ブギーポップ・リターンズ VSイマジネーターPart1
Ⅰ ③
でも琴絵だけは、なにかと彼の世話を焼きたがる。
彼はいつもと同じ琴絵の明るい調子に触れて、少し落ち着きを取り戻した。
(──あれが幻覚であれ、なんであれ、別に変わったものが見えるのは今に始まったことじゃない……)
冷静に対処しなければ。これまでだってずっとそうやってきたのだ。
部屋に帰って、顔をじゃぶじゃぶと洗っていると、もう琴絵が大きな鍋を持ってやってきた。
「はい! 今日のは言っちゃなんだけど自信作なんだから!」
てきぱきと動いて、まるで自分の部屋であるかのように食器の支度までして、苦笑いする飛鳥井の前に琴絵は湯気の立ったあたたかい料理を差しだした。
「うん、おいしそうだ。いただきます」
「仁にいさん、なんか今日は疲れた顔してる」
「うん。まあ……そろそろ追い込みの季節だからね。生徒の必死さがこっちにも移ったかな」
「大変ねぇ」
「なにのんきに言ってんだい。来年は琴絵ちゃんも同じ境遇だろう?」
琴絵は近くの県立高等学校、深陽学園の二年生だ。
「あー、あたしは……どうしようかな。大学行くの、やめよっかなー」
ちらり、と琴絵は飛鳥井の顔をのぞき見る。
「……それとも、仁にいさんに習いに予備校に行こうかしら」
「君は、いつから美大進学希望になったんだい? 僕はデッサンと美術史しかやっていないんだぜ」
「進路相談もしてるんでしょう? やってほしいわあ」
「そんなもの、いつでもタダでやってあげるよ。わざわざ通うこたあない」
「ほんとに?」
琴絵は顔をぱっ、と輝かせた。
「でもなあ、僕に相談に来る子たちっていうのは、みんなすごく真剣な人ばかりだからね。琴絵ちゃんだとどうかなあ」
飛鳥井はいたずらっぽくウインクした。
「あーっ、ひどぉい! まるであたしが真剣じゃないみたい!」
むーっ、と頰を膨らませて怒った彼女は、すぐにぷっ、と吹き出した。
二人は声をそろえて笑った。
そして、琴絵はちいさくため息をついた。
「──やっぱりそう見えるわよね、あたし」
「いや、その方がいいのさ。僕に相談なんか来ない方がいいんだ、本当は」
飛鳥井はスプーンを下におろして、しみじみと言った。
「え?」
「自分の悩みは、自分で悩むべきなんだよ。ましてや受験のことじゃ、僕は予備校講師だからあんまり思い切ったことが言えない。大学なんか行かなくてもいいなんてことは言えない。明らかに向いていない子に対しても、ね……」
彼は目を上げて、琴絵の胸元を見る。
そこには〝花〟がない。
優しさや潤い、といった領域を示す〝葉〟は豊かに茂っているし、幹も根も安定感のある形をしている。しかし〝花〟はない。
この
容姿だって悪くない。アパートやマンションをいくつも経営する両親は金持ちだし、不幸になる理由は何一つないと言ってもいい。
だが、この子は心の中では〝どうして自分は、何か決定的な華やかさというものに出会えないのだろう?〟と感じている。ときどき、なんてことのない人間の、どうでもいいような情熱を見るとひどくとまどって、うらやましくて仕方がなくなる──そういう悩みを持っている。
しかし、それはどうしようもないのだ。
〝欠けている〟のだから、どうすることもできない。
「──仁にいさん、真面目すぎるのよ」
琴絵は、彼が自分に何を見ているのか夢にも知らず、俗っぽい慰めを口にした。
「他の人のことを余計に心配しすぎるんだと思うわ。少しは自分が楽になることとか考えてもいいんだと思う。うん」
変に力強く、彼女はうなずいた。
「……ありがとう。でもこれじゃどっちが相談してるんだかわからないな」
飛鳥井は苦笑しながら言った。
