「だから僕は青春をやめた」――三橋俊吾 ②

 五年前

 

 アスファルトに反射する太陽光線で全身を炙られながら、海が見える坂道を下っていく。

 造船所の巨大クレーン。長崎湾を超えて世界に進出する豪華クルーズ船。海を挟んだ向こうには、斜面を削って作られた住宅地が広がっている。

 見慣れた光景だけど、なぜか今はすべて新鮮に感じられた。


「二人きりで話すのって、いつ以来?」

「さあ、覚えてないな」

「なんか最近、俊吾が学校で避けてくるからさ」

「別に避けてないだろ」


 新調した麦わら帽子を被り直しながら、鈴音が屈託のない笑みを向けてきた。

 中学に上がってから、鈴音は直射日光を避けるようになっていた。

 男子と一緒に外で駆け回っていた頃よりも肌は白くなり、日焼け止めのシトラスハーブの香りを全身から漂わせている。どんどん大人に近づいていく彼女を、昔みたいにまっすぐ見れなくなったのはいつからだろう。


「……そういや、最近バスケはどんな感じよ」

「全然ダメ。あと二年間でレギュラーになれる気しないよ」

「まあウチの中学って女子バス強いもんな」

「俊吾はまだサッカー部入らないの? 上原くんが必死に勧誘してるのに」

「夏休みが終わったら考える」

「あはは、来年もまったく同じこと言ってそう」

「だって、坊主強制なんて絶対だもん」


 母親の誕生日プレゼントを一緒に選んでくれ――俺がそういう口実を使ったから、たぶん今の状況は、鈴音の中ではデートにはカウントされてない。

 家族ぐるみで仲がいい幼馴染が、まさか一世一代の勇気を振り絞って誘ったなんて、まるで想像もしていないのだろう。

 坂を下りきって、俺たちは冷房がガンガンに効いた路面電車に乗り込む。この辺りにはプレゼントを買えるような気の利いた店なんて皆無なので、わざわざ長崎市の中心部である浜町はまのまちのアーケード街まで出向かないといけなかった。

 西浜町電停で降りると、鈴音は少しも迷わずにアーケードの方へと歩いていった。部活終わりに友達とよくこの辺りで遊んでいるらしく、彼女は人混みを掻き分けてどんどん進んでいく。基本的に出不精の俺としては、その軽やかな後ろ姿に付いていくのが精一杯だった。

 ふわふわとした気分のまま、時間が流れていく。

 アーケード内の雑貨屋をいくつか巡り、あーでもないこーでもないと議論しながらプレゼントを探し、結局百貨店の一階でハンドクリームを購入してから、屋上遊園地に並ぶレトロな遊具を眺めながらダラダラと休憩する。

 塗装の剥げかけたベンチに座って自販機で買ったアイスを頬張る鈴音の、少しだけ汗が滲んだ横顔が、何だかとても大人びて見えた。

 口の中が一瞬でカラカラに渇いてしまったのは、きっとそのせいだ。


「……今日はありがとう。付き合ってくれて」


 臆病な俺は、変なことはまるで意識していないかのような声色で続ける。


「俺一人じゃハンドクリームなんて発想出なかったし。女子がいてくれて助かった」

「確かに、俊吾ってこういうセンスないもんね~」

「ちゃんと言われると腹立つな」

「だって昔、私の誕生日会で謎の石ころ渡してきた人だし」

「いつの話だよ。たぶん小二くらいだろ」

「あれって結局何だったの? パワーストーン?」

「……覚えてない」

「なんか変な空気になって、最終的に俊吾が泣き出しちゃったよね。どういう流れでそうなったんだっけ? 家に映像とか残ってるかな」

「……くそ、絶対誰にも言うなよそれ」


 半ば本気で悔しがりながら、残りのアイスを口の中に放り込む。

 どう考えても鈴音は俺のことを幼馴染としてしか見てないし、二人きりで浜町に来てるのに全然デートっぽい雰囲気になってくれない。子供の頃の話まで出てきたらもう終わりだ。この流れから、告白に繋げる手段なんて全く思いつかなかった。

