わたし、二番目の彼女でいいから。9
第33話 恋の十番勝負 ④
あの場で、必ず橘さんを幸せにするといえればよかった。それができれば、彼らも、橘さんも、もっと喜んでくれただろう。
でも、俺はそれをいえなかった。
そんなことを考えていた、そのときだった。
橘さんが、小さな声でいった。
「……帰りたくない」
「え?」
橘さんは立ちどまり、動かなくなる。
「…………まだ帰りたくない」
俺の腕を抱えたまま顔を押しつけていて、その表情はみえない。けれど、さっきまでとは雰囲気がちがっていた。
俺のジャンパーをつかむ手が、白くなっている。
切実だった。
「――わかった」
近くに公園をみつけ、橘さんと一緒にベンチに座る。橘さんは相変わらず俺に顔を押しつけたままだ。ただ、しんどそうな息づかいだったから、俺はすぐそこにある自動販売機に、水を買いにいこうとする。だけど、俺が離れようとすると――。
「いや」
橘さんが俺を強く抱きしめる。
「どこにもいかないで」
その声は、今にも泣きだしそうな、小さな女の子のようだった。
俺はベンチに腰をおろし、橘さんの肩を抱く。
「大丈夫、どこにもいかないよ……」
俺は橘さんの頭をなでつづけた。
やがて、橘さんが安らかな寝息を立てはじめる。
きっと、今夜は酔いすぎたのだろう。
いずれにせよ、落ち着いてよかった。そう思っていると、橘さんが、むにゃむにゃと寝言をいいはじめる。
「司郎くんに酔わされて、お持ち帰りされた。今夜は帰れない……むにゃ……」
「…………」
どうやら元気になったらしい。しかし――。
「これ、どうしよっかな」
橘さんが起きる気配はない。まさか、朝までこのままか、と思ったそのときだった。
通りを誰かが歩いてくる。
その足音は通りすぎず、公園に入ってきて、こちらに向かってくる。
「やっぱりね。こんなことだろうと思った」
手には水のペットボトル。
早坂さんだ。
◇
夜の公園に、カシュッ、とプルタブを空ける音が響き、早坂さんが勢いよく缶に口をつける。
喉を鳴らす音。
「ぷは~っ!」
チューハイの缶が空き、地面に置かれる。もう、三本目だった。
酔っ払いが増えていいことなんて、ひとつもない。
では、なぜこうなっているかというと、まず、水のペットボトルを持った早坂さんが公園に入ってくる。橘さんの頬に冷たいペットボトルをあてる。橘さんが目をあけ、ペットボトルを両手で持って水を飲みはじめる。そしてある程度飲んだところで、水を手渡し、また俺にくっついて眠りはじめる。
「まったく、甘えん坊なんだから」
早坂さんはあきれたようにそういうと、ちょっとコンビニいってくる、といって、コンビニにゆく。そして戻ってきたときには、なぜか大量の缶チューハイの入った袋を持っている。
「なんで?」
「だって、橘さんと桐島くんは飲んで楽しんでたんでしょ? だったら、私も飲まなきゃ」
「どういう理屈!?」
ということがあり、早坂さんはにこにこしながら、お酒を飲みはじめたのだった。
そして、その数十分後――。
右からは酔っぱらって眠る橘さんに抱きつかれ、左からは同じく酔っぱらった早坂さんに絡まれるという構図が完成していた。
「状況が悪化している……」
「桐島くんは幸せだね」
とろんとした顔で、早坂さんは俺の腕を抱えながらいう。
「ねえ、キスしよっか」
「え?」
「イチャイチャしようよ。私、そういう気分なんだ」
「いや、ほら、今は外だし……」
「もう誰もいないよ」
キスしようよ、と酔っ払いのテンションでぐいぐいくる早坂さん。俺はそれを押し戻そうとして、ぎゅうぎゅうとせめぎあう。
でも、ふとした瞬間に、早坂さんが力を抜いて、視線を地面に落とし、少し寂しそうな表情で、「桐島くんはわかってないんだよね」と、いう。
「一緒にいたいと思ってる男の子がさ、他の女の子に呼びだされて、それを、そっちにいっていいよって笑顔でいって、見送る女の子の気持ちをさ」
いわれて――。
俺は言葉に詰まってしまう。
わかっていないわけではなかった。想像していないわけではなかった。ただ――。
「ごめん……」
「えへへ、冗談だよ。あの頃みたいに、桐島くんを困らせたくなっただけ」
早坂さんはまた、ほろ酔いの顔になっていう。
「三人でいるとね、高校のときの気持ちを思いだすんだ。私、わるい子になりたがってたでしょ?」
