わたし、二番目の彼女でいいから。8
第27話 京都正常化交渉 ④
「初めて合唱をしたのは小学生のときだった。なにもわからず、パート練習をさせられた」
俺にも経験のあることだが、男性パートの音階は、かなり独特だ。はっきりいって、これだけきいても、そんなに気持ちよくない。ポップソングを合唱曲にアレンジしているものもあるけれど、男性パートだけきくと別の曲のようにきこえたりする。
メインのメロディーラインは女性パートがメインだったりするからだ。
「でもね、全体練習であわせたとき、目が覚めるような気持ちになった。きれいな女性パートと力強い男性パートが渾然一体になって、美しい音楽になったんだ。よくわからなかった僕たちの低音パートが、きれいな女性パートを力強く支えるんだ。とても感動的な体験だった」
だから、高校でも合唱部をやっているという。
「女性パートだけでも、たしかにコンクールにでることはできる。でも、共学の僕たちがそれをするのは、少し寂しいことだ。せっかく高音と低音、ちがう声質を混ぜることができるんだから。それはきっと、とても素晴らしいことなんだ」
みゆきちゃんは門脇くんの言葉をしっかりきいて、受け止めているようにみえた。
そして、ふたりとも黙りこむ。
「みゆきちゃん、もういいんじゃないか?」
俺はいう。
「本当は門脇くんのこと嫌いじゃないんだろ。ジェスチャーゲームも、楽しそうだったよ」
きっと合唱だって本当はやりたいはずだ。でも、意地になって、振りあげた拳をどうしていいかわからない。そう思って、俺はいうが――。
「……そんなことありません。私は門脇さんがイヤです」
みゆきちゃんは、すねた顔でいう。
「私は合唱に真剣だったのに、あんな場面で、好きだとかそういう話をするなんて。学校も部活も、恋をするところじゃありません!」
「ん?」
俺は首をかしげる。
「そうやって恋に浮かれポンチになっている人のいうことなんて、もう簡単に信じられません!」
「みゆきちゃんの言葉に説得力を感じられないのは俺だけだろうか」
「桐島先生のバカ!」
みゆきちゃんはカバンをつかむと、またもや走り去っていった。
高校生になっても、合唱部になっても、どうやら走るのが好きなのは変わらないらしい。
しかし、いずれにせよ――。
「すまない。俺の力不足だ」
俺は門脇くんに謝る。この補習をきっかけにふたりの仲を修復するという作戦は失敗してしまった。でも――。
「桐島先生のせいじゃないよ」
門脇くんはいう。
「きっと、僕が自分でやらなきゃいけないんだ。誰かに頼ったりせずに、橘さんに誠意をみせなくちゃいけない」
「なにか考えはあるのか?」
「なにもないよ」
でも、と門脇くんはつづける。
「さっきのジェスチャーゲームでわかったんだ。僕はやっぱり合唱が好きだ。だから、やれることをやるよ。僕ができることを」
そういう門脇くんの表情は、どこか大人びていた。
◇
教育実習をするにあたり、俺は生徒にとって学びになるような先生になりたい、そんな意識ばかりが先行していた。でも、俺が生徒から学ぶこともあったらしい。
自分がやれることをやる。
門脇くんのいうとおりだった。結果がどうなるかはわからないが、俺は俺がやれることをやるしかない。
だから週末、遠野の試合がおこなわれる静岡に向かっていた。
「桐島、その格好はなんなのよ」
新幹線のなか、一緒に連れてきた宮前がいう。
「応援団の格好だ」
俺は丈の長い改造学ラン、つまりは長ランを着て、額と背中にタスキを巻き、腕には腕章をつけていた。
「桐島トラディショナル応援スタイルだ」
「…………」
宮前はじとっとした目で俺をみたあとで、膝の上に置いた小さな太鼓をみる。
「これ、私が叩くの?」
「俺は手をぶんぶん振って応援するからな。宮前がリズム隊だ」
「桐島がやること、はたからみてると面白いけど、自分も手伝うとなると……恥ずかしかね!」
宮前はぽこんと太鼓を叩く。
「でも、これで本当に遠野を元気にできるの?」
「わからない。でも、やってみようと思う」
桜ハイツの部屋で会ったとき、遠野にいわれたのだ。
『もう、着流しも着ないんですね。京都、捨てるんですね』
たしかに、ヤマメ荘をでていくと決めたときから、俺は着流しを着ていない。あれはヤマメ荘の住人が受け継いでいくものだからだ。
ただ、遠野はああいう格好をしている俺が好きだった。
だから、遠野を元気づける必要のあるこの場面で、俺は着流しと同じテンションになるために、この応援団の格好をしているのだ。
「こんなんで本当にうまくいくのかな」
「それもそうだが、もしうまくいったときは――」
「わかってるよ。昨日約束したし……」
昨日の夜、俺と宮前は話しあいをした。それは今回、遠野を元気づけて、京都正常化交渉が成功したあかつきには、俺となし崩し的に発生している今の関係をやめ、京都のみんなの元に帰るというものだった。
最初その話をしたとき、宮前はイヤがった。
「ヤダ~!!」
といいながら、部屋のなかを転がり、手足をばたばたとさせた。
「桐島と一緒に暮らすもん! 絶対ヤダ!」
「おいぃ~」
「私、知ってるもん! ゴネれば桐島はなんとかなるもん!」
