野崎まど劇場(笑)
作品 No.09 大オーク
十一代将軍
が、実際にはそこまで仕事熱心だったということはなく、ただ単に、寝所に行きたくないだけであった。
夜五つ半、老中
「上様、刻限にございます」
家斉の顔色は優れなかった。
「利厚、どうしても行かねばならぬのか」
「なりませぬ。これだけは譲れませぬ。これが上様のご公務におかれまして、最も大切な御用にございます」
「わかった」
家斉が苦渋の顔で頷く。
「刀をもて」
利厚はうやうやしく二本差しを差し出した。
徳川家将軍は毎夜、江戸城本丸御殿北方に位置する秘奥の区画を訪ねる慣習であった。そこは歴代将軍のみに開かれた男子禁制の聖域。
大オークである。
家斉と利厚は中奥を出て、
廊下に面する中庭から、黒い影が飛び出した。
「ブルフォオオッ!」
獣の叫びと同時に、背の低い怪物が家斉に襲いかかった。家斉はすかさず白刃を閃かせ、それを空中で切り伏せる。
「ブゥゥオオォー!」
断末魔の声とともに、邪悪な黒い血だまりが廊下に広がった。
「お見事」
「利厚よ」
「なんでしょう」
「余は今まで何度も聞いている気がするのだが、これは何じゃ」
「オークにございます」
「うん」家斉は不満気であった。「オークとは何じゃ」
利厚は神妙に語った。
「はるか遠い星々の時代……世界を創造した神々の一人が、始まりの民であるエルフを捕らえて地下坑に幽閉し、冒瀆的でおぞましい拷問を与えて堕落せしめたのです。そうして生まれたものこそが、このオークなる生き物にございます」
「エルフとは何じゃ」
「私めもよくは」
「知らんのではないか」
「ご尤もながら。ですが上様お聞きください。幕府が将軍となられし御方は毎夜この大オークに足を運び務めを果たすべし、これは東照大権現家康公から連なりまする徳川二〇〇余年の伝統にございます。歴代将軍様は例外なくこの大オークに日参し、そして大オークにおいて誉れ高き御世嗣ぎを成したのです」
「どうやって」
「二〇〇余年も経っておりますゆえそれもよくは……しかし上様、ご安心を」
そういうと利厚は懐から、なにやら古めかしい文書を取り出した。
「こちらは先日城内の蔵より見つかりました、大オークについて記されし古文書にございます。この中に書かれておりました《お床入り》の作法を守りますれば、必ずや御世嗣ぎが授かれますはず……」
「よかろう、言う通りにする。余も早う終わらせたい」
「しからば段の一からお願い致します」
利厚が古文書を読み上げる。
「一、まず御伽坊主と呼ばれる伝令の女中が参ります」
廊下の奥から、苦痛と憎悪によって形を歪められたおぞましい姿のオークが現れた。
「二、御伽坊主に今宵の相方を選んでお伝え下さい」
「器量の良いものを用意せい」
「ブルブァアアアッ!」
家斉はオークを切り伏せた。
「三、続いて相方に選ばれました将軍付女中、
焼けた炭のごとく黒い皮膚に包まれた、真っ赤な裂け目のような眼のオークが現れた。
「四、御中﨟は厳しい身体検査を受けておりますゆえ、上様に危害を加えるようなものは所持しておりません」
オークは偃月刀と毒の付いた短剣をちらつかせた。
「五、寝所にてご同衾ください」
「ゴブファアアアッ!」
家斉はオークを切り伏せた。
「上様、いかがでしょう」
「毒を受けたらしい……目が霞む」
「いかん。ひとまず安全な場所へ」
利厚は家斉を連れて進み、大オークの中程に身を隠した。鍾乳石から落ちた水滴の音が地底洞窟の中に響き渡る。
「なぜこのような場所が本丸の地下にあるのだ……」
「大オークは地下空洞を利用して作られておるのです。オークは光を受けると衰弱し焼け死んでしまいますゆえ」
「焼け死んではいかんのか」
「御世嗣ぎが……」
「関係がわからぬ……」
