野﨑まど劇場

作品 No.17 暗黒への招待


 飼育員・小山内真紀おさないまきは首を捻った。足元で白い山羊がめえぇと鳴いた。

 彼女が今立っている『ふれあい広場』は、動物に直接触れることができる、園内でも人気のスポットだ。ウサギにモルモット、カメ、ヒヨコなどが飼育されていて、子供達が好きなようになでたり抱いたりする事ができる。

 その中で一番の人気を誇る動物が、彼女が連れている白山羊だった。山羊が広場に現われると、子供達は抱いていた動物を放り出して駆け寄ってくる。ウサギやモルモットなら飼った事のある子もいるが、山羊に触った経験のある子はほとんどいないので、みんな珍しい動物に目を輝かせて集まってくるのだ。

 だが今日に限っては違った。

 ふれあい広場に子供の姿がほとんど無い。視界に入った三人の子供はいつもの通り山羊の元に駆け寄ってきたのだが、この人数は余りにも少なかった。何しろ今日は週末なのだ。五十人、いや場合によっては百人近い子供がいたとしてもおかしくはないのに。

 たまたま入園者が少ないのだろうか。しかし広場の外を見渡せば、園内は週末に相応しい賑わいを見せている。ではふれあい広場にだけ人が少ない? それはそれで妙な話だ。小山内真紀は再び首を捻った。

 その時、彼女の耳に子供達の歓声が届いた。広場の反対の方、飼育小屋の向こう側から聞こえてくる。小山内真紀は山羊と一緒に声の方へと向かった。



 そこに待っていたのは、誇張でなく百人は居ようという子供の絨毯と、その中心に立つ女の姿であった。

「黛さん」

 小山内真紀は渦の中の同僚に声をかけた。

「来たわね、小山内さん」

「すごい人だかりですね。何があったんですか?」

 小山内がそう聞くと、黛澄子まゆずみすみこはスッと手を上げて、はしゃぐ子供達を制した。彼女の手が動くと、子供の海がまるでモーゼの奇跡のように左右に分かれていく。人が移動したことで、黛澄子の足元が露になった。

 彼女の足元には、見慣れぬ黒い動物が付き従っていた。

「あれ、黛さん、その子……」

「山羊よ」

 彼女の言う通り、それは山羊であった。頭の上で湾曲した角と、起きているのか寝ているのか迷うような細い目。山羊以外の何者でもない。

 だが、ふれあい広場で飼っている山羊は小山内が連れている白山羊一頭だけのはずだ。他の山羊が園内に居るという話も聞いたことがない。

 説明してあげる、と黛澄子は言った。その瞳には、暗く深い憎しみの色が映っていた。



「私と貴方がふれあい広場の飼育担当になった春。私達は夢と希望に満ちていたわね。子供達の笑顔が溢れる広場にしようって、二人で約束したあの日……。でも運命はあまりにも悪戯だった。私はハムスター、モルモット、ウサギ、亀、その他小動物もろもろの担当になり、貴方は山羊の担当になった。私は無数の動物の世話に日々追われた。ウサギは脱走して園外のお宅から苦情を受け、モルモットはケージ分けに失敗して三倍に増えたわ。来る日も来る日もモルモットを育てては雌雄を見分ける毎日……。それでもまた失敗して二倍に増えたわ。私の落ち度で増えたモルモットの世話は当然サビ残だった。夜の十時までネズミの世話。そのあと亀の世話。辛かった。毎日生きることの意味を考えた。それでも、私が世話をした動物を待っている子供達が居ると思えば、甲羅のコケ掃除だって耐えられた。なのに……なのに! 子供達はみんな、みんな貴方の山羊の虜だった。私が苦心して育てた動物達は、貴方の山羊が登場するまで場を温めるだけの前座だったわ。モルモットも、ウサギも、亀も、どんなに足搔いてもドン荒川にしかなれなかった……。ふれあい広場の力道山は貴方の山羊だけだったのよ。貴方に私の気持ちが解る? 放り出されたヒヨコを拾って箱に戻す時の私の気持ちが! 私だって一度でいいから子供達に囲まれてみたかった。ふれあい広場の主役になりたかった。だから私は、とうとう禁忌に手を染めてしまったのよ……。新宿西口の占い師から買った魔法のクリスタル。私はそのクリスタルの力を使って、貴方の白山羊のコピーを創りだしたのよ。でもそれは禁じられた暗黒の魔法。嫉妬と憎悪を力に変える邪法だった。でも、それでも良いの。貴方と、貴方の山羊を超えることができるなら、私は悪魔に魂を売っても構わない。さあ、とくと見なさい! この山羊こそが冥府魔道の力で作られた偽りの白山羊……ダーク白山羊よ!」

