野﨑まど劇場
作品 No.21 魔法小料理屋女将 駒乃美すゞ
上品な着物に身を包んだ、小料理屋『こま乃』の女将が水割りのグラスを差し出す。男は口を付けると、あの、と顔を上げて女将に言った。
「主演、決まりました」
からん、と氷が鳴った。
堤は太秦に出入りする売れない役者だった。今年で三十になるが、今まで大きな役をもらえた事はない。時代劇の切られ役か街中のエキストラをこなしながら、アルバイトで細々と食いつなぐ日々だった。もう若手と呼べる時期は過ぎている。同年代の仲間達も、諦めて田舎に帰った者が多い。だが彼はまだ夢を捨て切れずに、ドラマや映画のオーディションに挑戦し続けていた。
そして何十回という不合格の果てに、今日とうとう合格の連絡を受けたのである。
監督直々の電話だった。監督は彼の演技をいたく気に入っていて、この役は君しか居ないと電話口で熱く語った。電話を切った後、堤はまっすぐにこの店へとやってきた。吉報を真っ先に伝えるべき相手は、親でも友人でもなく『こま乃』の女将に決まっている。
本来なら『こま乃』は、堤の稼ぎでは少し敷居の高い店だ。一人ではきっと一生入ることはなかっただろうが、三年ほど前に先輩の役者に連れられて初めて暖簾をくぐった。その時に堤は、自分よりいくつか年上だろう美しい女将に淡い気持ちを抱いた。
以来、彼はオーディションに落ちる度にこの店に足を運んだ。財布の中身は厳しかったが、女将も堤の稼ぎはよく知っており、こっそり勘定に手心を加えてくれたりもした。
寡黙な堤は、店に来ても愚痴を零すことはなかった。オーディションに落ちた時は、ただ落ちたと一言だけ言って、後は黙って飲んだ。そういう時は女将も何も聞かず、同情もせず、ただ優しく微笑んで酒を出してくれるのだった。
そうして今日、彼はやっと、一番言いたかった言葉を持ってくることができた。
「そぉ……」
女将はいつもと変わらぬ笑みを浮かべると、グラスを取った。
「うちもいただいていいかしら」
「あ、ええ。どうぞ」
女将は自分のグラスに氷を入れながら話す。
「映画の主演なんて、遠い人になってしまいはりますね」
「そんなことは……」
「ねぇ堤はん。うちが魔法少女やったこと、前にお話しましたやろ?」
堤は顔を上げて、店の壁にかかっているバトンに目をやる。女将が昔魔法少女だったことは以前から聞いていた。クリスティアラ・バトンは今も水晶の煌きのような音を奏でている。
「うちも初めて魔法少女になれた時は本当に嬉しかったわぁ……。他の人より下積みが長かったさかい、感慨も一入で。魔法少女になった後も、めいっぱい走りました。脇目も振らずに全力で走ったわぁ。そうして走り切って、終わってから振り返ってみると、なぜか一番よう思い出すんは、まだ魔法少女になる前の下積みの時の事どす。きつかったですし辛かったですけど、あの時が一番楽しかったのかもしれまへん」
女将が目を細める。
「うちももう魔法を使うことはほとんどありまへんけど……魔法少女になるために頑張った頃の想い出は、今でも宝物やわ」
ウィスキーを注ぐとぷとぷという音が優しく流れる。
「堤はんも、有名にならはった後に、このお店のこと思い出してくれはるかしら」
忘れるわけがない。自分が主演を射止めるまで頑張れたのは、この店と女将のお陰なのだ。むしろこれからも女将にはずっと支えてほしい。そう伝えたかったのに言葉は出なかった。舞台を離れると、堤はあまりにも不器用な男だった。
女将は言葉を探る堤に気付くと、グラスを上げて微笑んだ。
「おめでとさん」
『こま乃』にこんなにも入りづらいと思ったことはない。
だが入らないわけにはいかない。黙っていても、いつかは話さねばならないことだ。
暖簾をくぐると、中年の男が上機嫌で女将を口説いていた。堤は男から離れて、カウンターの隅の席に座った。
女将は中年をかわすと、堤のところに来ていつもの水割りを作ってくれた。
「どないしはったん?」
堤は差し出された酒を見つめたまま、顔を上げずに言った。
「あの話…………無くなりました」
グラスを一気に呷って、堤は再び顔を伏せた。
