わたし、二番目の彼女でいいから。9

第35話 桐島、魂の旅路 ②

 伝統的なお遍路の格好をしながらも、足元は歩きやすいスニーカーを履いている。それでも、一日の終わりには足が熱を持ったようになり、湿布やサポーターが欠かせなくなった。宿坊に着くとすぐにストレッチをして、湿布を貼る。足の裏の豆がつぶれて、痛かった。

 日が暮れるまでに宿坊にたどり着けず、夜通し歩くこともあった。

 真っ暗な田舎道を歩きながら、俺はなにをしているのだろう、と思った。

 なんのために、こんなに歩いているのか。

 そうだ、早坂さんをみつけるためだ。そのために歩いている。

 けれど、みつけてどうする。

 東京に集まって、なににもならなかったじゃないか。

 ずっと、上の空の就職活動。

 埃のかぶった将棋盤。

 まったく手ごたえのない共同生活。

 どうすればいいのだろう。どうすればよかったのだろう。

 足は重くなり、やがて動かなくなり、俺はそのまま道路の端にうずくまって眠った。

 朝、通り過ぎる自動車のエンジン音に起こされる。もう、動きたくなかった。けれど、その場にいても、本当にどこにもいけない。だから、無理やり体を起こした。眠ったおかげか、足は動いた。それで、なんとか歩いて、昼過ぎには宿坊について、また眠った。