「黒山羊?」

「ダーク白山羊よ!」

 黒い山羊はめえぇと鳴いた。

「ダーク白山羊は暗黒の力で黒く染まっている以外は、貴方の白山羊の完璧なコピーなのよ」

「へぇー」

「それじゃあ……始めましょうか」

「何をです?」

「決まっているじゃない……貴方の白山羊と、私のダーク白山羊、どちらがふれあい広場の王に相応しいかの闘いにね!」

 黛澄子の強い言葉が響き渡ると同時に、黒い山羊は白山羊に歩み寄った。対峙する二頭。口火を切ったのは、悪魔のような風貌の黒い山羊だった。首をもたげて角を突き出す。それに呼応して応戦する白山羊。角同士のぶつかり合うカコン、カコンという音がふれあい広場にこだまする!

「ああ、喧嘩始めちゃった」

「ふふふ……コピーであるダーク白山羊は、力も技術も貴方の白山羊と全く同じ。だからこの闘争は、一見決着が付かないように思える。でもね、小山内さん。実は白山羊とダーク白山羊にはたった一つだけ違うところがあるの。そう、この子は暗黒の化身。だからこの子には無いのよ……『優しい心』がね! 貴方の白山羊みたいな甘っちょろい心が、このダーク黒山羊には存在しない!」

「いま黒山羊って言った」

「言ってない!」

 彼女達が舌戦を繰り広げている間にも山羊たちの闘争は激化していった。カコンカコンと響く音色は黛澄子の心の禍根が生み出した悲しみのメロディーか。

 しかし拮抗は長くは続かなかった。黒い山羊の容赦のない角突きを前に、白山羊はジリジリと後退していく。白山羊の劣勢は明らかだった。



「ねぇパパ、あれ何やってるの?」

 小さな女の子が二頭を指してつぶやく。

「喧嘩だよ。オス同士が角をぶつけ合って戦うんだ。きっと負けた方はお嫁さんがもらえないんだね」

「どうして? 偉くなれなそうだから?」

「聞きなさい。偉くなる事だけが人生じゃない。男は出世すれば良いというものではない。人間として大切な事を見失ったら意味がないんだ。大切な物、それは思いやりだ。パパも思いやりを大切にしたために、出世のチャンスを逃したこともある。だけどパパは間違ったとは思っていない。出世を譲ったことで、パパは自分自身の生き方を守ることができたんだよ。お前も将来相手を選ぶ時は思いやりのある人を選びなさい。決して偉いだけの、収入があるだけの、出世しているだけの相手を選んじゃいけないよ」

「思いやりがあって偉い人を選べばいいの?」

「いいから白い山羊を応援しなさい」

「はぁい」



 気付けば白山羊を応援する子供達の大歓声が広場を包み込んでいた。

「どうして……どうしてなの……? 私のダーク白山羊が間違っているっていうの? 暗黒の力に手を染めた私は人間として間違っているっていうの? だからみんな白山羊に肩入れを……」

