境界線上のホライゾン きみとあさまでGTA Ⅳ

第二十一章『肌合わせ場所の無防備娘』

 ナルゼは、”向こう水”の女湯で、窯の整備を行っていた。

 水を抜いた浴槽の底。

 木枠を外して見える過熱部の調子を確認しているのだ。


 ……と言っても、ボイラーいじると面倒だから、そこまではしないけどね。


 機械系は直政の担当だ。

 その直政は、今、裏手のボイラールームに入って、


『標準的な、術式と武蔵の内燃ボイラーによる、湯沸かしと過熱消毒さね。

 ”鈴の湯”だと術式傾向が高かったけど、ありゃ奥多摩に浅間ん家があるからか』


『はい。奥多摩は教導院あったり、学生長屋も多いので、そっちに内燃ボイラーの出力を回してるんですよね。

 その状態で湯沸かしにボイラー頼ると出力不安定になって危ないので、奥多摩の湯屋は術式主体にして貰ってます』


「だいじょうぶ?」


「ええ、上からだと術式の伝導率を見るくらいだから大丈夫よ」


 声を飛ばす先、鈴はこちらの浴槽近くの床を磨いている。

 湯屋用の水着に浴衣を羽織っての作業は、膝をついた姿勢だ。

 ブラシでタイルを擦る前に手指を当てるのは、床面の汚れを察しているに違いない。

 その床が、少々難しい。

 ”向こう水”と”鈴の湯”の違いは、床だ。


「”向こう水”は、タイル張り。

 ”鈴の湯”は、木のブロックタイルを敷き詰めたものなのよね」


 こちら、”向こう水”の方が、水はけは良く、高級感もある。武蔵野は学生だけでは無く、要人も住む場所ということもあるが、


 ……前オーナーの趣味というか、入浴観ねえ。


 ”向こう水”は、元々、武蔵野の湯屋組合の代表の一人が持っていたもので、その引退に伴って鈴の両親が継いだものだ。

 ”鈴の湯”は、そこからの収入と本来の蓄財で買い取ったもので、休業状態にあったものを作り替える形で運営されている。

 作りとすれば”鈴の湯”の方が安い。

 だが、作り替えを為されていく”鈴の湯”の方が、設計は新しい。

 その差は、床に出る。


 タイル張りの”向こう水”は高級感あるが、タイルを敷き固めたプロックピースは一つ半畳ほどもあり、剥がすことが至難だ。

 何しろ重い。

 そして、床の汚れはタイルの隙間に溜まる。

 故に隙間の部分を重点的に、そこに洗剤を流し込むようにする。 全てのブロックの隙間にそれを施し、洗剤が汚れを落とした頃合いに水で流すのだ。

 これが”鈴の湯”だったら、やや長めの木材床ブロックを、床から剥がして壁に立てかけてしまえば、構造体の部分まで掃除が出来る。面倒なら、浴槽に浮かべて一晩ほど白藻の獣に任せておけばいい。