 丸一日と一晩、畳の上でまどろみと覚醒を繰り返した。

 起きているときは、なぜ、あの共同生活がうまくいかなかったのか考えつづけた。けれど、その思考は同じところを巡り、まとまりを欠いた。

 翌朝になっても体は重かったが、それでも出発した。ゆかねばならないからだ。なぜ、ゆくのか。なにをしに、ゆくのか。よく、わからなかった。

 ただ、歩く。

 宿坊があれば休む、寝る。

 また、歩く。

 暑い。

 汗が流れる。

 今は何時なのだろうか。歩きはじめて、何日経ったのだろうか。

 地元の人に声をかけられる。がんばってね。こっから先はずっと道がつづく難所やけんね。

 周囲をみれば、海がみえる。

 海からの潮風に吹きつけられる。

 歩きにくい、と思っていた。そういうことだったのか。

 室戸岬へとむかう道。

 歩いても歩いても海しかない。

 やがて日が暮れて、潮騒をききながら、歩道の端で眠った。

 朝、空から降り注ぐ雨粒で起こされた。

 雨のなか、歩いた。歩かなければいけないから、歩いた。なぜだかは、わからない。

 太陽が隠れて、暑さがましになり、歩きやすいかと思ったら、そうではなかった。

 雨は、すぐに大雨になった。大粒の雨が、滝のように降り、地面を打つ。

 視界はなくなった。

 風も強い。

 嵐だ。

 ざんざんざん、びょうびょうびょう。

 ざんざんざん、びょうびょうびょう。

 雨と風。

 白衣が濡れ、靴も浸水する。

 ざんざんざん、びょうびょうびょう。

 ざんざんざん、びょうびょうびょう。

 雷が鳴り、海が荒れる。

 ざんざんざん、びょうびょうびょう。

 ざんざんざん、びょうびょうびょう。

 俺は前にいこうとする。

 けれど、ついに顔から地面に倒れてしまう。

 口の中が切れて、血の味が広がる。

 俺の血は、血の味がする。

 その瞬間、唐突に、思った。

 早坂さんが正しかった。ああやって泣いて、みているほうが引くくらい橘さんを叩いて、将棋盤を投げつけて、でていく。それが正しかったのだ。

 そして、早坂さんがそうなるくらい、鋭い感情をぶつけた橘さんも、また正しかった。

 最初から、そうするべきだった。

 そう、最初から、全部、そうやって、俺たちは――。

 堰を切ったように、頭のなかに言葉があふれだす。

 いえない言葉、表に出せない感情。

 三人の共同生活のなかで、それらが音もなく降り積もっている気がした。

 それらは橘さんと早坂さんのものだと思っていた。

 でも、ちがった。

 それは、俺の言葉だ。

 全部、俺だった。

 俺は底抜けの阿保だ。

 なんか、大学生になって、就職活動をして、ちょっと世界が広がって、大人を気取って、将来のことまで考えてますよ、全方位に目配せできてますよ、みたいなスノッブなツラをして、ふたりが決めるっていうから、なんかちょっと傍観者スタイルで、美人な女の子とカワイイ女の子に取りあわれちゃって困ったな~、みたいな空気でやっていた。

 でも、最初から正直にいうべきだったのだ。

 俺は橘さんのことが好きで好きで好きで好きで、早坂さんのことも好きで好きで好きで、どっちかだけにしろなんていわれても選べないよ~! というべきだった。

 ふたりのことが好きで、ふたりに好かれることが嬉しかった。

 それが俺の真実なのだから。

 就職活動のときだって、俺はふたりにいってほしかった。

 司郎くん、一緒に東京にきてよ。

 桐島くんは絶対、関西で就職して。

 彼女たちは俺の将来のキャリアのことなんて、気にしなくてよかった。なぜなら、俺は橘さんや早坂さんに愛されることのほうがよっぽど素晴らしいと思っているからだ。

 でも、俺はそんなストレートなことを全然いってなくて、壁にもたれて腕を組んでいるようなスタンスをとって、俺がそんなんだから、高校時代にひどいことになった反省もあって、ふたりもポップな空気とか、話し合いとかやりはじめて、なんか上っ面をなぞるだけの浅い感じになってしまった。

 感情的になるのはダサくて、わめいたり、アホみたいに好きだといったり、愛されたい!とか大声でいうのはなんかダサいみたいな価値観があって、俺は完全にそうなってて、冷静で理性があって、感情的にならなくて、多くの要素を考えていて、水平思考もして、全てまるっと見通してて、俺は見抜いてるわかってるみたいなツラしてたけど、なんもわかってなかった。

 そんな客観とか、ポップにやってダメージコントロールみたいなのは、全然、必要じゃなかった。客観、オブジェクティブ、サブジェクティブ、オブジェクティブ、オブジェクティブ。

 そうやって、傷つけなくて、自分も傷つかない、後ろに重心置いたようなスタンスは、イタくないし痛くないけど、まったく鮮烈じゃない。

 俺がそんなんだったから、全部上滑りして、消化不良で踏み込みの浅い感じになってしまっていた。

 橘さんはいった。

 

『私、もう、あの頃みたいに、弱くない』

 

 それは深く踏み込むという決意。

 そうだ。

 俺たちはもっと感情に身をゆだねていい。なんか、いい感じにしようとしなくていい。あの頃みたいに、わめいて、ダサくなっていい。かっこよくなくていい。エモくなくていい。

 早坂さんをみつけたら、ちゃんと好きだといおう。それで、早坂さんを連れて帰ったら、橘さんにも、ちゃんと好きだといおう。

 血の味がする。

 俺の血は、しっかりと血の味がして、切れたところがとても痛い。

 これが愛だ。

 

 ◇

 

 雲間から、海にむかって光が射す。

 嵐が去って、室戸岬がみえた。

 それからも、俺は何日も歩きつづけた。

 室戸岬から安芸、南国、土佐、四万十へ。

 祈りのための、巡礼の道程。しかし、俺はもう祈らなかった。

 そしてある朝、起きると、これまでの暑さがなかった。つまり、涼しくなっていたのだ。

 外にでてみれば、秋の気配がした。

 そして、高くなった空をみて――。

 唐突に、わかった。

 早坂さんがいる場所。

 俺は部屋に戻り、出発の準備をする。

 お遍路の格好はしなかった。白衣も金剛杖も、もう、必要ない。

 普通の服を着て、電車に乗って、そこへと向かった。

 