 ――まあ、今回はこれでいいか。

 どうせ、俺たちはまだ中学一年生だ。時間は無限にある。

 この関係を先に進めるチャンスなんて、いくらでも残っているのだ。

 戦略的撤退を決意したとき、鈴音がアイスの棒をゴミ箱に投げ入れながら言った。


「あ、忘れてた!」


 日陰にいるにもかかわらず、その笑顔はやっぱり直視できないほど眩しい。


「この近くにさ、ずっと行きたいところがあったんだよね」



 鈴音に先導されるままアーケードを離れ、日中は人気のない思案橋の繁華街を横切って、辺鄙な場所にある雑居ビルに入っていく。

 鈴音は、案内板に書かれた『3F コバヤシ映画堂』という表示を指さした。


「この店、友達のお父さんがやってるんだ。知ってる? 小林凛映ちゃん」

「映画研究部の人? 鈴音とクラス一緒だっけ」

「うん。あの子はきっと大物になるよ」


 俺は話したことがないけれど、小林凛映は学内でトップクラスの知名度を誇る有名人だ。

 小学生の頃から自主映画を作り続けてるとか、映画作りに没頭しすぎて授業を二週間も無断欠席したことがあるとか、一人だけ熱意がガチすぎて映像研究部の部員がみんな辞めたとか、奇抜なエピソードには事欠かない。まさか、鈴音と仲がいいとは思わなかった。

 そもそも、映画堂ってのは一体どういうジャンルの店なんだろう。

 疑念を抱きつつ、二人でボロボロのエレベーターに乗り込んでいく。鉄の箱の速度は不安になるくらい遅く、内部の老朽化が進んでいるのかモーター音がやけにうるさかった。

 三階に到着すると、古い映画のポスターが大量に貼られた煉瓦の壁が出迎えてくれた。店の入り口らしきものはどこにも見当たらない。


「この壁が隠し扉になってるんだって」


 その言葉を信じて、煉瓦の壁を手で押してみる。鈴音の言う通り隠し扉が回転し、こぢんまりとした店内が露わになった。

 狭い店内は天井までの高さの棚に囲われている。棚には映画のDVD・ブルーレイやパンフレット、映画専門誌などが雑多に詰め込まれている。中央の低い台の上は特集コーナーになっているのか、音楽をテーマにした古今東西の映画が並べられていた。

 今時珍しいけど、要するに個人経営のレンタルビデオ店なのだろうか?


「いらっしゃい。客が来るなんて珍しいな」


 店の奥のカウンターに座っていた、髭面の男性店員が話しかけてくる。やけに店内が煙たいなと思っていたら、この人が盛大に煙草をふかしていたのか。

 開口一番に自虐はどうかと思うけど、確かに俺たち以外の客は誰もいない。


「そういや、凛映のやつが今日友達来るかもって言ってたな。おたくら、海鳴中の生徒?」

「ええ、まあ……」

「悪いね。せっかく友達が来るってのに、あいつは短編の絵コンテ描くとか言って部屋に閉じこもってるから。呼んできてあげようか?」

「あ、いえ、大丈夫です!」


 俺と鈴音が幼馴染なのは周知の事実だが、さすがに二人きりでこんな店に来たことがバレたら大変なことになる。学校でイジられまくることは確定だ。


「そう? ならいいけど」


 と、恐らく同級生の父親である店主は紫煙を吐き出した。


「じゃ、ウチのシステムを説明しようか。棚にあるDVDやら本やらは買ってもいいし、レンタルしてもいいし、他に予約が入ってなければ好きな作品を奥の部屋で上映してあげてもいい。あ、上映するなら学生は一人五百円ね」

「上映? そんなこともできるんですか?」

「映画は劇場で見るのが一番だろ? 一二席しかないけど、スクリーンと音響にはだいぶこだわってるよ。ちなみにポップコーンとコーラも売ってる。コンビニで買ったやつだけど」

「えー、面白そう!」


 今日一番の楽しそうな声。


「お願いしてもいいですか?」

「いいよ。じゃ、好きな映画を選んできな」


 怪しさ満点の店主だが、鈴音の友達の父親なら信用できないこともない。ひとまず犯罪に巻き込まれる可能性はなさそうだと判断して、大人しく五百円を支払う。

 映画なんて金曜にテレビでやってる超大作しか観たことがなかったので、どの作品が面白いのかまるで判断がつかない。さりげなく恋愛映画コーナーに目を向けてみるが、さすがに露骨すぎるので思い留まる。

