わたし、二番目の彼女でいいから。9

第35話 桐島、魂の旅路 ①

 あの日、早坂さんは部屋をとびだしていった。そして、数日経っても戻ってこなかった。俺がメッセージを送っても、返信が返ってくることはなく、既読にもならなかった。

 俺は早坂さんのことが心配で、まず、東京にある早坂さんの実家をたずねた。けれど、早坂さんはいなかった。それで、海辺の街にもいったのだけれど、下宿のアパートにもいなかった。

 念のため早坂さんが所属する研究室を調べて電話をかけてみたけれど、夏休みは一度も顔をだしていないという返答があった。

 海辺の街でもう少し待ってみようかと思ったけど、早坂さんからメッセージがきた。俺が研究室に電話をかけたことがきっかけだった。

 

『探さないで』

 

 早坂さんは、別に自暴自棄になったりしていない、と俺に伝えてきた。

 

『でも、もう桐島くんと橘さんの前には現れないから』

『中途半端な感じになって、ごめん』

『私は元気にしてるから』

『さようなら』

 

 それからはもう、俺がメッセージを送っても、返信してくることはなかった。

 俺はとりあえず、東京に戻った。

 橘さんはひどく落ち込んでいた。

 

「早坂さんには会えなかったけど、元気にしてるってメッセージはきたよ」

「こんなつもりじゃなかったの……」

 

 橘さんはそういって、フロアーに散らばったままのマグネットの将棋の駒をみた。ずっと思い悩んでいたようだった。

 その夜、俺は橘さんを抱きしめて眠った。キスしたりしてくることはなかった。翌日からはさらに元気を失くし、お散歩に誘ってくることもなくなり、大学にもいかず、家のなかにいることが多くなった。

 俺は橘さんのことも心配になって、橘さんを外に連れだそうとした。

 

「どこかいきたいところはない?」

 

 そうきくと、橘さんは「夜景がみたい」といった。それで、夜、ふたりで東京タワーの展望台にのぼった。小学校の社会科見学以来だった。

 橘さんは展望台からみえる景色を、フラットな表情で眺めつづけた。

 黒いシャツに、白のスカート、シックな装い。

 耳につけられたピアスが大人っぽい。

 けれど、その表情は迷子になった少女のようだった。

 

「わかってたのにね」

 

 夜景の輝きが、橘さんの瞳のなかで揺れている。

 

「今さら、あんなこといっても意味ないって。司郎くんが最後までしないのは、そういうことじゃないって」

 

 私はわかっていたのに、と橘さんは繰り返す。

 大学生の夏休みは八月と九月で、きっと、十月になれば、早坂さんは海辺の街に戻ってきて、大学の研究室にちゃんと通うだろう。早坂さんは真面目な女の子だから。

 けれど、そのときに声をかけても、早坂さんの心は、俺たちに対して、もう閉じてしまっていることは明らかだった。

 俺たちの恋の結末が、こんな終わりかたでいいのだろうか。

 きっと、よくない。

 橘さんもそう感じているから、憂いを帯びた瞳で、夜景を眺めつづけている。相手を言い負かして終わることなんて、望んでいないのだ。

 この夏が終わるまでに、早坂さんを連れ戻さなければならない。

 だから、俺はいった。

 

「早坂さんを探しにいくよ」

 

 俺はそういってしまったあとで、はっ、とする。

 それはとても慎重にいうべき言葉だったからだ。

 このまま早坂さんを探しにいかなければ、俺と橘さんが一緒になる未来しかない。それなのに、俺が早坂さんを探しにいくということは、そうじゃない可能性を残すということで、橘さんを傷つけると思ったのだ。

 実際、橘さんは少し困った顔をした。

 でもすぐに、俺の顔をみて、俺の考えたことをちゃんとわかって、いった。

 

「大丈夫だよ」

 

 橘さんはいう。

 相変わらず物静かで、儚い雰囲気。高校のときと変わらない、ガラスのような繊細さをいまだに持ちつづけている女の子。

 でも――。

 

「私、もう、あの頃みたいに弱くない」

 

 ◇

 

 早坂さんはきっと、俺たちが、普通ではみつけられないような場所にいる。

 そんな気がした。

 これが、姿を消したのが橘さんだったとしたら、どうだろうか。

 きっと、俺は橘さんがどこにいたとしても、彼女をみつけるだろう。俺と橘さんのあいだには、そういう繋がりのようなものがあった。

 高校のとき、文化祭の準備で、相性診断のようなことをした。好きな漫画雑誌や、お菓子をあげていったとき、俺と橘さんがことごとく一致し、俺と早坂さんは一致しなかった。

 そういう、つながりの『差』のようなものが、ずっとあった。

 初恋、一番好きな人と、二番目に好きな人。

 そういったものが早坂さんのなかに、ずっと降り積もっていたのだ。

 だから、俺は早坂さんをみつけて、そうじゃないよ、といわなければいけない。早坂さんとも特別な絆がちゃんと生じていることを証明しなければいけない。

 これは、そういう旅路だった。

 

 ◇

 

 じりじりとした日差しのなかを歩く。

 菅笠をかぶってはいるものの、それでも暑く、白衣は汗に濡れ、金剛杖を持つ手は重い。

 お遍路とは簡単にいうと、四国を一周する巡礼の旅だ。徳島を時計回りに八十八か所の霊場をまわる。その起源は諸説あるが、かの弘法大師が八十八の霊場を開き、弟子たちが修行のためにまわりはじめ、江戸時代になり、一般の人たちも巡礼するようになったというのが通説だ。

