わたし、二番目の彼女でいいから。9

第33話 恋の十番勝負 ③

 早坂さんが窓の外に目をやる。その瞳は、景色の向こう側をみているようにみえる。


「受験はさ、絶対的な正解があって、その点数を積み重ねれば、結果がでた。でも就職活動はそうじゃない」


 絶対的な基準というものは存在しない。ある程度の適性というのはみられるだろうけど、最後は印象だったりするし、コネがものをいうこともある。学校みたいに、努力の過程が評価されることもない。

 学生のときは、評価において、知力に基づいた点数と、真面目さが多くの割合をしめていた。

でも、ここからはその割合が減り、別の要素が増えてくる。

早坂さんは就職活動をはじめて、そういうことを感じたらしい。

 ただ、早坂さんは、そういったちがいついて、いいたいわけではなかった。


「いつのまにか、遠くまできてたんだね」


 早坂さんはいう。


「高校生のときは、私たちも、クラスのみんなも、同じ景色をみていたと思う」


 どこか懐かしむような、寂しさを感じているような横顔。

 でも――。


「もう、みんな、ちがってる。ちがう経験をして、ちがう考えをもって、ちがう景色をみるようになってる。同じじゃない。文(あや)ちゃんのこと覚えてる?」

「酒井文、早坂さんと仲良くしていた女の子」


 メガネをかけて、自由な恋愛をしていた。


「文ちゃんはね、手に職つけるために、法科大学院にいくってさ」

「意外と似合いそうだな」

「このあいだ、その話をきいたんだけど、私の知らない世界だった」


 高校の教室にいたとき、俺たちは均質だった。同じ授業を受けて、テストや体育祭という同じ目的を持って、日常を過ごしていた。でも、もう、そこから、みんな枝分かれしている。

 俺や早坂さんみたいに大学に進学した人もいれば、卒業と同時に警察官になって働きはじめた人もいるし、専門学校に進んで、今はもう美容師になっている人もいる。

 そして――。


「私と桐島くんは、同じ大学生で、就職活動をしているところも一緒だけれど、でも、やっぱりちがう」


 そのとおりだった。

 リクルートスーツに身を包んでいる大学生たちも、はためには同じにみえたとしても、実は、持っている背景や、目指している場所が全然ちがっている。

 理系と文系、地元に帰る人、地元からでたい人、海外での勤務を希望する人、エトセトラ、エトセトラ。


「ここから私たちは、もっとそれぞれの経験をして、もっと別々の感覚を持つようになる」


 社会にたいして、人にたいして、その人の持っている経験や知識に紐づいて、それらの感触や感性、物差しは変わってくる。そうなると――。


「高校生のとき、私たちがいた教室は、すごい速さで遠ざかっていく」


 だから――。

 早坂さんがそういいかけたときだった。テーブルのうえに置いていた俺のスマホが震えた。

 橘さんからのメッセージだった。


『飲み会あるから、今からきて』


 場所だけが記載されていて、詳細はわからない。

 俺は早坂さんの顔をみる。


「いってあげて」


 早坂さんは、いつものあの、困ったような笑顔でいう。


「桐島くんは、橘さんにとっても理想の彼氏でいなきゃいけないんだから」

「しかし――」


 話の途中だったから、ここで席を立っていいものか、と俺はためらう。

 でも、早坂さんはもうその話のつづきをする気はないみたいだった。俺の前にあったケーキの皿を自分の前に引き寄せていう。


「桐島くんのケーキは私が食べておいてあげる」


 にっこり笑う早坂さん。

 たしかに俺たちは高校のときの、あの教室からはどんどん遠ざかっている。

 でも、ケーキをぱくっと食べて幸せそうな顔をしている早坂さんをみていると、どうやら、あんまり変わってないところもあるらしい。

 そう思ったけれど――。

 店をでて歩きだそうとしたところで振り返る。

 窓際の席に座る早坂さん。

 もう、コミカルな表情はしていなくて、ケーキにも手をつけていない。

 深く考え込むように、静かに目を閉じていた。



 橘さんに呼びだされた居酒屋にいってみると、七人の男女がもうすでに、飲み会をはじめていた。その場にいる人たちの雰囲気から、芸大の学友たちだとわかる。

テーブルに近づいていくと橘さんが俺に気づき、橘さんのとなり、はしっこの席に座るよう、ぽんぽんとシートを叩く。

俺が座ったところで、橘さんはみんなにむかって謝った。


「ごめん」


 そして、真顔でいう。


「彼氏が私のこと好きすぎて、友だちとの飲み会なのに、勝手にきちゃった」

「橘さんもその設定でいくのか」

「司郎くん、そんなに束縛しなくても、私、浮気したりしないよ」

「…………」


 俺はその場にいるみなさんに、束縛彼氏の桐島司郎です、と挨拶をする。


「彼女が好きすぎるあまり、ついついきてしまいました」

「司郎くんは仕方がないなあ!」


 ハイテンションでメニューを渡してくる橘さん。


「…………」


俺はメニューのなかに電気ブランをみつけ、それを注文する。

すると、対面の席に座る、ボブカットの女の子がいった。


「酔いの早く発するのは、電気ブランの右に出るものはない」


 太宰の一節だった。


「橘さんの彼氏は、なかなか時代がかってるね」


 電気ブランが運ばれてきたところで、俺を含めて、飲み会がリスタートする。

 橘さんの友人たちが、いろいろと質問してくる。俺は貧乏アパートに下宿して京都の大学に通っていることや、釣りや山菜採りをして日々の食料にしていることを話した。橘さんはスマホをだして、着流し姿の俺をみせたりした。