 結局、上映してもらうのは鈴音が選んだ作品に決まった。

 音楽映画特集のコーナーに置かれていた、〈シング・ストリート〉というアイルランド映画だ。鈴音も知らない作品らしく、DVDのパッケージだけを見て選んだとのことだ。

 アイルランドの映画が日本で翻訳されて流通していること自体初耳だったし、そもそもアイルランドが地球上のどこにあるのかもよくわからない。

 頭の中でデタラメな配置の地球儀を回しつつ、店主に案内されて奥の部屋に向かう。

 大きなスクリーンの前に、パイプ椅子が整然と並べられただけの空間だった。壁は黒い防音シートに覆われ、スクリーンの両脇には高そうなスピーカーがあり、いかにも本格的なプロジェクターが天井から吊り下げられている。

 俺たちが中央付近の椅子に座ったのを確認すると、店主は部屋の照明を落とし、代わりにプロジェクターを起動させた。


「お二人さん、これは傑作だよ。楽しんでって」


 彼の言う通り、映画はとても面白かった。

 物語の舞台は、不況に喘ぐ一九八〇年代のダブリン


(初めて聞く地名だ)


 父親が失業したせいで治安最悪の公立高校に転校させられた主人公のコナーは、一目惚れした少女を振り向かせるため、うだつの上がらない仲間たちとともにロックバンドを結成する。

 ヒロインとの恋模様や、抑圧された環境をロックで変えようとするコナーのキャラクターも魅力的だけど、特にすごいのは劇中で登場するオリジナル曲の数々だ。

 どれも踊り出したくなるくらいポップで、格好よくて、ギター担当のエイモンと一緒に曲を作り上げていくシーンは涙が出そうになるくらい眩しかった。

 青春の成分を凝縮して、高純度の音楽に練り上げたような作品だ。

 たまには映画も悪くないなと思えるくらいには俺も感動したけれど、隣で観ていた鈴音のリアクションはそれ以上だった。

 映画が終わって電気が点いたとき、彼女は目尻の涙を拭いながら幸せそうに溜め息を吐いていた。店を出て、路面電車に一〇分ほど揺られ、家へと続く長い坂道を上っている間も、一向に余韻が醒める気配はない。

 鈴音はスマホで歌詞を検索しながら劇中歌の〈Drive It Like You Stole It〉をカタカナ英語で口ずさみ、等間隔に並ぶ街灯をスポットライト代わりにして踊っていた。


「本当いい映画だったね! ちょっと私、ロックに目覚めちゃったかも」

「相変わらず影響受けやすいな。面白かったけど」

「コナーみたいにさ、無謀に夢を追いかける人って格好いいよね」

「まあそうだな」

「私、ああいう人大好きだな。憧れるよ」

「………え?」


 何気ない笑顔が向けられた瞬間、脳内に凄まじい衝撃が生じた。

 衝撃はエレキギターの音色となって脳神経を駆け巡り、映画で観た数々のシーンと混ざり合って、俺の目の前に閃きを連れてくる。


 ――そうか、そんな手段があったんだ。


 幼馴染同士というだけの、どうにも煮え切らない関係を先に進めるためには、俺もコナーのような男になればいいのだ。


「どうしたの俊吾? 急に立ち止まって」

「鈴音」

「なに?」

「……俺も、ロックに目覚めちゃったかも」


 貯金箱の中で眠るお年玉と、毎月のお小遣いの額を脳内で合算する。エレキギターがいくらするのかは知らないが、安い中古品くらいならきっと買えるはずだ。


 そこから先の行動は早かった。

 翌日にはもう長崎駅前の楽器屋に向かい、初心者向けのエレキギターを五〇〇〇円で購入。夏休みの宿題なんてそっちのけで、ひたすら基礎練習に励んだ。

 一曲弾けるようになった段階で鈴音に披露しようと考えていたのだが、YouTuberが流行りの曲を弾き語りする動画を見て考えが変わった。


「人間の動きじゃない……」


 左手が意思 を持つ別の生き物のように踊り、複雑で繊細な音色が奏でられている。こんなに上手くてもプロにはなれないというんだから、ギタリストの世界はどれだけ厳しいものなのだろう。

