わたし、二番目の彼女でいいから。9
第39話 桜の森の満開の下 ~手紙~ ①
卒業式はつつがなく終了した。
「僕は大学院にいくから、『卒業』という感じは少し薄い」
スーツを着てとなりを歩く福田くんはいった。
「桐島くんはどうだい?」
「そうだな」
着流しに高下駄、今日が最後の桐島京都スタイルの俺は、空をみあげてこたえる。
「どこか、晴れやかではある」
「桐島くんに関しては僕もそうだよ」
福田くんは笑っていう。
「君が卒業できるよう、ずいぶん手伝ったからね」
「本当に感謝している。俺は一生、福田くんに頭があがらないだろう」
「終わってみれば、あれも楽しかったよ」
そんな会話をしながらヤマメ荘に戻ってみれば、桜ハイツとのあいだの私道に、袴姿の遠野と宮前がいた。ふたりとも煌びやかで、華やかで、まさに晴れ姿だった。
大道寺さんと浜波が、カメラと三脚の前でスタンバイしている。
遠野たちの大学も今日が卒業式で、みんなで一緒に集合写真を撮ろうということになっていた。しかし――。
「ぶえぇぇぇぇぇっ!」
宮前が、めっちゃ泣いていた。
「どうしたの?」
俺がきくと、遠野が笑いながらこたえる。
「卒業式がはじまってから、ずっとこんな調子です。学部の友だちも含め、みんなと別れるのが悲しいみたいです」
宮前は卒業式とか、そういうので泣くタイプの女の子なのだった。きっと、小学校のときも、六年生を送る会なんかで泣いていたにちがいない。
「しおりちゃん、泣かないで」
遠野が宮前の頭をなでる。
「だってぇ、だってぇ、ヤマメ荘のみんなとも~」
「私とはこれからも一緒でしょ」
遠野と宮前はどちらも東京ということで、近くの部屋を借りていた。休日には、ふたりで遊びにいくことができる。
「でも~」
宮前がわんわん泣きながらいう。
「社会人になったらぁ~、忙しくてぇ~、離れてたらぁ~、なかなか全員で集合するのは難しくてぇ~、そのうち、そのうち、うえぇぇぇぇん!」
「宮前、大丈夫だ」
大道寺さんがカメラをセットしながらいう。
「俺は必ず、ロケットを打ち上げる。そのときは、みんな種子島にきてもらう。それは約束されていて、なにも寂しがることはない。俺たちの絆が終わることはない。宇宙でつながっている。ユニバース」
「ほら」
遠野が宮前のほっぺをハンカチでふく。
「せっかくかわいい格好してるんだから」
「うん」
宮前が泣きやむのを待って、俺たちはカメラの前にならぶ。
「じゃあ皆さん、笑ってください」
浜波がカメラのタイマーをセットする。
「この際ですから、私も映っちゃいますからね。私はお祭り女なんです!」
浜波が急いで走ってきて、となりにならぶ。
俺は胸の寂しさとともに、でも万感の思いを込めて、笑い、ピースサインをする。
シャッター音が、青い空に響く。
瞬間を切り取った一枚。
俺たちはその写真を胸に抱いて、十年後の約束を信じて走っていく。
きっとみんな、大丈夫。
そう、思った。
そして俺はヤマメ荘の部屋に戻り、着流しを脱いだ。
これから、最後の決断をしなければいけない。
◇
京都の街を、ひとり歩く。
記念写真の撮影が終わったあと、あてもなく街にでた。
この春という季節に、街の雰囲気はどこか楽しそうだった。
俺はこの二カ月のあいだに問いつづけたこたえをださなければいけなかった。
明日、卒業式の翌日に、橘さんか早坂さん、どちらかのもとに向かって、発つことになっていた。そして、そこは通り過ぎたら、もう戻ってこれない最後の地点だった。
きっと、選ばなかった相手と、一生会うことはない。
その確信があった。
そして、こんな直前にもなって、俺はまだ選びきれないでいた。
なにかしら選ぶための理屈を考えてみても、それらは選んだあとに後付けするような、言い訳のような、説得力のないものばかりだった。
そうして、どこにもたどりつかない考えが巡りつづけるうちに、日が暮れていた。
部屋に戻って、夜通し考えようと思った、そのときだった。
交差点の雑踏のなかに、橘さんの姿をみつけた。
黒いコートに、白いマフラー。細く、どこか儚げなシルエット。
俺が、橘さんをみまちがえるはずがなかった。
そして、橘さんも俺に気づかないはずがなかった。
橘さんは俺をみつけると、困ったような顔をしたあとで、少し気まずそうにしながら近づいてきた。
「ごめん」
橘さんはいった。
「こっちで演奏の仕事があって。昼には東京に帰るつもりだったんだけど、司郎くんに会いたいような気がして。もちろん、今は会っちゃいけないってわかってるんだけど……」
そんな自分の気持ちをどうしていいかわからなくて、ただ、京都の街を歩きつづけていたのだという。
「ホントに、ごめん」
もう一度、橘さんは謝る。
ゆきかう人のなか、しばらく向かいあっていた。
やがて――。
橘さんは意を決したように、顔をあげていった。
「一緒に、いきたいところがある」
導かれるように、俺は橘さんのあとをついていった。
市バスに乗りこみ、ふたりならんで後ろの席に座る。しばらくバスに揺られ、橘さんが降車ボタンを押し、バス停で降りる。着いた場所は――。
哲学の道だった。
