境界線上のホライゾン きみとあさまでGTA Ⅳ

第二章『試験場の慌て者』

「ガっちゃん? そろそろ六時だし、朝の鐘鳴ってるし、起きようよー」


 板張りの部屋に声が生じた。

 ナイトの声だ。

 六畳間。天井近くに広めのロフトベッドがある空間だった。

 入り口の上には、部屋の所有者としてナイトとナルゼの名前が彫られたプレートが一つ。

 そして壁際には二人分の机が並んでいて、奥には魔女料理も可能なオーブンコンロも据え付けてある。

 コンロでは鍋が湯沸かし中だ。

 そんな部屋の中。毛布を纏った姿のナイトは左手の包帯を外していた。机の上に置く浅間神社の包帯は、術式符が織り込まれたものだった。

 白い布は、未だ流体光を保っており、


「おおう、まだまだ使える……」


 包帯の光を見ながらナイトは思う。アサマチ随分と気を遣ってくれたなあ、と。


 ……こりゃ境内の掃除と片付けくらいじゃ割に合わないなー……。


 治療費の他に場所代とか食事代という言葉が思い浮かぶのが情けない。ただ、あの晩については気分優先と言うことで、


「うん」


 部屋の奥。

 コンロの鍋で湯が沸いた。

 それを洗面器に移しながら、


「どう?」


 振り仰いだのは上のベッドだ。

 ベッド上段に梯子が掛かっている。

 普段は使わず横に掛けてあるものだ。

 その段の上を、今、尻が降りてくるところだった。

 黒の翼、羽織った毛布。どちらも身体を隠すものだが、梯子を後ろ向きに下りてくる場合、翼が揺れて尻がそのたびに見え隠れする。


 ……お……っ。


 可愛い、と一言言えば済むことだが、思わず覗き込むようにしてしまうのが醍醐味だ。

 それに、今のナルゼは左肩から先を使えない。


「ガっちゃん大丈夫?」


「初日はいつものように飛び降りたら衝撃来て酷い目にあったけど、今日は昨日以上にいい感じだわ。いけそう」


 彼女が振り向いた。こちらの広げたままの手を見て、小さく笑う。


「浅間も、値段度外視でこっちの助けをやってくるわね……」


 床に降りた彼女がこちらに来るのを見ながら、自分は洗面器の湯に手をつけた。

 左手は三日ほど包帯で固まっていたものだ。

 洗う事もだが、


「うおおムズ痒い」


「血行止まってるものねえ」


「何か指の骨がくっついてる感じ。曲げ……、あたたた」


 いきなり曲げると、指が折れるような感覚が来る。だが、


「──あ、手の甲は結構いける」


 縦ではなく、横に広げて閉じて、とやっていると、段々指先に感覚が戻ってきた。

 白くなっていた手が、あっという間に色を取り戻していくのも解る。


「包帯に、血行の安定補助なんかの加護も入っていたのかしら」


「そんな気もするね」


 と、自分は一度湯から手を挙げる。


 手が動く。

 辿々しいし、握れないが、確かにこちらの意思が通じる。


 ……よっし。


 右手を使って左手を覆い、指を曲げる。

 まるで針の塊でも掴んでいるような感覚が手の平に来た。関節が軋み、これ以上を曲げると危険だ、という感の痛みを送ってくる。

 だが曲げた。

 関節が動く、小さな軽い音がして、曲がった。

 戻すと、さっきより動く。

 緩くだが、今までより大きく動く。


「マルゴット、汗」


「え?」


 振り向くと、ナルゼがハンカチを手にしていた。額を拭われるままにしていると、身体から緊張が抜けていく。


「ガっちゃん、胸見えてる見えてる」


「いいから」


「見たい?」


「無理しないで」


 決めつけられてる気もするが、そうでもないような気もする。甘えたいのかもなあ、と自分を分析してみるが、そんな事を考える自体、緊張を無理に誤魔化そうとしているのだろう。

 左手が、また冷えていた。だから湯に浸けると、ムズ痒さが今度は芯に来る。


「動くわね」


 ナルゼの言うとおりだ。縦に動く。


「アサマチのくれた符、効くねえ」


 すると、情報収集用に展開しっぱなしの部屋用魔術陣に通販番組が流れた。


『異教徒だろうと無宗派だろうと問答無用! 浅間神社の治療術式符! ちょっとした深爪レベルのかる~い傷からあと一秒で現世アウトくらいのふか~い傷まで、いつでも何処でも治します! 三十分以内にお申し込み頂ければ、何と今なら術式符に対応した印刷機もセットです! さあ御連絡はシントーヨイヨイモッテケドロボー、シントーヨイヨイモッテケドロボー。お間違えなく!』


