わたし、二番目の彼女でいいから。8

第28話 背徳センセイ ①

 いくつかの人生の教訓がある。

 ドラマティックに劇的なことをしながら叫んでも、現実ではなにも起こらない。酒の力に頼っても成功はない。そして、祈りながら太鼓を叩いたり応援団をやっても何事も解決しないということだ。

 大学三回生の五月、俺は多くを学び、そして依然としてどこにもたどりつけないでいた。


「桐島くん、大丈夫?」


 昼休み、屋上で手すりにもたれながら購買のパンをかじっていると、早坂さんに声をかけられる。


「なんだかつかれてるみたい」

「高校生を相手にするのはね」

「そっか」


 風が吹いて、早坂さんのやわらかそうな前髪がゆれる。

 しばらく黙って、グラウンドで体を動かす生徒たちを眺めていた。


「ごめんね」


 ふいに早坂さんがいう。


「いろいろ桐島くんにばかり負担かけちゃって」

「いや、これは俺が――」

「ううん」


 早坂さんは首をふる。


「遠野さんを、福田くんを傷つけたのは私も同じだもん」


 そういうと、早坂さんは俺の背中にまわって、後ろから抱きしめてくれた。


「ひとりで抱えこまないで」


 早坂さんの体温は、俺をどこか安心させる。


「少しでも、桐島くんの助けになりたいんだ」


 俺は生徒からみえないように、早坂さんを連れて手すりから離れる。そして奥にひっこんだところで、早坂さんを正面からみすえる。


「いいよ」


 早坂さんがいって、俺は彼女を強く抱きしめた。強く、とても強く。

 自分が情けない状況にいるとき、それでも許してくれる、受け入れてくれる人がいる。それは救いだった。そして早坂さんは、それを感じさせてくれる。

 俺は早坂さんの輪郭を感じ、髪の香りをかぎ、ぬくもりを感じながら、しばらく抱きしめつづけた。そして――。


「ありがとう」


 そういって、体を離す。


「なんだか落ち着いたよ」

「よかった」


 早坂さんはそういいながら、「ごめんね」と困ったような顔をする。


「もっとなにか、ちゃんと手伝ってあげられたらよかったんだけど……でも、やっぱりそれは桐島くんにしかできないみたい」

「もしかして、早坂さん……」


 うん、と早坂さんはうなずく。


「遠野さんと福田くんにね、私も謝りにいこうとしたことがあるの」

「早坂さんは別になにも……」

「ダメだよ。私だけ安全なところにいて、じっとしたまま、澄ました顔なんてしてられないよ」


 春ごろ、海辺の街から、京都までやってきたらしい。


「遠野さんには会ってもらえなかったけどね」


 福田くんとは少し話したらしい。


「謝ったんだけど、早坂さんがわるいわけじゃない、っていわれて……」

「彼らしいな」


 そのとき、やっぱり自分じゃダメだと思ったという。


「ふたりと私はね、どこまでいっても少し遠いんだ。出会ったのも、遠野さんは桐島くんの彼女としてだし、福田くんも、桐島くんの友だちとしてだし……」


 早坂さんは、何度もふたりに会いにいけるような空気を感じられなかったそうだ。


「でも、桐島くんはできる。だって、ふたりと長い時間を共にしてきたんだもん」

「ああ……もう少し、がんばってみるよ」

「私、どういう結果になったとしても、桐島くんをちゃんと待ってるから」


 早坂さんはそこで、少し考えこむような顔をする。自分のいったことに納得がいっていない、というような表情だ。


「どうかした?」

「うん、ちょっと……なんていうんだろ、さっき、私は桐島くんとちがって遠野さんたちとは少し遠いっていったよね」

「ああ」

「桐島くんも、私たちを選んで、遠野さんのところにはいられないっていう気持ちだよね」

「そうだよ」


 俺は京都正常化交渉を実現したうえで、京都を去り、早坂さんと橘さんのふたりと高校のつづき、その結末までいこうとしている。でも――。


「そんなに、割り切れるものなのかな。割り切って、いいのかな」


 早坂さんはいう。


「人とのつながりって、そんなものなのかな」


 早坂さんのいいたいことは、なんとなくわかった。

 俺たちは高校のときの感情を心の奥底に持っている。でも、大人になった部分もある。

 例えば、橘さん。

 橘さんは高校のとき、俺たちと出会うまでは人との関わりが薄いタイプだった。でも大学生になった今は、芸大の友だちもいっぱいいるようだ。

 つまり、俺たちの世界は広くなっていて、人と人との関係性も、たくさんの種類が発生するようになった。恋人、友だち、家族、それ以外にも様々な在り様があることを知っている。


「早坂さんのいおうとしていることはわかる」


 でも――。


「それを俺が考えるのは、それだけで厚かましいような気がするんだ」

「そうだね。それは私も同じ」


 ただ――。


「京都の桐島くん、けっこう似合ってたよ。それはきっと、嘘じゃなくて、これからもずっとホントのことなんだよ」


 そこでチャイムが鳴って、昼休みは終わった。

 午後の授業をして、一日が終わった帰り、電車のなかで考える。

 俺はずっと高校のときの自分と、京都の自分を分けて考えて、俺は高校の自分を選んだような気持ちだった。それはまちがいない。選択するというのはそういうことだから。

 でも、ヤマメ荘を引き払い、大学まで辞めることを考えている俺のやり方は、たしかに京都にいた自分を否定しているようでもあった。

 早坂さんの言葉が、頭のなかをぐるぐるとまわる。

 京都の俺も、嘘じゃない。ホントのこと。

 そのとおりだ。

 真実は高校のときの感情だけで、京都で起きたことは偽り、なんてことは絶対にない。遠野や福田くんに対して抱いた感情は、過ごした時間は、嘘じゃない。だから、それらを否定するような態度はとるべきではないのかもしれない。

