ブギーポップ・リターンズ VSイマジネーターPart2
プロローグ
……一年前のことである。
夜明け前の、一日でもっとも冷たい風が世界を吹き過ぎていく。
静まり返った校舎の、屋上の縁にひとりの少女が立っている。
「…………」
風が、少女の長い髪をちぎれよとばかりに乱暴に引っ張り、掻き乱していく。
彼女は微動だにせず、校舎屋上に立っているもう一つの人影の方を見つめている。
「残念だわ、まったく──」
彼女の顔には、何の根拠もない奇妙な笑みが浮かんでいる。嬉しいからとか、おかしいからとか、あるいは逆に悲しすぎるから──そういった〝理由〟がなく、ただ微笑んでいる。
口元は一文字に結ばれているのに、眼だけが笑っている。
「結局、あなたも〝今〟にとどまるだけの存在なのね……ほんとうに残念なことだわ」
「…………」
もう一つの影は、人というよりも筒のようなシルエットを持っている。校舎の影に紛れて、半分消えかかっている。
「しかし、あなたがいくら待ったところで、いっこうに何ひとつはじまることはないと思うわよ。そのうちにあなたは、その名前の通り世界にむなしく浮いては消えるだけの、ただの
口元に手を当てた彼女の肩が、かるく、かすかに揺れた。
笑っているのだ。
その仕草はとても自然で、この世にこんなに屈託なく、ただ〝笑う〟ことができる者がいようかという、そういう不思議がそこにあった。
彼女の足元は、あと十センチもずれたら、そのまま地上に叩きつけられる位置にある。だがそのぎりぎりの状態は、彼女の笑いに何ひとつ影響を与えていないようだった。
「…………」
影の方も動かない。しかしこちらには、少女にある笑いは欠片もない。笑うことを知らないかのような、そんな雰囲気があった。
「ねえ、そうは思わないかしら? ブギーポップ……」
そう呼ばれて、影はゆっくりと前に出てきた。
「──何とでも言うがいい。どちらにせよ、君はこれで終わりだ。この先はない」
影の声は男とも女ともつかない。
「ふふ、終わり、ねえ……?」
少女の方は影の接近にも反応しない。そのまま立っている。
「でも、私はまだ何も始まっていないと思うわよ? 私にはまだ、名前さえついていないのだから……」
暗い空を、夜明けの傾いた日光を浴びてわずかに輝く雲が過ぎていく。風はひどく速い。
「だったら、今つけてやる。君のような存在は、炎の魔女の父親なら〝イマジネーター〟と呼んでいた」
影は足を停めることなく、少女へ迫っていく。少女もまったく動ぜずに、静かにうなずく。
「ああ、それなら私も読んだわ。でも、ちょっと散文的すぎる名前ね? ロマンに欠けるわ。あなたらしくもないことね」
せせら笑うように言う。その長い黒髪は今やほとんど直角に、横に流れている。空間という河の
「……ロマンか。そんなものはぼくらにはない。それを持っているのは普通の人間の方だ」
影は、身体を包んでいたマントから腕を出した。その手にはナイフが握られていた。
その刃のつめたく不吉な輝きを前にして、少女の口元がはじめて上を向いた。
きゅうっ、と不敵に吊り上がった。
「〝愛とは四月に降る雪のようなものだ。思いがけなく、しかし確かに予感を持っていた存在──時季外れで、ひどく身に凍みる〟……誰の言葉だったかしら?」
「……!」
影の足が強張るように停まった。
少女が、後ろに足を一歩踏みだしたからだ。そこには虚空があるだけで、下には何もない。
「はじまりの終わりは、同時に終わりのはじまりでもあるのよ、ブギーポップ。あなたは今、私を止めた──でもそれは、ただ次の終わりをはじめただけ……」
満面の笑みを浮かべて、少女の身体は学校の屋上から校庭に転落した。
ぐじゃっ、という、ひどく美的でない汚い音があたりに響きわたった。潰れた音だ。
「…………」
だが、影は動かずその場に立ちすくんだままであった。駆け寄って下を見おろそうとはしない。
その必要はない。
影の前には、相変わらず少女の
〝私が、ほんとうに地面に落ちるまでまだ時間がある……その間に、あなたは私を見つけることができるかしら?〟
そして、ゆっくりと薄らいでいき、空間に消え失せた。
「…………」
取り残された影はナイフを握りしめたまま、立ちすくんでいる。
その途端、風がやんだ。
その急な静止は、世界から動きが消失したようにさえ見えた。
その下の地面では、花が咲いたようにぱっくりと割れた物体が転がっていた。それの付けた染みは当分、その場所から取れそうもなかった。
……一年前のことだった。