わたし、二番目の彼女でいいから。9

第34話 再会 ②

 ◇


 橘さんに好きといわれて抱きあい、早坂さんとキスしてまた抱きあう。

 とても気持ちよくて幸せな毎日。

 恋の決着はポップな十番勝負や、互いを尊重した話し合いに委ねられる。

 ふたりは仲良くしていて、決着がついたあとも、このまま橘さんと早坂さんが友だちでいられるような未来が待っているかもしれない。

 でも、なぜだろうか。

 ずっと、浅い眠りのなかで、夢をみているような感覚だった。

 これで、いいのだろうか。

 本当に、決着がつくのだろうか。

 それは、俺たちが望んだものなのだろうか。

 どこか、現実感のなさのようなものを感じていた。

 そんな、ある日のことだった。

 内定のない俺は、相変わらず就職活動をしていて、その日もスーツに身をつつみ、ネクタイをしめ、オフィスビルで面接を受けていた。

 専門商社と呼ばれるカテゴリーの会社だった。

 志望動機、やりたい仕事などをきかれ、考えてきたことをこたえる。

 最終面接だった。

 しかし、俺は自分の受け答えに気持ちが入っていないことを自覚していた。

 そして、強い意思を持って面接にのぞんでいる人間と、そうでない人間を見分けることはそれほど難しくはない。誰しもが直感を持っていて、ごまかすことなんてできないのだ。表面を取り繕っても、その内面が、言葉以外の部分、印象や所作で伝わってしまう。

 結局、俺はなんの手ごたえもないまま、面接を終えた。

 もどかしい気持ちを抱えながら、オフィスビルをでる。

 俺の心のありようとは裏腹に、外は夏の日差しで明るく、昼休みなのだろう、サラリーマンやOLの人たちが、楽しそうな表情でランチに繰りだしていくところだった。

 そうしていた、そのときだった。


「桐島?」


 少しの驚きを含んだ声で、呼びとめられる。

 振り返ってみれば、背の高い男の人が立っていた。

 アイロンのきいた半袖のシャツに、スーツのズボン。

 その人と会うのは数年ぶりで、さらに社会人になっているものだから、実際よりも大きな時間の隔たりを感じる。

 けれど、俺はその人がよくわかる。

 彼は、自分から俺を呼びとめたわけだけど、俺をみて、少し困ったような顔をしていた。

 けれど、勇気をだすように俺をみすえたあとで、いった。


「一緒に、昼飯でもどうだ?」


 俺も少し困ったような気持ちになりながらも、はい、とうなずく。きっと、俺はこの人と、話をしなければならない。

 オフィス街での再会。あの頃より、さらに大人びているけれど、それでもこうして向かいあうと、先生が黒板に書くチョークの文字や、部活のグラウンドの掛け声なんかが、ありありと浮かんでくる。