 その考えに至ったとき、俺のなかでなにかが変わった。

 結論にたどり着いたというわけではない。

 いまだ俺は自分がどうすべきかわかっていない。でも、なにかが前に進んだような、それができるような気がしたのだ。

 きっと、少しずついろいろなことがこうやって前に進んでいくのだろう。

 宮前だってそうだ。


「桐島との生活、延長ばい」


 静岡で遠野を元気づけることに失敗したため、俺たちの共同生活はつづくことになった。

 でも、教育実習の期間は短く、だんだんと終わりに近づいている。

 宮前はちゃんとそれがわかっていて、冷静だった。

 昨日の夜、一緒にソファーでならんでコーヒーを飲んでいると、とても静かにいったのだ。


「もうすぐ、終わっちゃうんだね」


 宮前は、寂しそうな顔をしていた。

 わかってはいたんだ、とマグカップを両手で持ちながらいった。


「桐島は橘さんたちを選んじゃったし。桐島を京都に連れ戻すことができたとしても、それは遠野のとなりに返すってことだから、私は遠野の友だちで、ずっと遠野に隠れてこんなことしてられるほど器用じゃないし」

「宮前……」

「きっと、私は最初から桐島とは一緒になれなかったんだよね。だから、これ以上迷惑かけないように、ありがとうっていって、離れていかなきゃいけないんだよね」


 でもね、と宮前はくちびるを震わせながらいった。


「桐島とずっと一緒に暮らしてたい。だって、桐島が私の料理食べてくれるだけで、私がアイロンかけたシャツ着てくれるだけで、なんだかすごく嬉しいんだもん、幸せなんだもん」


 ずっとこうしてたいよ――。

 そういって、顔を伏せたのだった。

 昨日の夜、俺は宮前の肩を抱きながら眠った。

 いろいろなことが進んで、いろいろなことが終わりに向かっている。

 そう、思った。

 そんな考えごとをしているうちに電車は駅に着き、俺は電車を降りて、駅からマンションに向かう。

 夕暮れどきの通りを歩いていると、寂しい気分になった。

 教育実習が終われば、この道ともお別れなのだ。

 マンションに着き、階段をあがり、扉をあける。

 宮前はおらず、台所に書き置きがあった。


『ちょっとひとりで考えたいから散歩してる。お腹減ったら、先に食べてていいよ』


 鍋にはカレーがあり、炊飯器には、白米が保温になっていた。

 俺は宮前が帰ってくるのを待つことにした。

 手のひらのなかに握りこめるほどの、ちょっとした感傷。

 きっと宮前は、川沿いの道をひとり歩いて、なにかしらの決意をしてから戻ってくる。

 そんな予感がした。そしてその決意というのは、きっと、宮前にとってつらいものだ。

 だから、宮前と一緒に、カレーを食べるくらいはしたかった。

 そう思って、椅子に座り、宮前の帰りを待っているときだった。

 玄関の、チャイムが鳴った。

 宮前が結論をだして、しょんぼりして帰ってきたのだと思った。それで、鍵を開ける力も残ってなくて、チャイムを鳴らしたのだと。

 俺は宮前になんて声をかけたらいいのだろう。

 どんな顔をして迎えればいいのだろう。

 宮前の気持ちを想像しながら、ドアノブに手をかけ、扉を開ける。

 しかし――。

 そこにいたのは宮前ではなかった。

 恥ずかしそうに頬を赤らめながら、スーパーの袋を手に持った――。

 制服姿のみゆきちゃんだった。


 ◇


 俺は当然、教師というものは高いモラルを持つべきだと思っている。だからちゃんと、みゆきちゃんを部屋にあげることに抵抗した。


「話があるなら学校、もしくはどこかの喫茶店できこう」


 そういって、みゆきちゃんを追い返そうとした。それで玄関先でぎゅうぎゅうと押しあう格好になったのだが、最終的に、「えい!」とみゆきちゃんがぶつかってきて、なし崩し的に部屋に入られてしまった。


「カレーですか」


 みゆきちゃんが台所で鼻をすんすんさせていう。


「でも、カレーなら保存がききますよね」

「まさか――」

「はい。桐島先生が一人暮らしだときいたので、料理をしにきました――」


 みゆきちゃんは台所のシンクをみて首をかしげる。


「なんだか、片づいてますね……もっとだらしがなくて、私がお世話しなきゃいけないと思ったのに……」

「俺は意外とちゃんとするからな」


 といいつつ、俺はみゆきちゃんが首をかしげているすきに、宮前のものを引きだしやクローゼットのなかに隠していく。これ以上、事態がややこしくなっては困る。


「さあ、俺に家事は必要ない。みゆきちゃん、帰るんだ」


 俺は失敗から学ぶ男だ。

 現在に至るまで、間の悪いタイミングで、みられてはいけない場面をみられてはいけない人にみられることで、事態がこじれにこじれてきた。

 今でいえば、みゆきちゃんが部屋にいる状態で、宮前が帰ってくることだ。

 みゆきちゃんは姉の橘さんと早坂さん以外の、第三の女の子の登場でヒートアップするだろうし、宮前も、せっかくシリアスな空気感になっているのに、俺が女子高生を連れこんでいるとなれば、それなら私だって、となってしまう。

 俺はなんとしても、宮前が帰ってくる前に、みゆきちゃんを帰してしまわなければいけない。

 だから、俺はみゆきちゃんを玄関に連れていこうとする。


「先生と生徒がこんなことしてると大問題になるんだ。ほら、でて、でて」



刊行シリーズ

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