「何でノリノリなのかしらね浅間」


「浅間神社の公共サイトの”浅間神社の歴史・うちの娘のCMアーカイブ”を提出資料としました……」


「あっれー……? 当時こんなにガッツリやってましたっけね……?」


「いやあ完全にログ取ってますしバックアップも三つありますよ! お爺ちゃんのサイト私物化の象徴とも言えるアレ!」


「翌年からは御母様も出る回があります……」


「……真っ当な御仕事ですよ?」


「うん」


 蜘蛛のように、しかしゆっくりと五指を動かして、そして一息をつく。すると、


 ……あ。


 今更、湯が当初より温くなっている事に気づいた。それはつまり、


「うん、余裕、戻ったっぽい」


「じゃあこっち、手伝って」


 笑みで言ったナルゼが、纏っていた毛布を肩脱ぎにした。


「私の方は湯に浸けられないけどね」


「加熱術式で蒸しタオル作れない?」


「出来ると思うけど、ここで初実験は嫌よ。自由にして吊っておけば、教導院でテスト終わる頃には動かせるようになってる筈」


 彼女は、部屋の隅を見た。

 そこに、自分達の箒と、浅間神社から借り受けた楽器がある。


「──ようやくね。

 ”山椿”も、祭になったら動いてくると思うわでも、その前に……」


 ナルゼが、毛布の左肩をこちらに振った。


「私の着せ替え、奪ってくれる?」


 白の空の下。武蔵を覆うステルス防護障壁の中。

 幾つもの風が動いているのを、P-01sは見ていた。


「あら、ここはホラ……、P-01ナンタラの担当なのね!」


 すれ違う喜美に、こちらは右の手を肘から上げる。返す言葉は、


「Jud.! ここはピナンタラの担当です! まずは一発、朝の情景描写からキメてやりますとも!」


 朝の自分の調整。墓所にて唄った帰りだ。

 奥多摩から多摩へと歩いて行くと、早い時間から連結式大八車や、ものを担いだ人足、そして持ち場へと急ぐ武神達とすれ違う。

 大八車の客車に横から飛び乗って、


「イヤッホウウウウ!!」


「イエアァ――!!」


「情景描写は何処行きましたの?」


 途中、赤い装甲服を纏った女性型武神が目の前の通りを横切った。

 その直後。


「?」


 すれ違う形になった馬車の御者が、上を見たまま近くの用水桶に衝突した。桶が割れて水が渋く音と、運ばれていた材木が零れる音。そして何より、人々が振り返ってから、


「──馬ぁ鹿! 朱雀の尻が気になったか!」


「尻じゃねえ! パンツだ!」


「パンツじゃないさね──」


 わはは、と笑う声と、遠ざかって行く武神の足音に、自分は思う。

 朝から賑やかで、何よりです、と。

 きっと、自分のように、これらの人達も朝から動き、己を最適化している。

 眠る間、記憶は整理されるが、翌朝からの生活に自分を最適化出来るのは、


 ……朝、起きてからでなければ出来ません。


 黙っている人も、声を作る人も、変わりは無い。

 朝、目覚め、動くことによってのみ、それは果たされる。そして、


「────」


 風が動いた。

 空、今の騒ぎを見ていた者達がいるのだ。

 配送業の魔女や、空の行き手達。

 青雷亭でも世話になっている者がいる。

 小麦粉や果物の定期配達は地上側だが、足りなくなったときには臨時の空輸が基礎だ。

 風を動かし、彼らは行く。


 ……そういえば。



「先日に店に来られた、マルゼ様とマルゼット様を、最近は見ませんね」


 以前は見ていた、と思う。

 名前を知ったのは先日だが、武蔵に来てから、たびたび、あの金で黒と黒で白の組み合わせはこちらの認識を混乱させていたのだ。


「どっちがどっちなのか」


 店主に聞いたことがある。確かこちらが、


「あの。たまに空を、混乱させるような金だの黒だのが飛んでいるのですが」


「ああ、あの二人。胸で見分けるといいよ」


 それで済んでしまうあたり、武蔵内のオパイカースト制度はよく出来ている。

 現状、検知したところでは浅間神社の代表である浅間様がトップ。


 ……続いて喜美様だと思われますが──。


 と、頭上を黒が飛んでいった。

 その姿はこちらの知るものでは無い。

 ただ、飛んでいく速度はナルゴット様に匹敵、もしくはそれ以上。

 そんな姿が艦首側に飛んでいき、


「────」


 振り向く視線が追いつかなかった。

 己は足を止め、建物の屋根の向こうに視線を向け、


「あのバビューンが、あの方の朝の最適化なのですね」


 また、多摩の方へと歩みを進めていく。


「こんな感じで」


「一人でも出来るわねホライゾン! やるじゃない!」


「というか何処までが”作り”か、無茶苦茶解りづらいわ……」


「初めに飛び乗った処以外、当時の記憶のままですか? 最後、客車に乗っていたはずが”足を止め”になってますし」


「御名答です浅間様! 最後修正御願いします! しかし浅間様、流石、おかしな記述とまともな記述を見分ける経験がお有りですね……!」


「褒めてるんだろうか……」


「ともあれ次からは最終日のテストさね」

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