 中学のとき、俺によくしてくれたひとつ年上のお兄さん。

 早坂さんが一番好きだった人。

 そして――。

 橘さんのことを、ずっと、一途に好きだった人。

 柳先輩だ。


 ◇


 落ち着いて話のできる店にいこう。

 そういって、つれてきてもらったのは、個室の和食屋だった。

 食べたらでなければいけないような忙しい食堂ではなく、かといって、高すぎて萎縮してしまうような店ではない。

 先輩は、相手や場面にあわせて、ふさわしい店を知っているのだろう。

 店員さんがやってきて、先輩はしょうが焼き、俺はサバの味噌煮の定食を注文する。

 お冷に口をつけたあとで、先輩が、高校以来だな、という。


「元気にしてたか?」


 きかれて、あれから京都の大学にいったことを説明する。

 先輩は、それについては知っていた。


「当時、噂できいたんだ。後輩に、京都の大学に進学して、着流しを着て下駄を履いている、時代錯誤なやつがいる、って」

「…………」


 大学生の前半は、まだ、高校の誰が、どこでなにをしているか、そういう話題がでる。

 でも、それらは忘れ去られ、話題にのぼらなくなっていく。

 だから、それ以外のことは知らないらしい。ただ――。


「スーツを着ているところをみると、ちゃんと就職活動してるんだな」

「まだ決まっていないという点に目をつむれば、ちゃんとしています」

「そういうこともあるさ」

「先輩は?」


 俺がきいて、先輩がこたえる。


「デベロッパー」


 不動産開発業者のことで、先輩が勤める会社は、社会人であれば誰でも知っているような、大手の会社だった。都心の一等地を買いあげて、商業施設を建てたり、オフィスビルを建てたり、都市を開発し、街全体をデザインする仕事だ。

 先輩は、あるターミナル駅周辺の再開発のプロジェクトチームに所属しているらしかった。


「まだ下っ端の駆けだしだけどな」


 先輩は謙遜するようにいう。


「大きなビルを建てたり、周辺一帯を開発するから、完成まで十年以上かかる。でも、街がきれいになって、便利で快適になる。そこを行き交う人たちの楽しそうな顔を想像すると、やりがいを感じるんだ」


 先輩の目は、未来をみていた。

 そこで、定食が運ばれてきて、話が中断する。

 しかし、俺も先輩も箸をつけようとはしなかった。

 ただ、黙って向かいあう。

 近況報告は、ただの形式にすぎない。少し長めの挨拶のようなもの。

 俺たちが話さなくてはいけないことは、そういうことではなかった。俺は膝のうえにおいた自分の手をみつめる。話さなければいけないことはたくさんあるように思えるし、でも、多くを語ることに、もう意味もないようにも感じる。それでも、俺はいう。


「すいませんでした」


 柳先輩はそれをきいて、首を横にふった。

 そして数秒、迷うような表情をしたあとで、俺にきいた。


「橘ひかりとは、会っているのか?」


 しかし――。

 柳先輩はすぐに、「ちがうな」と仕切りなおすようにいった。


「今のは忘れてくれ。そういうことではないんだ」


 柳先輩は、考えこむような表情をしたあとで、ゆっくりと話しはじめる。


「今日、桐島をみかけたとき声をかけるかどうか迷ったんだ」


 声をかけて、一体、なにを話すというのか。今さら、話すべきことがあるのか。相手に、なにを求めているのか。


「わからないまま、声をかけた。そうすることはできると思ったんだ」


 俺も、同じだった。

 柳先輩に声をかけられて驚いた。でも、会話をすることはできると思った。高校のときや、大学生のはじめの頃であれば、逃げだしていたかもしれない。

 でも今は、向かいあうことができるような気がした。


「もしかしたら、俺は過去について、今思っていることを、話したかったのかもしれない。区切りをつけるというような大層なことじゃないんだけど、整理するために。そして、それを話すべき相手が、桐島だった」


 柳先輩は、俺の目をみたあとで、力を抜いた表情になって、いった。


「もう、橘ひかりの顔も思いだせないんだ」


 柳先輩は高校を卒業したあと大学に進学した。

 そして、数人の女の子と付き合ったらしい。


「みんな魅力的で、どの恋も、本気で相手を好きになれた」


 その全てが、素敵だったと先輩は語る。

 そして今も、ちゃんと恋人がいるという。


「価値観がよく似ているし一緒にいて楽しい。きっと、このまま結婚すると思う」


 柳先輩は、あの頃から今に至るまで、多くの経験を重ねた。それは恋愛的なものだけでなく、大学生、社会人という変化もある。

 日々の忙しさ、新しい人間関係、素敵なパートナー。

 それらは地層のように堆積し、橘さんのことは薄れてゆく。


「たまに思いだすこともある。夢をみるんだ。起きたときにはなにも内容を覚えていない、そんな夢だ。ただ、彼女の夢をみたことだけはわかっていて、あの頃、熱に浮かれたように彼女のことを好きだったときの気持ちの、その残像のようなものが起き抜けの瞬間だけ、胸に残っている。俺はそれを懐かしみながら、スーツに着替えて、仕事に向かう」