 橘さんは終始、嬉しそうな顔をしていた。

 きっと、俺をみんなに紹介したかったのだろう。

 それはいいとして――。


「ちょっと、橘さん」


 俺は机の下で、橘さんの手を、ぺしっ、と叩く。

 隙あらば手をつないでこようとするのだ。さらに、お酒を飲んで酔いがまわりはじめると、腕を組んで甘えてきたりする。


「こういうの、よくないやつだぞ。友だちがいる前で、イチャイチャするの」


 俺がいって、みんなが笑う。

どうやら橘さんは、学友たちに愛されているらしい。

 テーブルには、橘さんと同じく音楽を専攻している人もいれば、声楽、彫刻、絵画、いろいろな分野の人がいた。そして彼らの話は、普段、俺がいる場所で耳にするものとは、話題の内容や角度がちがっていた。

 橘さんにとってはそれが日常のようで、ふんふん、と話をきき、時折、それについて意見をいっていた。

 俺は、早坂さんの言葉を思いだす。


『高校生のとき、私たちがいた教室は、すごい速さで遠ざかっていく』


 そのとおりだった。

 当たり前のことなんだけど、橘さんも、高校生のときの橘さんと同じではない。

 そして、就職活動をしている俺や早坂さんよりも、実はちょっぴり大人だったりする。なぜなら、動画だけでなく、音楽の分野でいろいろと細かい演奏の仕事を受けているからだ。

 橘さんたちの世界では、就職というタイミングがなくても、依頼や、自らの才能の発揮で仕事がはじまるのだ。

 このあいだは、契約書に印鑑を押すための朱肉がなくて、深夜にリビングでごそごそと探しつづけていた。結局みつからず、俺と一緒にコンビニにいって新しい朱肉とアイスを買って、アイスを舐めながら帰ったりした。

 俺とはまったくちがう世界にいる橘さん。

 別に、それで心の距離を感じるとか、そういったことはない。

 早坂さんが大学で研究しているテーマだって、いろいろと話をきいてはいるけれど、俺にとってはまったく知らない世界だ。

 そんな風にして、俺たちにはそれぞれの時間があって、ちがう背景が発生している。

 でも、とても自然に一緒にいられるし、心はつながっている。

 それはきっと、かつて俺たちが同じ教室にいて、同じ時間を共有して、そのときに発生した感情をいまだに持ちつづけているからだ。

 ケーキを食べているとき、早坂さんがいおうとした言葉のつづきが、俺にはわかる。

 大人になるにつれて、あの高校の教室は遠ざかる。

 だから――。

 これが、『最後の恋かもしれない』、そのようなことを早坂さんはいおうとしたのだ。

 俺たちが抱えている感情は、本当はもう、あの場所から遠ざかって消えているはずのものだ。

 それを俺たち三人は、忘れ去られていくはずのあの教室から、この感情を、まるで真っ白な新雪が汚れないように、心の奥底に大事にしまって、ここまで持ってきたのだ。

 まだ同じ景色をみていたときに生じた、純粋な恋心。

 大人になって、これから誰かを好きになったとしても、きっともう、この感情と同種のものは生まれない。なぜなら、大人になってから誰かに出会うとき、それはより強く他人であるからだ。

 どちらがいいとか、わるいという話ではない。

 ある面において、俺たちがしていることはあまりにナイーブすぎるかもしれない。

 いずれにせよ、俺たち三人が共有しているこの恋は、二度とは戻らない、二度とは生じない青く隔絶した感情だった。

 そして――。

 その恋に、決着をつけようとしている。

 それは、なにかしらの終わりを予感させるもので、それを考えると、ひどく寂しい気持ちになるのだった。



 飲み会帰り、酔って前後不覚になった橘さんを抱えながら歩く。

 橘さんは学友たちとおしゃべりしながら、ほろ酔い状態になり、勢いで、俺の手元にあった電気ブランをぐびっといった。

太宰のいうとおり、電気ブランはとても酔いがまわりやすい。ブランデーをベースにしているのと、シンプルにアルコール度数が高いからだ。

 それを飲んだ橘さんは一瞬にして目をとろんとさせ、ぐでんぐでんになった。


「ちょっと、橘さん、大丈夫?」


 夜道を歩きながら、呼びかける。


「みんな、ごめん。彼氏が、勝手にきちゃった……」


 俺の腕につかまりながら、むにゃむにゃいう橘さん。


「私は呼んでないのに……まったく、全然、ホントに……もう、束縛がすごい……」

「全部バレてたからな、それ」


 橘さんの学友たちは、橘さんの行動なんて完全におみとおしで、酔って俺にくっつく橘さんをみて楽しそうに笑っていた。

 そして解散になるとき、あのボブカットの女の子が、橘さんをみながらいった。


「こんな楽しそうな顔、初めてみる。君のこと本当に信頼してるんだね」


 だから――。


「これからも、この子のこと、よろしくね」


 学友の女の子は、とても嬉しそうな顔をしていた。

 でも――。

 橘さんを抱え、夜道を歩きながら思う。

 俺と橘さんが、本当は、これからもずっと一緒にいられるどうかはまだわからない状況だと知ったら、あのボブカットの女の子はどんな顔をするだろうか。もし、俺と橘さんが一緒にならなかったら、あの、橘さんを大切な友人として、楽しそうに眺めていた学友たちはどう思うだろうか。

 彼らを裏切っているような気分だった。


刊行シリーズ

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