 白衣着て、錫杖を持ち、霊場を巡拝して、御朱印をもらう。

 徳島の鳴門市にある霊山寺が第一の霊場で、そこから出発し、順番に八十八か所を巡る。

 この八十八か所は本当にぐるりと四国を一周しており、一日に歩く距離はだいたい七から八キロくらいになる。当然、一日でまわりきれる距離ではない。それで、『宿坊』と呼ばれる、お遍路をする人のための宿泊施設に泊まりながら、一周することになる。

 なぜ、お遍路なのか。

 あの日、早坂さんを探すと決めたはいいけれど、どこを探していいかまったくわからなかった。けれど、早坂さんは、誰も知り合いのいない、彼女自身もまったく馴染みのない場所にいるように思えた。

 そう考えると、東京は思い出が多すぎるし、大学のある海辺の街もちがう。京都もないだろう。早坂さんからみれば、俺に縁のある場所になっている。同じ理由で、北海道、九州、東北もない気がした。それぞれ、遠野、宮前、福田くんの出身地だからだ。

 早坂さんは、早坂さんにとっての空白を探している。

 残ったのは四国だった。

 それはただの直感でしかない。でも、その直感を信じることにした。そうすることが大事なことに思えたのだ。ただ、四国のどこにいるかまでは見当もつかない。それで、お遍路で四国をまわりながら早坂さんを探そうと、東京からバスに乗って徳島に入った。

 浜波に事情を話すと、「お遍路である必要はなくないですか!?」「しね~!!」といわれたし、出発前、橘さんは、柳行李にせっせと白衣を詰めて旅支度をする俺を、恐ろしいほど冷たい目でみていた。

 いずれにせよ――。

 俺はそうして、四国を巡りながら、どこにいるともわからない早坂さんを探していた。

 

 ◇

 

 お遍路を開始してから、数日が経っていた。

 今は市街地を抜け、幹線道路沿いの歩道を歩きつづけている。

 幹線道路沿いといっても、田舎道で、周囲は田んぼと畑だけ。時折、民家や、個人がやっている食堂、小さな工場がある。傾斜きつい坂やトンネルも多い。走っている車は、農家の軽トラか、運送トラックがほとんどだった。

 歩きながら、俺は高校のときの自分の感情を思いだしていた。

 あのころ、俺は美化されたすぎた恋愛のイメージに対して反感を抱いていた。あまりに欺瞞的で、都合がよくて、陶酔的であると感じられたのだ。いかにもきれいで正統な恋をしていますという顔をして、そこから外れたものたちへの批判のまなざし。

 でも、現実はそんな陶酔的な恋なんてないじゃないか。

 初恋や、一番好きだと直感的に思った人との恋は、その多くが叶わない。

 なぜなら、魅力的な人が存在する以上、そのとなりに全員はいられない。だから、その次、その次、とちがう人と恋愛していくことになる。

 どれだけ美化したところで、そこには妥協や、いろいろな人を好きになれてしまうという、陶酔的な恋の価値観とは相いれない性質が、たしかにある。

 だから俺は、自分の感情や、そこに起きる恋というものを、ごまかさずに、まっすぐみようと思ったのだ。

 今思うと、本来あるものを、ぼかさずに、そのまま、それでいいじゃないかと肯定したかったのかもしれない。

 美しくないのなら、それでいいじゃないか、と。

 そして俺は、早坂さんと二番目同士で付き合った。

 そして、二番目に好きは、一番好きではなくとも、『好き』の純度はかなり高い。

 なぜなら、よほど大きな幸運がなければ、普通、一番好きな人と付き合えなかったときに、その次に好きだと思っていた人と付き合えることも、また稀なことだからだ。

 俺は橘さんのことが好きだった。

 でも、ちゃんと早坂さんのことも好きだった。

 一番好きな人と付き合えたときには別れるという約束が、とても不順で、世間の純愛の価値観から離れていることはわかっていた。

 けれど、それに対して俺の頭に浮かんだのは、太宰の一節だった。

 世間が批判してくる。許さないとして、しかし、その世間とはあなたのことでしょう? というくだり。

 今思えば、こんな感覚は幼かったかもしれない。

 けれど――。

 とても愛おしく思える。

 そして、橘さんがいまだに小さいころの初恋を大切にしているのも、とても幼く愛おしい。

 なぜなら、大学生にもなると、俺が高校生のころに思っていた、恋はある程度妥協してするものじゃないかということを、言葉にするしないはあるにせよ、みんな、なんとなく、わかっているからだ。

 つまり、大人だ。

 大人になると、橘さんみたいに、まっすぐに初恋を、恋が美しくて純真であることを、強く信じつづける人間もまた、そういない。

 みんな、極端にならず、うまい落としどころをみつけている。

 そういう意味で、俺たち三人の感情は幼かった。

 でも――。

 俺は、あの頃に感じたこと、三人のあいだに起きたことを大切にしたい。

 そう、思った。

 

 ◇

 

 早坂さんに会えることを願って、歩きつづけた。

 街中を歩いているときは、駅前のバス停やアーケードの商店街をゆきかう人のなかに、ロードサイドを歩いているときは時折あらわれる、さびれた個人経営の喫茶店の店内に、早坂さんの姿を探した。

 早坂さんはふとした場所や、静かなところにいる気がした。

 けれど、当然のようにみつからず、手がかりらしきものもない。

 そもそも四国にいるというのも勘にすぎない。四国は広く、あてもなく歩いて偶然、早坂さんをみつけるというのは、砂浜のなかで、ひとつの砂粒をみつけだすようなものだった。

 日が経つにつれて、足にもきた。


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