高校生のとき、早坂さんは教室で、周囲から清楚なイメージを押しつけられて、その反発から、過激になっていたところがあった。
「みんな私にいい子の振る舞いを押しつけてきてさ、でも、私のこと、そういう目でみてた」
「早坂さんは魅力的だから」
「就職活動でも、そうなんだよ」
集団面接で一緒になった男子学生から連絡先をしきりにきかれるらしい。
「大学が地方だから、隙がありそうって思われてるみたい。そういうの、わかるんだよね」
東京を案内しようか、などといって、口説かれたりするらしい。
早坂さんは東京出身なわけだけど、自分の情報を開示しないのだ。
「みんなが思ってるような女の子じゃないんだけどな」
そこで早坂さんは、いたずらっぽい顔になる。
「ねえ、あの頃みたいに、わるいことしようよ。橘さんに抱きつかれてるとなりで、私とキスしちゃお?」
そういいながら、挑発的にくちびるを近づけてくる。
俺はそこにキスをして、早坂さんのやわらかい体をさわれば、とても気持ちよくなれることを知っている。
「ほら、早くしないと、就活で、遊んでる大学生にひっかかって、いっぱいヤられちゃうかもしれないよ?」
きっと、早坂さんはもう大丈夫だ。高校のときみたいに、バランスを崩したりしない。
でも、あの頃のテンションに浸りながら、俺にその魅力的な体を押しつけて、囁く。
「ねえ、わるい子になろうよ。清楚な早坂さんに、いっぱいイタズラしちゃお?」
早坂さんの、くちびるが近づいてくる。
でも、そのときだった。
反対側の腕を、ぐいっ、と引っ張られる。
橘さんが目を覚ましたのだ。
「あかねちゃん、私の彼氏にちょっかいださないでよぉ~」
まだ酔っ払っている橘さんは、がるるるる、と唸って威嚇する。
そうなると当然、もうひとりの酔っ払い、早坂さんも応戦する。
「ひかりちゃんは別に寝てていんだけどぉ~!」
右から橘さんに引っ張られ、左から早坂さんに引っ張られる。
酔っ払いふたりに綱引きされる俺。
「司郎くんは私の彼氏~!!」
「ちがうよ、私の彼氏だよ~!!」
酔っ払い一号と、酔っ払い二号が、てんやわんやとやりはじめる。そして――。
「わかった」
橘さんが、すくっ、と立ちあがる。
「勝負しようよ」
「いいよ」
売られた喧嘩は買うよ、というテンションで、早坂さんも立ちあがる。
「十番勝負のつづきだね」
橘さんか早坂さん、どちらが俺を持っていくかを賭けた戦い。
「え? この酔っ払いテンションで勝負すんの? けっこう大事なことだと思うけど?」
せめて素面のときがいいんじゃない? と思うんだけど、この酔っ払いたちがとまるはずもない。
「じゃあ、なにで勝負する?」
「手押し相撲」
「いいね」
ふたりは正面から向かいあうと、手のひらを押しだして、戦いはじめる。
押しあいをして、バランスを崩したほうが負けという、小さい頃によくやった遊びだ。
しかし――。
「あれ? ふみぃ?」
「え? ほえっ?」
ふたりの押しだす手のひらが、互いにまったくあたらない。すかっ、すかっ、と空を切りつづける。
「あかねちゃんが曲がってみえる……」
「私も」
どうやら、アルコールの影響で、視界がまっすぐみえてないようだった。
数分間に渡って、まったく噛みあわない手押し相撲が繰り広げられる。
そして、しばらくしたところで、橘さんが動きをとめ、じとっ、とした目で早坂さんをみはじめる。その視線は、白いシャツのボタンがとびそうになっている、大きな胸に注がれていた。
このままでは決着がつかない。だから――。
「………胸相撲」
橘さんは胸をはっていう。
「手押し相撲じゃなくて、胸相撲で勝負する」
そんなの存在しないだろ、って思うんだけど、酔っ払い同士のインスピレーションなのか、しっかり伝わったようで、早坂さんもばぁ~んと胸をつきだした。
「いいよ」
どうやら、胸と胸をぶつけて対決するらしい。
橘さんと早坂さんは、互いにすれすれのところに立ち、西部のガンマンのような表情で、対峙する。
糸を張ったような、緊張した空気感。
夜の公園に乾いた風が吹き抜け、コンドルがとんでいく。
「私が勝つ。私の胸はとても大きい」
「あんまりしゃべると弱くみえるよ」
そして――。
空き缶が倒れる音が、合図だった。
ふたりの目が鋭く光り、彼女たちの胸が激突する。
勝負は一瞬だった。
ぶつかった、と思ったときには、橘さんが地面に尻もちをついていた。