「”向こう水”の方が高級だけど手間だねえ」


「湯屋組合の代表が権勢を見せるにいい作りよね。それを継ぐ形となった鈴の両親は、よほど見込まれていたんだと思うわ」


 確かに、その数年後には”鈴の湯”までも手に入れているのだ。


 ……凄いもんだわ。



「どうしたの? ガっちゃん」


「え? ──ああ、凄いものは、実のところ、身近にポンポンあるわよねって、そんなことを思ったりもしたのよ」


 大体、鈴自体も結構凄い。


「ん?」


「まあチョイと聞きなさいよ」


 現状、床を磨いている彼女の姿勢は、這う、とまではいかないが、腕立て伏せに近い。

 床を擦る動きは全身運動だ。

 それを小等部から毎日のように続けてきたとなれば、


 ……細身で姿勢いいわよねえ。


 そしてもう一つ、今更ながらに鈴について気づいた事がある。それは、


「バランスよね」


「──え?」


 鈴が振り向いて、どういうことかと問おうという気配を見せた。そのときだ。


「あ、鈴さん、そっちやりますんで!」


 アデーレが、こちらは浴衣一丁でやってきて鈴の横に並んだ。

 そして膝をつき、床の隅を強く擦ろうとして、


「え?」


 バネ仕掛けの玩具のように、勢いよく横にすっ転んだ。


「あいたたたた!!」


 ナルゼの眼前。身を起こすアデーレが、慌てて浴衣の裾を直した。そして彼女は、泡の床に崩した正座で座り直すと、


「滑りますね!」


「当たり前のこと、何言ってんの」


 言いつつ己が思うのは、バランス感という言葉だ。

 ここ”向こう水”はタイルで、洗剤が乗ると滑走可能なレベルの状態になる。

 水だけでも、足を取られて転びかける事があるのだ。

 鈴の凄いところは、


 ……そんな床につく両の膝が揃っていることよね。


 高い知覚能力と、それに支えられたバランス感だろう。

 姿勢が整っていれば知覚へのノイズや読み取りミスも少ない。となると、


 ……相乗効果で、鈴の知覚力はどうなっていることかしら。


 自分にはよく解らないが、いつかこの能力が役に立つときがくるのかもしれない。

 だが、その一方で、


「いい感じで滑るわね! ──そうれ二回転!!」


「スケートやってないで床磨きましょうよ喜美は!」


 中央側を磨いている浅間達が賑やかだ。 


「元気なもんねえ」


 言葉を投げかける壁際、ターンを決めた喜美が、右の脚を尾のように立てた。

 スコーピオン状態。

 そして浅間とミトツダイラのところまで緩やかに滑っていった馬鹿姉が、足で踏んでいたものを浅間の眼前に掲げる。


「バナナの皮よ!」


「床汚してるじゃないですか……!!」


「だって、何も食べずにコスプレ茶屋仕切ってたんだからしょうがないじゃない。

 アンタ達も劇場艦にハッスルしに行っちゃって、私のこと完全放置よ!?

 それとも何? アンタ達、何か私に食べさせてくれるわけ?

 浅間はそのオッパイとか! ミトツダイラは、ええと、えーとー……、ちょっと待って、その髪、……いや無理ね、繊維だけだと翌朝きついわ……」


「何言ってんですの一体!」


 まあまあ、と、馬鹿が両の手で制する。


「どちらにしろ、アンタ達が戻ってくるの無理だって解ったから、こっち来る途中、調理で余ったバナナ二本を、……ほら、こう、こうやって一本は胸に挟んで、もう一本は手指を絡めて丁寧に唇の圧で切って食べてって……、このときの気分、どんなだか解る!?」