 急に、自分の演奏の低レベルさが恥ずかしくなってきた。


 ――鈴音を振り向かせるには、最低でもこの人くらい上手くならないと駄目だ。


 なんとなく本来の目的から離れていく気もしたけれど、俺はどんどん音楽にのめり込んでいった。帰宅部の有り余るエネルギーを全部ギターの練習に注ぎ込み、浜町のTSUTAYAで借りた色んなバンドのアルバムを聴き漁った。

 ただギターを弾くだけでは物足りなくなって、両親が家にいないときには弾き語りも練習した。やがて既存の曲をコピーするだけでは物足りなくなって、コードを爪弾きながらオリジナル曲を作ってみた。ついにはギターだけでは物足りなくなって、バイトして貯めた 金で買ったDTMソフトで本格的な作曲にも挑戦した。

 どうやら俺には、曲作りの才能がそこそこあったらしい。

 映画の主人公がバンド活動のときに使っていた〈コズモ〉という名義で動画サイトに曲を投稿しているうちに、それなりの反響が得られるようになった。顔も知らない人たちが自分の曲を聴いてくれていることが嬉しくなって、どんどん新曲を作り続けた。

 いつの間にか、俺はチャンネル登録者が五万人を超える覆面ミュージシャンになっていた。

 東京にあるメジャーレーベルの担当者から連絡が来たのは、音楽を始めてから二年後――自分が現役中学生であることをSNSで公表した直後のことだ。

 最初のうちは、何が起きたのかわからなかった。

 手の込んだ特殊詐欺という可能性も何度か疑ったほどだ。

 でも、メールでのやり取りを重ねるうちにそんな疑念も解けていった 。


 ――自分の曲は、東京の大人たちの耳に確かに届いたのだ。


 今まで感じたことのないような喜びが、身体の内側から湧き上がってきた。プロの世界なんて全然イメージできなかったけど、それでも胸の中には希望が満ち溢れていった。

 これでやっと、伝えられる。

 音楽をやっていることすら恥ずかしくて言えなかった、情けない日々ももう終わりだ。俺はメジャーデビューという無謀な夢を叶え、鈴音の恋人に相応しい男になったのだ。

 あとはもう、鈴音を近所の公園に呼び出してすべてを伝えるだけ。 

 忘れもしない八月二三日、俺は意を決して鈴音にLINE通話をかけた。

 五コール目でようやく通話に出た彼女の声は――寄る辺のない子供のように震えていた。


『……ねえ。テレビ、見た?』

「は? テレビ? 見てないけど」

『じゃあ、今すぐ点けて』

「鈴音、テレビなんか見てる場合じゃないんだ。大事な話があるからちょっと公園まで……いや、まあその、大事な話って言ってもそんな深刻なアレじゃなくて、なんというかこう、真剣な感じで来られると緊張しちゃうっていうか」

『……はあ? なに言ってんの?』

「だから、ちょっと公園でダラダラ話そうぜってこと!」

『……俊吾。今、ふざけてる場合じゃないんだよ』

「ちょっと、なに怒ってんの?」

『いいから、早くテレビ点けてよ!』

「……わかったよ。どのチャンネル見ればいいわけ」

『どれでも大丈夫。全部同じ映像を流してるから』

「はあ?」


 通話はそこで切れてしまった。

 不穏な気配を感じる。心臓の音がうるさい。

 リビングに行ってテレビを点けるだけなのに、嫌な種類の汗が掌に滲む。

 歩くのもぎこちなくなるくらい緊張しつつ階段を下り、俺はテレビの前で立ち止まった。

 震える手で、リモコンの電源ボタンを押す。


 そうして俺は、全世界同時中継のニュース映像を見た。

 三年後の五月に、直径一.二㎞の小惑星が地球に衝突するのだという。

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どうせ、この夏は終わるの書影