家斉と利厚は毒を抜きつつ小休憩を取った。
ある程度回復した家斉が立ち上がると、遠くからわずかに地鳴りのような音が聞こえた。利厚もそれに気付く。
「奥の方にございますな」
二人は濡れた鍾乳石の間を慎重に進んだ。近づくに連れて音は大きくざわめいていく。家斉と利厚は大岩に背をつけて岩陰から先を覗き、絶句した。
広大な地下空洞の平野の中、何千という膨大な数のオークが二つの群れに分かれて、壮絶な闘争を繰り広げていたのである。
「なんという数だ」
「大オークのオークは類まれな繁殖力を持っておりますゆえ」
「しかしなぜオーク同士で争っておるのか」
「上様。これこそが大オークの真髄にございます」利厚は重く語った。「江戸城大オーク……その実態は、権謀術数蠢く政の場なのです。私めの見立てによりますれば、岩壁を居城とし籠城しております一軍が
飛鳥井の軍勢が岩城に無数の弓を射掛ける。籠城する姉小路軍は城門から巨体のトロルを放つなどして対抗していた。
「戦争?」
「権力争いにございます」
「苛烈過ぎる」
「オークは残虐な戦士でありますゆえ……。元々が人喰いの種族であり、その太い鉤爪とよだれまみれの牙には仲間のどす黒い肉と血がこびりついていることもしばしばと云われます」
「お前そんなものと余を同衾させようとしたのか」
「全ては御世嗣ぎのため……」
「世嗣ぎと言えば何でも済むと思うな!」
家斉は怒りに任せて抜刀した。
「上様、お鎮まりくだされ、殿中にござる」
「洞窟じゃ」
利厚は尻をついて後ずさった。だがその時手に触れた小石が転げ落ち、眼下で争っていたオークの一人が家斉達に気づいてしまった。
「ブルアッ! ブフフォオオアアア!」
「しまった、上様気付かれました」
「ぬうっ」
家斉の姿を認めたオークどもは一斉に咆哮を上げた。将軍の世嗣を得て大オークの覇権を握るという至上の目的が、醜く争っていたオークどもを一つの群れへと変貌させる。その一軍のオークの中央に櫓車が走り出た。車上には鉤爪型の義手を付けた一際巨軀のオークの姿があった。
「あやつは……」
「ま、まさかあのオークはっ……! 大オークの全てを取り仕切るという大首領!
「ボルブアアアァァッ!!」
残忍な御台所が吠え猛った。篤姫が鋼の鉤爪を振ると部下のオークが家斉に向かって何かを投げてよこす。それは家斉が中庭の池で寵愛していた錦鯉であった。鯉の横腹には呪わしき「広大院篤姫」の文字が焼き付けられている。大オークの、いや江戸城の主は自分であるという邪悪の主張であった。
「ボフォフォフォフォ!」御台所のおぞましい鼻声が家斉を笑う。
「この狼藉者がっ」
家斉は激昂し二本を抜いた。
「上様、お待ちくだされっ、多勢に無勢でございます!」
「成敗っ!」
家斉は岩肌を踏み越えて飛び出した。同時に篤姫もオークどもを扇動して家斉を討つべく突撃した。討ったら世嗣はもう無理なのだが鈍く惨めな生き物であるオークどもはそこまで考えられなかった。
「潔く腹を斬れえ!!」
「ボブフフォオオォォッ!!」
将軍の姿がオークどもの荒波の中に消えた。家斉の猛声と篤姫の咆哮が交錯し、どちらのものともつかぬ血飛沫が地底洞窟の闇を染める。利厚はオークの海を前に立ち尽くした。将軍を助けに向かうには、老中土井利厚はあまりにも老いていた。
利厚は静かに踵を返し、絶望のうちに地下洞窟を去った。
世嗣は得られず、将軍本人までもが戦火の中に消えた。無力な老中に残されたのは切腹の一本道のみであった。
帰路、上御鈴廊下で行き掛けに切り伏せた瀕死のオークが倒れていた。
「ブフゥ……コ……コロセ……」
後の書によると、十一代将軍徳川家斉は稀に見る壮健な人物であったそうで、将軍在職五十年の間に五十三人の子女をもうけ、その繁殖力たるやもはや人外の領域であったと記されている。