「モンキーですね」


「馬鹿ね浅間! どうしてそうエロくない発想にするの!? 折角バナナ食べてたのよ!? 気分はイエローモンキーじゃない!」


 何言ってるか本気でわからん。

 だが、横から動きが来た。

 隣の浴槽の調整を行っていた金の翼が、こちらに小さく手招きしたのだ。

 マルゴットだ。

 振り向くと、彼女は手元に隠すように小さな魔術陣を広げていた。


『アサマチ』


 え? と言われて振り返って、自分は気づいた。

 浅間が、喜美を叱りながら床を磨いている。

 神社の床磨きでもそうなのだろう。慣れたように膝をついた姿勢で、先ほどから作業を続けている。

 だが、神社の床とタイルの床は違う。

 移動しては磨いて、を繰り返した結果だろう。浴衣の裾がまくれあがって、ウエストに溜まっている。その状態で、


「全くもう……」


 と困り声で喜美を叱りながら床を磨く浅間を、アデーレが頬赤く見た。


「浅間さんって」


「何?」


「……無防備ですよね」


 同意過ぎる。まあ、浅間の場合、身内の中に入ると急激に世話焼き体質と無防備感が高くなるというところだろう。

 普段は逆に、事務的な感が強いようにも見えるし、そちらが素かとも思っていたが。


「無防備晒してくれるってのは、信頼されてるってことかしら」


「え? ど、どういうこと……?」


 答える気は無いが、現状は資料状態なので素描しておく。

 と、ミトツダイラが、


「智、……ちょっと、裾!」


 気づいたらしい。

 遅い。

 既に素描は終わっているので自由にしなさい。

 するとミトツダイラが、浅間の浴衣の裾、尻側を掴んだ。彼女は浅間に対し、吐息着きで、


「流石に、見えてしまってるのはどうかと思いますのよ?」


 下に引っ張った瞬間。

 人狼の爪が立っていたのだろう。浴衣の裾がいきなり千切れた。

 下に引かれる形となった浅間は、冷たい床に尻餅をつき、


「きゃあああああ!?」


 良く通る声が、壁に反響する。


「きゃああああ、点蔵君がお尻触ったあん」


 そこそこに通る声が、壁に反響した。

 板張りの室内。カウンター着きの厨房があるのは、


「葵君、片付け終えた教室で不要在庫を振る舞ってくれるのは嬉しいけど、無理に女性陣の代わりしなくていいから」


「何だよネシンバラ! 女っ気ないのが好きか!?」


 と料理を載せた皿を両手に笑うのは、金髪の遊び人衣装を身に纏った全裸だ。

 彼はテーブルに突っ伏している点蔵に、


「おいおい元気だせよテンゾー。明日も訓練あるんだろ?」


「…………」


 点蔵が答えない。

 代わりに応じたのは窓際席のネシンバラだ。

 彼は正純と共に、今日撮影した来客とコスプレの記念画像を、”送付先”の情報封に仕分けしていたが、


「クロスユナイト君には、やはり金髪巨乳の出逢いはなかったか」


「……お前ら、そういうネタ、ホントに好きだなあ」


「セージュンはねえの?」


「無いよ」


 つまらなさそう、という口調ありありで言う正純に、馬鹿が近付いた。


「じゃあセージュンには、これやる」


「何だこれ」


「──ピザ食ったことねえの?」


「クリーム乗ってるじゃないか」


「まあそういうのもあんのよ」


 そうか、と、正純が手袋を外し、赤いジャムの乗っているピースを手に取る。

 そして、先端からを口に入れ、


「……うわ、甘いな!」


 正純は、既に他の皆にサーブを始めていた馬鹿が、笑って振り向くのを見た。


「お疲れ、って感じでな」


「荷物運びのアシストくらいしかやってないけどな」


 遠回しに馬鹿の言うことを認めると、女装中の全裸が別の皿を掲げる。


「こっちの果物系の方がいいか?」


「こっちで充分だよ。──あ、でも夕食になるものがあるか?」


「んー、何とかやってみるわあん」


 最後に尻振るのはやめろ。

 ともあれネシンバラが自分に渡されたピザを手に取る。

 デザート系ピザと言うことなのか。

 適当な盛りつけに見えて、ピースごとに個性をつけていたらしい。

 ネシンバラはキャラメルソースが重点的に乗ったピースを。

 ベルトーニがフルーツ系の多くのったピースを。そして、


「点蔵、ほら、皆が気を使って、プリン二つとカスタードの乗った”金髪巨乳”部分を残してくれたから食えよ」


 あれはどう見ても高熱量すぎて引いたのだが、そういう気遣いもあるのか。

 ともあれクロスユナイトがゆるゆると身を起こし、うつむいたまま拳を握った。


「トーリ殿。自分……、いつか運命の出逢いというものに、出会えるので御座ろうか」


『プ! ──あ、御免テンゾー、笑って悪かったわ。お詫びにこれから金髪巨乳との同人誌描いてあげる』


『本当で御座るか?』


『相手は雌でいいわね?』


『待ったあ──! 人間か近似異族相手がいいで御座るよ!? というか何で通神が通じてるで御座るか!?』


「教室内の状況を全員が把握出来るように、浅間君が教室と皆の通神をリアルタイムで繋いだ回線用意してくれたからね。

 時限的だけど、まだ契約時間の残りがあるんだろう」


 時計を見れば五時前だ。


 ……浅間達は、向井の湯屋を掃除して雅楽祭の打ち合わせか。


 ナルゼの口調に勢いがあるのは、もはや序列一位になったことよりも、明後日の雅楽祭でテンションが上がって来ているのだろう。


 ……いいなあ。


 こちらは政治家になろうと思い始めた矢先だというのに、身内には、既に将来への道をつけ始めた者がいる。


 無論、彼女達や彼らに対し、自分が置いて行かれるのでは、という思いはなくなっている。

 ただ、その一方で、”自分にそれが出来るかどうか”という思いは生じている。

 だから、羨む。

 しかし、ナイトやナルゼ達が得た結果は、相当な苦労や、実力を懸けた勝負をやってのことだ。何もしないで夢だけ見る自分が羨むのは不遜だろう。


『あんましそこらへん、深く考えなくてもいいんじゃないの?』


『語るのは自己の整理として大事でありますよ?』


「あーまーなー、と思うが混神激しくないかこの通神帯』


 この通神帯セットを組んだ浅間だって、家柄だけではなく、ちゃんと階位の試験を通ってきているし、日々の鍛錬や生活をおろそかにしていない。

 向井だって、毎日、家業の切り盛りをしているし、そう考えると、


「────」


 自分はまだまだだなあ、と思うあたり、切迫感が薄いのかも知れない。


 ……いざとなったら父がどうにかしてくれる……、わけも無いだろうしなあ。


 暫定市庁舎の地下。

 視聴覚室では、皆が春からの新番録画を見て初見の感想を述べ合っていた。が、その中、通神用の表示枠を耳に当てた男が、


「はあああああ!? 何だと伊那! 貴様が十二歳以下の子供が好きだから小等部の校長に配置してやったんだろうが! うちの正純の講師バイトくらいどうにかせんか!