 もしかしたら、と先輩はいう。


「今、彼女と再会したら、また彼女のことを好きになるかもしれない。あのころの気持ちを完全な形で思いだすかもしれない。彼女はさらに素敵な女の子になっているだろう。でも、そうする必要はまったくない。そう、感じるんだ」


 オフィスビルの前で声をかけられたとき、先輩は社会人の表情だった。でも今は、同じ学校の、ひとつ年上のお兄さんの顔に戻っている。

 そして、柳先輩は記憶をなぞるように、少し黙ったあとで、いった。


「高校のときのあれは、ひどい経験だった。深く、傷ついた」


 すいません、と俺は再度謝る。

 しかし、先輩はもう反応しなかった。そういう言葉は求めていないのだ。そもそも、先輩は俺になにかしてほしい、なにかいってほしいわけじゃない。


「けれど――」


 先輩は、自分のなかの考えを丁寧にとりだすようにつづけた。

 高校のときの、あの出来事にはひどく傷つけられた。

 でも、今になって思うと――。


「なにもないより、よかった」


 ◇


 しばらく、街を歩いた。公園のベンチに座ってゆきかう人たちを眺めたり、喫茶店に入って、なんともなしにコーヒーを飲んだりした。

 ずっと、柳先輩の言葉を反芻していた。

 なにもないより、よかった。

 それは俺の心の深いところに響いた。

 なにもないより、よかった。

 音叉が震えるように、鳴りつづける。

 俺たちは共同生活のなかで、様々なことを、なにもないように、しようとしているのかもしれない。

 仲良くしている橘さんと早坂さん。

 俺はそれを見守っている。

 でも――。

 いえない言葉。

 表にだせない感情。

 彼女たちのなかに、そういったものが、ずっと、山の奥の落ち葉のように、降り積もっているのはわかっていた。

 このままで、いいのだろうか。

 そう思いながら、夕方、部屋に戻ると――。

 ふたりが喧嘩をしていた。

 お菓子を投げあうようなポップなやつじゃない。

 相手を傷つけるために言葉を投げつける、本物の喧嘩だ。


 ◇


 後からきいた話によると、その日、俺が面接を受けにいっているあいだに、橘さんと早坂さんは、いつも深夜にやっているような話し合いをしていたらしい。

 テーマは『恋の視点』だった。

 最初は、例のごとく、互いの良いところをあげあった。


「橘さんは桐島くんを楽しませるよね」

「早坂さんは司郎くんに尽くすタイプだよね」


 でも、テーマが『恋』ということもあり、だんだんと互いを褒めあう流れが変わり、自分のことを主張するようになっていった。そして――。


「私は司郎くんが初恋だけど」


 橘さんが、それをいった。


「そ、そうだね」

「司郎くんも、私が初恋だと思う」

「初恋が一番尊いかといえば、そうでもないと思う。だって、小さいころってちゃんとした判断とかできないし。むしろ成長したら、なんであんな人好きだったんだろ、みたいなことになるって、みんないうし」

「私と司郎くんの恋はそんなんじゃないよ」


 橘さんは、初恋であることを大切にするタイプで、早坂さんはそこがコンプレックスだったりするから、それで、言い合いになってしまう。

 俺が帰ってきて、リビングの扉をあけたときには、もうかなりエスカレートしていて、ふたりは立ちあがり、鋭い言葉をぶつけあっていた。



刊行シリーズ

わたし、二番目の彼女でいいから。9の書影
わたし、二番目の彼女でいいから。8の書影
わたし、二番目の彼女でいいから。7の書影
わたし、二番目の彼女でいいから。6の書影
わたし、二番目の彼女でいいから。5の書影
わたし、二番目の彼女でいいから。4の書影
わたし、二番目の彼女でいいから。3の書影
わたし、二番目の彼女でいいから。2の書影
わたし、二番目の彼女でいいから。の書影