橘さんは驚愕の表情で、早坂さんをみあげている。
なぜ自分が負けたかわからない、と本気で戸惑っている。
「な、なんで、私が――」
俺は思う。
どうして早坂さんに勝てると思ったのか。
胸で。
◇
酔っぱらいたちをマンションに連れて帰った。靴を脱がせ、それぞれの部屋に運んでベッドに転がす。彼女たちはすぐに安らかな寝息を立てはじめる。
俺はふたりのベッド脇に水を置き、リビングのソファーで眠った。
翌朝、二日酔いに苦しむふたりのお世話をしてから、また就職活動にでかけた。よくある一日だった。説明会にいって、面接にいって、マンションの部屋に戻って、一日を終える。
その日、俺は早坂さんのベッドで眠る日だった。
パーフェクトな彼氏として、腕枕をして眠る。
深夜、ふと目が覚めた。腕がしびれておらず、軽かったからだ。体を起こしてみれば、早坂さんがいない。水を飲みたかったから、ベッドからでて、部屋の扉に手をかけたところで、立ちどまった。
扉の向こう、リビングから話し声がきこえてきたからだ。
聞き耳を立てるのはわるいと思った。けれど、俺はそれをきかなければいけない気がして、少しだけ扉をあけて、隙間から様子をうかがった。
橘さんと早坂さんは、それぞれソファーと椅子に腰かけて、話をしていた。
ふたりは、コミカルなトーンではなかった。
「あの夜、なんで公園に迎えにきたの?」
橘さんが、早坂さんを横目でみながら、静かにいう。
「心配だったからだよ。遅かったから――」
早坂さんは視線をそらし、目をあわせない。
「嘘。私と司郎くんが、ふたりきりだったからでしょ」
「……そうかもね」
早坂さんはいう。
「橘さん、お散歩とかいって、桐島くん連れだして、すぐふたりきりになろうとするし」
「…………」
ふたりが沈黙する。
重い空気。
そして、また橘さんが口をひらく。
「早坂さん、すぐ司郎くんと……そういうことしようとする。部屋借りる前、過激になりすぎないようにしよう、って約束したのに」
「そうだね。でも、お返しみたいに、橘さんだってしてくるじゃん。このあいだ、私と桐島くんが話してたとき、してたでしょ?」
「…………」
「みえてないつもりだったかもしれないけど、ちゃんと気づいてるから」
早坂さんが顔をあげる。
「あのとき、桐島くん、エントリーシート作ってたよね。橘さんはわからないかもしれないけど、将来がかかった、大事なことなんだよ。それをジャマしてさ。ちょっと子供っぽいよ」
「仕方ないでしょ」
橘さんも正面から早坂さんを見据える。
「私は一年遅れてるんだから」
ふたりの視線が交錯する。でも――。
「……ごめん」
「ううん、こっちこそ」
すぐに、ふたりは目をそらしたのだった。
「こういうの、やめようよ」
「うん。私は……橘さんの気持ちも、桐島くんの気持ちも、尊重するから」
「とりあえず、もう寝よう。遅いし」
「だね」
そういって、ふたりは立ちあがる。
俺は急いでベッドに戻り、寝たふりをする。そして、早坂さんが戻ってきたところで、さも今起きたかのような演技をして、喉が渇いたといい、立ちあがって部屋をでた。
キッチンでコップに水を入れ、飲む。
早坂さんの部屋の戻ろうとして、リビングで足をとめる。
ソファーの前にあるテーブルには、マグネットの将棋盤が、指しかけのまま、置かれている。
これは、ふたりの十番勝負のひとつだ。
数日前、橘さんがテレビのチャンネルをザッピングしているとき、たまたま将棋の対局が中継されていて、いいだしたのだ。
次の十番勝負、これでいいんじゃない?
いいよ、と早坂さんがいって、ふたりで将棋盤と入門書を買って帰ってきた。
橘さんも早坂さんも、将棋の指し方も知らなかったのだ。
それから毎日、入門書とにらめっこしながら、少しずつ将棋の駒を動かしている。
激辛麻婆丼、胸相撲、初心者将棋。
ふたりの、ポップでキャッチーな、かわいらしい対決。
でも――。
俺は思いだす。
ケーキ店で、とても静かに、深く考えこんでいた早坂さん。
夜の公園で、いかないで、と俺の袖を強くつかんだ橘さん。
そして、さっきのやりとり。
きっと、彼女たちは、本気で、この十番勝負で決着をつけようなんて思っていない。
そういうことをしながら、探しているのだ。
なんてことのない表情の下で、深く考え、悩みながら。
この恋の、最後の結末を。