 ああ!? 正純が十六歳だから嫌だ!? 四捨五入したら十二歳だろうが!」


「ノブタン! ノブタン! 落ち着いて!」


「やかましいぞコニタン! ──で、何だ伊那!? 午前一時間だったらどうにかなる!?

 自給幾らだ! 六百五十円だと!?」


 男が、周囲に視線を走らせると、七人中の六人が首を横に振った。

 そして一人、小太りの商人が素早く表示枠の算盤で数を出す。男はそれを見て、


「せんごひゃくええええん! ──そのくらいはいけるだろう? はあ!? いけない!? いけないだと!? いけない伊那先生か貴様! じゃあいいよもう正純をお前の代わりにバイト校長にするもん! 絶対するもんね! はい決まり! 決まりでえええす!

 ──フッ、始めからそう言えばいいのだ。了承しよう」


『──あれ? 正純? 正純宛に通神来てます。武蔵野小等部からの講師バイト、契約受理とのことで』


 通神からの浅間の声に、正純は、あ、と言葉を作った。


「先日、面接したんだが、通ったらしいな。

 今の時期からだと難しいと言われていたんだが。

 ──ははは、小等だけに、難しくても採用しようとぅ、ってところかな」


 馬鹿が盆ごと床にひっくり返った。

 自分はそれを見て、


「何だ、そんなに面白かったのか」


「強引にも程があるぜセージュン……!」


 よく解らないがウケたらしい。ともあれまあ、


「父の権勢ゆえかなあ。……強引にネジ込んだ可能性もあるから、真面目にやっていかないと。大体、今のままだと本も買えないし」


「本よか、オメエもうちょっとメシ食えよ。身体細えんだから」


「今から肉つけようったってそうもいかんだろ」


 確かに、と、身体を起こしたのはクロスユナイトだ。


「正純殿の運動量、推測でみたところで御座るが、下手に食べ過ぎても筋力には繋がらないかと。──トレーニングなど行って御座るか?」


「いや、別に」


 中等部でも文化系として過ごしてきた身だ。

 武蔵に来てしまえば、表層部のほとんどは平面だし、国土としては狭いから尚更運動の意味を感じていない。だから、


「日常生活出来る身体があれば構わないさ。気分転換の散歩は興味あるけどな」


「だけどオメエ、空腹でぶっ倒れてたりすんだろ」


 馬鹿の言葉には、頷かざるを得ない。


「朝食がネックだな。朝、何処かで食べようかと思ってると、フラっとくる。

 夜食を避けるようにはしているので、前晩でいろいろ使い切ってしまってるんだろう」


「しょーがねえなあ」


 馬鹿が吐息した。


「どうせ言ったって生活変えねえんだろうし、倒れるなら青雷亭の近くにしとけよ」


「Jud.、幾度か助けて貰ってる。甘えるようで、良くないとは思っているが」


「助けて貰えてるなら、甘えてるわけでも、良くねえわけでもねえから安心しとけ」


 そう言われて、一瞬納得しそうになって、踏みとどまった。

 馬鹿の言いたい事は解るが、これは青雷亭と自分の付き合いだ。

 彼の観点は参考になれど、飲み込んで良い訳もない。だが、改めて思うのは、


「人に迷惑ばかり掛けてるなあ……」


「誰と比較しての話だよ? セージュン」


 馬鹿が厨房の方に行きながら問うてくる。


 ……誰と、か。


 誰とだ?