「たまたまだと思いますよ」

「もういい! 勝つのよ! 勝つのよダーク黒、違う、ダーク白山羊! 貴方が勝つ事だけが私の生き方を証明してくれる!」

 黛澄子の悲壮な叫び。

 しかしその声は無情にも空に吸い込まれていった。

 黒い山羊がくるりと転身して広場の隅に向かった。そして腰を下ろした。疲れたのだ。

 壮絶な争いを制したのは、終始防戦に徹していた白山羊であった。

「そんな! なぜ!」

「たまたまだと思いますよ」

「子供達の人気を得るために私は全てを捨てたのよ! モルモットを! 亀を! そして心までも捨てて私はダーク白山羊を創り出したのに! なのに……ダーク白山羊は負けた……。子供達が選んだのは白山羊……心無いダーク白山羊の存在は、やっぱり許されることはなかった……」

 黛澄子は膝を突いて崩れ落ちた。

 ストレスがたまってたんだなぁと小山内真紀は思った。

「ねぇ黛さん。あの黒山羊も飼いましょうよ」

「え?」

「白山羊と黒山羊が居たらきっと大人気ですよ。今でも人気ですけど、二頭いたら園内で一番になっちゃうかも。パンダより人気になったら凄くないですか? 主任にも大きい顔できますよ」

「許してくれるの……? 私と、ダーク白山羊の存在を許してくれるの? 心を持たないダーク白山羊も、この広場に居て良いの?」

「黛さんの担当なら別に」

 黛澄子の頰を一筋の涙が伝った。

 そこに主任が飼い葉を持ってやってきた。飼い葉桶に入れられた草を美味しそうに食べる二頭。それを取り囲む子供達の笑顔。黛澄子は再び涙をこぼした。彼女が夢に見たふれあい広場がそこにあった。

 その時だった。

 小山内と黛の目に、猛スピードで飛んでくるカラスの姿が映ったのだ。小山内は朝礼で聞いた話を思い出す。園内の木にカラスが巣を作ってしまったらしく、子育てで凶暴になっているかもしれないので注意するようにと言っていた。

 二人は大慌てで子供達を避けさせた。子育て中のカラスは人に攻撃を仕掛けてくる事もある。園内で怪我人を出すわけにはいかない。

 人垣が割れた結果、カラスが餌をはむ山羊に向かって飛んでいったのは必然であった。

「山羊が!」

「逃げて!」

 二人の叫びに驚いた白山羊がビクリと身体を硬直させた。動けない。カラスは止まらない。もう逃げられないと誰もが悟った。

 だが白山羊は無事だった。

 カラスの攻撃から白山羊を守ったのは。

 黒い山羊だった。

「ダーク白山羊ッ!!」

 黛の声が黒い山羊に届くことは無かった。

 カラスの攻撃を受けた黒い山羊は、一瞬赤い光に包まれたかと思うと、次の瞬間、その身を赤黒い光を放つ水晶に変化させて宙に舞った。

「そんな……」

 黛澄子の頰を、三度涙が伝う。

「白山羊をかばったの……? 心を持たないはずのダーク白山羊が、白山羊を助けた……。紛い物の、偽物の白山羊だったはずなのに……」

「ううん……偽物なんかじゃないですよ」

 小山内真紀が、空を見上げた。

「本物とか偽物とか関係ありません。黒くても白くても、あの子は確かに山羊でした。私達の仲間でした。ふれあい広場の、友達でしたよ」

 残された白い山羊がめえぇと鳴いた。

 なんと言っているのか、二人には解るような気がした。


 小山内真紀は今日も白い山羊と共に、子供達の笑顔に囲まれている。

 黛澄子は宙に舞った魔法のクリスタルが飼育箱に飛び込んだ結果、二倍に増えてしまったモルモットとダークモルモットの世話をしながら、生きることの意味について考えている。

刊行シリーズ

独創短編シリーズ2 野崎まど劇場(笑)の書影
独創短編シリーズ 野崎まど劇場の書影