「どうにもならないことなんてないわ。たとえそれが存在しないものでも、なんとかなる道というものはあるわ」
妙にきっぱりと言う。
「うん……そうかもね」
飛鳥井はうなずくが、それはやはりどこか弱々しい。
「そう思えたらいいんだけどね……」
「ただし、その道というのは少し──残酷で世の正義には反することかも知れないけれどもね……」
せせら笑うような、確信に満ちた声だった。
「──え?」
琴絵らしからぬものの言い方に、飛鳥井は顔を上げた。
そしてぎょっとなった。
胸元の
さっきまで確かにあったのに、今はまったく見えなくなっている。
そして、その表情──口元は真一文字に切り結んで、両眼だけが妖しく、笑っている……。
「お、おまえは?!」
がたん、と飛鳥井はテーブルから立ち上がった。
「安心しなさい。身体を一時的に借りているだけだから」
琴絵の顔をした少女は言った。
「な、なんだと?!」
「どうせ、この
静かに、奇怪なことを言う。
「さっきの幻覚か──幽霊なのか?!」
「幽霊、という言い方は正確ではないわ」
少女は飛鳥井に従って、立ち上がる。
「正しくは〝現在に顕れた未来〟と言うべきね。それとも〝可能性上の仮説の実体化〟と言うべきかしら」
そして飛鳥井の頰に手を伸ばした。
両手ではさむように、さらり、とやさしく撫でてくる。
「飛鳥井先生、あなた──〝なんとかしたい〟とは思わない?」
「……な、なにをだ?」
「人の、心の欠落を」
やさしく、やわらかく、その指先が強張った飛鳥井の顔をほぐす。
うう、と彼は呻いた。その接触はひどく甘美で逆らいがたい感触であった。
「あなたには何が欠けていると思う? 飛鳥井先生──」
「…………?!」
「あなたに欠けているのは〝使命〟よ」
彼女は穏やかな声で、しかし強く断言した。
「──な」
「あなたに、ほんの少しだけ〝未来〟を見せてあげる──」
少女は飛鳥井の顔を引き寄せ、自分は背伸びをして、彼の唇に自分の唇を重ねた。
その途端、飛鳥井の頭の中でなにかが開けられた。
イメージの奔流が、彼に向かって流れ込んでくる──
「う……うわあああああっ!」
彼は絶叫し、そして彼女を突き飛ばした。
少女はひるみもせず、少しよろけただけですぐに彼を見つめ返した。
「──はあっ、はあっ……!」
飛鳥井は息を荒くしている。
「い、今のはなんなんだ……あの光景は?!」
「あなたの〝使命〟よ。飛鳥井先生」
「ば……馬鹿な! 僕があんなことをするものか!」
「するかしないかはあなたの自由よ。でもね、あなたにはできる。それは変わらない事実よ。あなたが生まれてきた理由はあそこにしかない──」
「ふざけるな! おまえはなんだ、悪魔なのか?! 僕を、僕を──」
ぜいぜいと喘いで、うまく言葉が出てこない。
「誘惑? いいえ。そんなつもりはないわ。それを決めるのはあなた──」
少女は、ふふっ、とまた両眼だけで笑う。
「でも飛鳥井先生、これはおぼえておいて。鳥だって空から落ちることもあるし、時には四月にだって雪が降ることもあるのよ」
「消え失せろ!」
飛鳥井はテーブルの上にあった料理を少女に投げつけた。
少女はよけようともせず、それをそのまま受けた。
その直後、悲鳴が上がった。
「きゃっ! な、なに?」
……飛鳥井は、はっ、と我に返った。
琴絵が戻ってきていたのだ。
「だ、大丈夫かい──」
「──? な、なんなの? なんであたし……」
琴絵は何が起きたのかわからず、ひどくとまどっていた。今の記憶はきれいにないらしい。
あわててタオルで彼女を拭いてやりながら、飛鳥井はともすれば震えだしそうになる全身を必死で抑えていた。
(──〝イマジネーター〟とか言っていたな……)