「よくない成功体験積んでるな!」
そんな冗談っぽいテンションは長つづきしなかった。宮前もちゃんとわかっているのだ。
俺は早坂さんと橘さん、ふたりと高校のつづきをすると決めた。だから宮前とこの関係をつづけることはできない。それでも――。
宮前はゴネたあと、居ずまいを正し、真面目なテンションでいった。
「私、桐島と一緒にいるのが好き」
そして、着ているおそろいのパジャマをみながらいった。
「わかってるんだよ。このあいだも、おそろいグッズを捨てられそうになって、私、なんでそんなひどいことするの、って桐島に怒鳴った。私が勝手にしてることなのにね」
でも、と、また泣きそうな顔になって宮前はいった。
「それでもね、おそろいグッズがゴミ袋に入ったのをみると、本当に、胸が張り裂けそうだったの。だって、私が思い描いた幸せそのままなんだもん。すごく、温かくて、楽しいの。桐島は楽しくない? 幸せじゃない?」
「……楽しいし、幸せだよ」
俺は正直にいう。
この教育実習中、宮前と一緒に暮らしている。その時間は宮前のいうとおり、まさに絵に描いたような幸せだった。仲良しで、毎日を楽しく過ごすことができる。
でも俺は、そこから去らなければいけない。
北海道で、遠野との将来に幸せをみいだしたけれど、それでも別れを告げたように――。
だから俺は、宮前にいった。幸せで楽しいけど、そうしなければいけないのだと。それはもうどうしようもないことなのだと。
「その代わり、宮前が帰る場所はちゃんと用意する。だから、わかってくれ……」
「……うん……仕方ないよね……桐島が選んだんだもんね……ごめんね、ずっと私のワガママに付き合わせちゃって……」
昨夜の話しあいはそれで終わり、こうして、俺たちは静岡でおこなわれる遠野の試合に向かっていた。
となりの席で、宮前はなんやかんやで楽しそうに太鼓を抱えている。まだまだ俺と一緒にいることが嬉しいのだ。でも、俺はそれを終わらせなければいけない。
だからこそ、ちゃんと京都を楽しい場所に戻す。
そう、思うのだった。
◇
体育館に着いてみると、試合はもうはじまっていた。前の試合の決着が思ったよりも早く着いたらしい。そして遠野の試合はというと――。
劣勢だった。
スパイクがとにかくとめられる。遠野は、いつもは打てば九割決めるイメージだ。でも今の遠野は、半分くらいブロックに引っかかっている。
「こんな遠野……はじめてみた……」
宮前が苦しそうな表情でいう。
遠野はコートの上で、腕で汗をぬぐっていた。考え込むような仕草。チームメイトに声をかけられて、うなずいて声をだす。
「宮前、太鼓だ」
俺はいう。
「きっと、遠野のテンションが下がってるんだ。技術やパワーで遠野が負けるはずがない。だから、そこをなんとかしないといけないんだ」
必要なのは遠野に伝えることだ。
遠野は素晴らしい女の子で、わるいのは全部俺なんだ。なにも気を落とす必要なんてなくて、全部俺のせいにして、自分の生活やバレーを損なうことなんてなにもないんだ。
遠野、明るい光のなかを歩いてくれ。
そんな祈りをエールに込めようと思う。
俺はそのことを宮前に伝える。
すると――。
「桐島はやることがいつも同じな気がする!」
宮前はいう。
「なんか、前にも太鼓叩いて失敗してなかったけ!?」
たしかにそんなこともあった気もするが、そのあいだにも、遠野がバックアタックを打って、またブロックで止められてしまう。
「うまくいくかわからんが、やるしかない!」
「も~!!」
といいつつ、宮前はバチで太鼓を叩いて、リズムをだしてくれる。
俺は手を後ろで組んで、声をあげた。
「フレー! フレー! 遠野!」
白い手袋をした手を、前後、左右に振る。
「フレッ、フレッ、遠野、フレッ、フレッ、遠野!」
俺は祈る。
遠野、どうか自分を大切にしてくれ。
俺はもう、遠野のとなりにいることはできない。一緒に笑いあうこともできない。
でも、すごく勝手なお願いなんだけど、それでも、遠野には幸せになってほしい。
元気でいてほしい。
遠野と過ごした時間は本当に素晴らしいものだった。
コインランドリーでふたりならんで座っていた時間を生涯忘れることはない。
俺はたくさんのものを遠野からもらった。
だから、少しだけそれを返させてくれ。
どうか、この気持ちが届いて、遠野がこれからの道のりを、たしかな足取りで歩いていけますように――。
俺はトラディショナルな応援団スタイルで、声を張りつづける。
届け、この想い。
「遠野! 遠野! 遠野! 遠野!」
そのときだった。
遠野がこちらをみた。
「おい、宮前」
俺はいう。
「今、遠野、笑わなかったか?」
「うちは恥ずかしすぎて前みれんばい~」
「笑ったんだ、遠野は俺をみて、笑ってくれた……」
俺はがぜんやる気になってエールを送る。
「と・お・の! と・お・の! と・お・の! と・お・の!」
遠野はたしかに笑ったようにみえた。
でも――。
それはもしかしたら俺のただの願いで、勘ちがいだったのかもしれない。
遠野が調子を取り戻すことはなく、チームはそのままストレートで負けしてしまったからだ。