突然の連絡は、やはり監督からだった。申し訳ない、本当に申し訳ないと何度も謝られた。監督自身も悔しくてしょうがないという気持ちが電話口から伝わってきた。一度は決まったはずの堤の主演は、プロデューサーの一存でなかった事にされたのである。
代わりに選ばれたのは、有名アイドル事務所の若手タレントだった。
悔しかった。悔しくてたまらなかった。オーディションの日、プロデューサーは最初に挨拶だけしてさっさと帰ってしまったから、自分の演技すら見ていないのだ。なのに後から連れてきた知名度だけのアイドルを主役に抜擢した。もちろん理由は解る。その方が売れるからだ。
異論も反論もいくらでもあった。だが自分には何も出来ない。自分の力だけではどうにもならないレベルでの話だ。それでも歯嚙みせずにはいられない。今の彼にできるのは、一文の得にもならない恨み言をウィスキーで流し込むことだけだった。
女将が何も聞かずに、二杯目の酒を作り始める。
堤だって本当は解っている。プロデューサーの判断はある意味で正しいということを。無名の自分よりアイドルが出た方が売れるのは当たり前なのだ。逆に堤が出た方が映画の中身が良くなるのかと言えば、その保証はない。
再び差し出された水割りを一口舐めて、気持ちを落ち着けようと努力した。せめて女将には、空元気でも大丈夫だと笑って見せたかった。そうして堤が目一杯の演技力で笑い顔を作り、頭を上げようとしたその時だった。
「美すゞちゃん、こっちにも注いでよぉ」
中年の声に驚いて顔を向ける。そしてまた力一杯俯く。
プロデューサーだ。
堤は顔を歪める。
なんで、なんでこんな所で会うのか。なんで。
「今いきますさかい、まっとっておくれやす。ほな、堤はん……」
女将に声をかけられても、堤は顔を上げられなかった。もう笑顔など作れなかった。堤は自分の演技力の乏しさに呆れた。
女将は、彼の震える肩を少しの間見つめていた。
壁のクリスティアラ・バトンが水晶の煌きのような音を奏でていた。
事態が好転したのは、それから二日後の事だった。
監督からの三度目の電話は弾んでいた。主演はアイドルタレントに決まったのだが、それに次ぐ出番のある準主役として堤を使いたいという連絡であった。プロデューサーは説き伏せた、君の演技が必要なんだと口説かれ、もちろん堤は二つ返事で引き受けた。
だが『こま乃』には行かなかった。慌てて喜びを伝えて、この前のような事になるのは避けたかった。出演が確実に決まってから、改めて顔を出そうと思った。
二週間後、映画の最初の顔合わせが開かれた。堤はアイドルの次に紹介された。拍手を聞いて、自分は本当にこの映画に出られるのだと、改めて胸を震わせた。
顔合わせの後で、堤は監督にもう一度礼を言った。監督は「この映画を引っ張ってくれ」と堤の背中を叩いた。堤は力強く返事をした。監督の信頼に応えなければと、内なる情熱を燃やした。
監督と話したら、次は当然プロデューサーに挨拶をせねばならない。もちろん、この人の裁量で主演を外された事を恨んでいないかといえば噓になる。しかしこうして同じ現場に入るとなった以上はチームの仲間だ。協力し合って良い映画にしたい。堤はよろしくお願いします、と頭を下げた。
プロデューサーは温和そうな笑顔で、よろしく、と答えた。
そして去り際に堤の肩に手をかけると、小さな声で言った。
「美すゞちゃんにもよろしく伝えてな」
堤はしばらくの間、呆然とその場に立ち尽くしていた。
曇天の京都の街を、堤は走った。夕方だというのに空は真っ暗だった。
開店前の『こま乃』に着くと、女将が暖簾を掛けているところだった。女将は堤に気付いて振り返る。
「そんなに慌てて、どないしはったん?」
女将はいつもと全く変わらない微笑みを浮かべた。
堤は肩で息をしながら立ち尽くす。
何も言えなかった。言うべき資格も、言うべき言葉も持っていなかった。全ては自分の責任。自分の不甲斐なさが招いてしまった事だ。そんな自分が、彼女にいったい何を言えるというのか。何もやっていない自分が、自分の為に動いてくれた女将に言えることなど何も無い。
堤はこぶしを握りしめて、唇を嚙んだ。
ぽつり、ぽつりと雨粒が落ち始める。
クシャクシャになった堤の顔を、雨が一筋伝う。
女将は冷たい春の雨に打たれながら、困ったような笑顔で微笑むのだった。
「かんにん。かんにんな」