育実習の先生とやけに親しい、と噂になっているのだ。
もちろん、俺は先生スタンスを崩していない。
でも、みゆきちゃんが俺への好意を隠しきれないものだから、校内で評判になっている。
明らかに照れた様子で俺のスーツの裾を引っ張って呼び止めたり、授業であてられるだけで顔を真っ赤にしたりするからだ。
『三年の橘さん、絶対、桐島先生のこと好きでしょ』
生徒たちがそんなことを口々にいうものだから、その噂は職員室まで届いていた。
そのことで、俺は職員室での朝礼のとき、学年主任からもチクりといわれたりもした。
『この年代の生徒たちは視野が狭いので、くれぐれも間違いのないように』
学年主任は意味ありげな表情で、ずっと俺の目をみていた。
このままだと俺にとっても、みゆきちゃんにとってもよくないことになってしまう。
どうしたものか――。
そう思いながら午後の授業を終えたあと、放課後のことだ。
「桐島くん、一緒に帰ろっか」
職員室をでたところで、早坂さんが声をかけてきた。つづけて、小さな声でいう。
「送ってくよ。橘さんの妹さんにつかまったら大変でしょ?」
しかし、次の瞬間だった。
「桐島先生!」
みゆきちゃんが声をかけてくる。