左京区にある、静かな遊歩道。
琵琶湖疏水の流れにそって、石畳の道がまっすぐのびている。
そして、道沿いに植えられた桜の木が――。
満開になっていた。
夜桜だ。
街灯に照らされ、夜闇のなか、桜の花びらが、白く、薄紅色に照らされている。
桜はずっと先までつづいていて、まるで、桜のトンネルだった。
橘さんが歩きだして、俺はそのとなりを一緒に歩いた。
「司郎くんと一緒に、歩きたいと思ってた」
高校のとき、橘さんと一緒に京都に旅行にきた。
あのときは冬だった。
もしかしたら、そのときからずっと、この桜の季節の京都を歩きたいと思っていたのかもしれない。ただ、それについて、俺は橘さんになにもきかなかったし、橘さんもなにも語らなかった。
三月の終わりの夜、多くの人は歓送迎会などで酒でも飲んでいるのだろう。
桜の下には、俺たちの他に誰もいなかった。
花の景色と、おそろしいほどの静寂。
桜のトンネルは、どこまでも、永遠につづいているようだった。
橘さんの横顔は、最後に会ったときから、また美しくなっていた。
どこまでも、透明な、幻のような美しさだった。
あまりに美しくて、この桜の景色のなかに、溶けて、消えてしまうのではないかと思った。
橘さんはとても静かに歩いた。
いつもみたいに、俺の手をとろうとはしなかった。
今は、それをするときではないのだ。
俺はこの桜の静寂のなかで、狂おしい気持ちになっていた。
二つの未来が、今まさにとなりあっていた。
橘さんを愛しつづける未来と、もう、交わらなくなる未来だ。
俺はまさに、その揺れ動く線上を歩いていた。
ふと、風が吹いて桜の花びらが舞った。
花びらの一枚が、橘さんの肩にのる。
次の瞬間、さらに強い風が吹いた。
無数の花びらが、宙を舞い踊る。
目が霞むほどの、花の嵐だった。
風が吹き終わったあと、花びらが石畳の道をうめつくしていた。
耳が痛いほどの静寂が、辺りに満ちていた。
俺は、急いで橘さんの姿を探した。
「私はここにいるよ」
橘さんは、先ほどと変わらず、となりにいた。
ガラス玉のような瞳で、俺をみつめながらいう。
「消えたりしないよ」
橘さんはそういったあと、コートのポケットに手を入れて、少し厚みのある紙を取りだした。
夜行バスのチケットだった。
今夜、二十三時三十分発。
京都駅から東京へとむかう便。
渡されたチケットは、通路側のシートだった。窓際のシートのチケットは、橘さんが持っているのだ。
「私はこのバスに乗って東京に帰る」
橘さんはそういったあと、それ以上なにもいわなかった。
◇
ヤマメ荘の部屋はずいぶん寂しくなっていた。もう引き払ってしまうから、多くのものを処分したのだ。
がらんとした空間に、最後に残った椅子と机がある。
俺はその机の上に夜行バスのチケットを置き、椅子に座った。
バスが出発するまで、もう少し時間があった。そしてそれは、もう、ほんの少しの時間しか残されていないということでもあった。
俺は橘さんのことを想った。
桜舞い散るなか、俺のとなりを歩いていた。彼女はずっと、俺と一緒に京都の桜の道を歩きたいと思っていたのだ。
一方で、俺は早坂さんのことも思いだす。
海辺の街、早坂さんのアパートで、風邪で寝込んでいたとき、俺はベッドのなかから、早坂さんが指輪を磨いて手入れしているのをみた。高校のとき、クリスマスプレゼントに、ディスカウントショップで買った安物の指輪だ。放っておいたら、すぐにでも錆びてしまうような、そんな指輪。でも――。
「えへへ」
俺の視線に気づいて、早坂さんは照れくさそうに笑い、ジュエリーボックスに指輪を戻しながらいった。
「桐島くんとの思い出だからさ、なんだか捨てられなくて」
橘さんがそうであるように、早坂さんもまた、俺とのつながりを大切にしてくれていた。
あのころから、ずっと――。
俺は机の上に置いた両手を握りしめる。
俺は、橘さんをずっと愛することができる。
俺は、早坂さんをずっと愛することができる。
俺は、煩悶する。
バスが出発する時間に俺が現れなかったら、橘さんはどんな表情をするだろう。ひとりでバスに乗りこむとき、どんな気持ちになるだろう。
俺が海辺の街にこなかったとき、早坂さんはどんな顔をするだろう。その夜を、どんな気持ちですごすのだろう。
想像するだけで、胸が潰れそうだった。
俺は顔を伏せる。
そうしているうちにも、刻一刻と時はすぎ、バスが出発する時間が近づいてくる。
どれだけ考えても、やはり、どちらかを選ぶための理屈はあらわれてこなかった。
多くの思い出、手をつないだ瞬間、橘さんが与えてくれたもの、早坂さんが包みこんでくれたもの。
俺はまちがいなく橘さんのことが好きで、早坂さんのことが好きだった。
もはや、考えることは無意味に思えた。
どちらを選んでも、その相手をずっと愛することができる。
その相手と、幸せになることができる。
けれど、選ばなければいけない。
それはあてもなく道を歩いているときにあらわれた分かれ道だ。
右にいくのか、左にいくのか――。
そして俺は。
机にむかって座ったまま――。
二十三時三十分を迎えたのだった。