 それはもう、浅間や、ミトツダイラや、ナイトやナルゼや、アデーレも、他、男子勢だって、自分に比べたら、


「皆は、しっかり一人でやってるだろ」


『フフ、こういう処で名前が必ず出ない私、個性が立ってるわね!』


『葵姉は参考にならない枠だからなあ……』


 馬鹿だって、何も出来ないようでいて、こういう料理はしっかり出来る。

 解っているのだ。

 このデザートじみたピザは、適当に作ったものではなく、明日からのための試作だろう。


 ……教室内に持ち込めるオーブンは、基本、保温用で火力が低いからな。


 ピザを普通に作ろうとすれば、生焼けになる可能性もある。だから逆に、生地が生焼けでもいいようなスイーツ型のピザを作る。

 学業など、全く出来ない男だというのはこの一ヶ月でよくよく解っていることだが、


「お前にも、能はあるもんなあ」


「ないない。俺のなんて、基礎は母ちゃんの受け売りだしな」


「それでも一人で考えてやってるだろ、今」


 と、ピザを口にしつつ言った台詞には、ふと、予測と違う場所から返答が来た。


「面白い話だな」


 ベルトーニだ。


 正純は、テーブルを一つ占領して小銭や札束を重ねている同級生を見る。

 彼は、竹製の保温瓶から紅茶の匂いを口に傾け、


「──たとえば私の商売は、客がいてこそ成り立つ。仕入れや流通を自給できる商材であっても、客がいなければ商売にならん」


「人は一人で生きていけない、という観念的な話か?」


「そうではない」


 たとえば、とベルトーニが重ねて言った。


「そこの点蔵が忍者をやっているのは、基本、父からの繋がりだ。術も技もな」


 そして、


「御広敷も、親の企業の流れで自分の店をやっている」


「それが何の意味が?」


 例示が先に立つのは、商人の論術か。だから、


「前口上より本論を頼む」


 言うと、ベルトーニが吐息した。


「──少々、説得力がなくなるが、まあいいだろう」


 ベルトーニが、手元に硬貨を一つ寄せた。それを指で立て、彼が言う。


「技術も、家柄も、財も何も、人は何かを先人や歴史から受け継ぎ、それを客に欲される事で成り立っている。

 その連綿とした受け継ぎ無しに出来るものなど、有りはしない」


「──観念だ」


 では、とベルトーニが言った。彼は無表情にこちらを見て、


「貴様は何を一人でやっていこうとしているのだ」


「それは──」


「何の手助けもなく、誰からも求められない。そのようなものの方が、観念だと私は思うがな。ゆえに私は言おう」


 商人が、疑問を放った。


「たとえば、と問うた場合、それが何か、貴様は言えるのか?」


「たとえば、だと?」


 問い返す。その内容は、


 ……私が、私だけとなった場合に、しようと思う事。



「それは──」


 ……ああ、そうか。


 きっとこれは、先日のオーゲザヴァラーを前座とした、商人のアプローチなのだ。

 彼らは、これまで幾度か、こちらを試すような物言いをしてきた。

 その上で、商人は、こちらの”商品価値”を、探りに来たと言うことだろう。

 つまりは、”政治家”として、今の問いにどう答えるかを試しに来たのだ。

 誰にも頼らない一人だけの物。

 観念でなければ出て来ないような、オンリーワンの望みと答え。


 ……それは……。


 一つ、思いついたことがある。

 自分がただ一人となる事を前提とした望み。

 何にも頼ることなど出来ず、誰も欲さないであろう希望が、政治家には作れるとすれば、作れる。

 心に思った回答。それは、


 ……世界に反抗することだ。


 本気かどうかと言われると、買い言葉に売り言葉としか言いようがない。

 だが、これならばベルトーニに対しての答えになる。

 今、暫定支配された極東の中において、


 ……世界に反抗する。


 暫定支配から百六十年。誰も望まなかったことだ。

 もし今の世でこれを謳ったところで、誰もついて来はしないだろう。

 だから自分は思う。

 この答えならば、明確に、何の手助けもなく、誰も欲さないだろう、と。

 ベルトーニに対しての台詞としては、上出来だ。

 ゆえに己は口を開いた。


「たとえば、で答えるつもりはない」


 言おう。

 答えは一つだ。


 点蔵は、正純の台詞を聞いた。彼女が姿勢を立てて告げるのは、


「私は政治家志望だ。

 ──民衆と共にあり、民による国家を代弁する身だ」


 ゆえに、と正純が言葉を続けた。


「例え私意がどうあろうとも、国家が望まぬ事はしない。

 逆に言えば、国が望むならば──」


 ならば、


「何の手助けもなく、誰も欲さないだろうとも、私は動く」

刊行シリーズ

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