 ◇

 

 下灘駅。

 海がとても近く、ベンチに座っていると、まるで、青い海のなかに、ぽつんと小さな駅のホームがあるように感じる美しい駅。

 線路は単線で、電車がくるのは二時間に一本くらい。

 俺は昼過ぎにその駅に到着して、ベンチに座りつづけた。

 寄せては返す波と、空の青。

 時折、電車がやってきては、ぱらぱらと人が乗ったり降りたりする。

 時の経過とともに、海は夕暮れの色に染まっていく。

 そして、空が深い青になり、太陽がまさに水平線に沈もうとするときだった。

 電車がきて、また、パラパラと人が降りる。列車は次の駅にむけて出発していく。

 女の子がひとり、俺のとなりへやってくる。

 

「私ね」

 

 早坂さんはベンチに腰かけてながらいう。

 

「毎日、ここから夕日を眺めてるんだ。きれいでしょ?」

 

 一緒に、夕日を眺めた。

 やがて、太陽が完全に沈み、辺りが暗くなる。

 海から風が吹いて、早坂さんがいった。

 

「どうしてここがわかったの?」

 

 俺は少し考えてから、「なんとなく」と、いった。

 

「早坂さんはこのベンチに座って海を眺めている。そんな気がしたんだ」

 

 ◇

 

 早坂さんは車で四国にやってきて、車中泊や、ネットカフェに泊まったりしながら、転々と一人旅をしていたらしい。そして今は古い旅館に腰を落ち着け、夕方になると、下灘駅に雄飛を眺めにいっているのだという。

 その夜、俺は早坂さんと一緒にその旅館の部屋に泊まることになった。

 旅館は下灘駅から列車に乗って別の駅にゆき、そこから車に乗って少し山に入ったところにあった。

 部屋に入ってみると、和室の畳の上に、専門書が山積みになっていた。

 

「長旅でつかれてるでしょ?」

 

 早坂さんが部屋についているお風呂を沸かしてくれる。交互に湯に浸かって、浴衣に着替え、寝支度を整えた。

 でも、眠る前に――。

 

「お茶でも飲もっか」

 

 そういって、電気ケトルに水を入れて、お湯を沸かしはじめる早坂さん。

 俺は急須に茶葉を入れる。

 お湯が沸いて、お茶を淹れたところで、早坂さんがいった。

 

「私、やっぱり大学院にいくことにしたんだ」

 

 その視線が、畳の上の専門書にむけられる。

 

「企業で研究職をするためには、もっと専門性が高くないと、通用しない気がするんだよね」

「理系だとそういう人、けっこう多いよな」

「うん」

 

 早坂さんは、今通っている大学の、大学院にいくつもりらしい。

 つまり、海辺の街に残ることになる。だから――。

 

「私のこと、みつけなくてよかったのに。橘さんと一緒になれば、東京にいれるし。東京のほうが、やりたい仕事できるでしょ?」

「そういうことは気にしなくていいんだ」

 

 嵐のなか、俺は決めていた。

 

「俺はもう就職活動をしないから」

「え?」

「一緒になったほうについていく。そこで、一生懸命働くよ」

「そんなの――」

 

 早坂さんは目を伏せていう。

 

「よくないよ。一生のことなのに。橘さんだって、桐島くんにやりたいことやってほしいって思ってるはずだよ」

「いいんだ。俺がそうしたいんだ」

 

 恋愛よりキャリアを大事にする人たちもいる。恋はいっときの感情で、キャリアは一生だからだ。でも――。

 

「俺は橘さんと早坂さんからたくさんのものを貰った。ふたりより大事なものなんてないよ」

 

 そういったあとで俺は立ちあがり、座布団の上に座って湯呑でお茶を飲んでいる早坂さんを抱きしめる。

 

「ちょっと、桐島くん――」

 


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