「だから僕は青春をやめた」――三橋俊吾 ④
「そういや、これが最後の夏休みになるかもしれないんだよな」
一学期の終業式を済ませたあと、友達の上原がしみじみと呟いた。感傷的な言葉とは裏腹に、教室の机に足を上げて紙パックのレモンティーを啜る態度はだらけきっている。
国連軍のプロジェクトのために世界中の資源が使われているので、この長崎市でも電気代が異常に高騰している。親の預金残高を気にせずエアコンの冷気を浴びることができるのは学校くらいなので、放課後もみんなダラダラと教室に残っているのだ。
今日も俺たちは、何人かで教室の後ろの方に集まって、教師に強制帰宅させられるまでの時間を怠惰に過ごしていた。
「上原、ニュース見てねえのかよ。作戦の成功確率が五〇%超えたって言ってただろ」
「……マジ? どうせ人類滅亡すると思って全然勉強してねえのに!」
「よし、こんなバカは路頭に迷っとけ」
「そんな……!」
「てかさ、成功確率五〇%なんて本当かね?」
「なー。パニックを防ぐために国連が嘘ついてんじゃね」
「……なあ、もし〈メリダ〉が本当に落ちてきたらどうするよ。このままじゃ俺、一度も彼女できたことないまま死んじゃうんだけど! えっ怖い!」
「俺もだ。そろそろ動き出さないとな……」
「お前ら、本気出せばすぐできるみたいな言い方やめろ」
「そういう大崎はどうなんだよ」
「言っとくけど、俺は彼女いたことあるからな。……小二のときに」
「そんな大昔の栄光引きずってんじゃねー!」
むさ苦しい男どもが涙ぐみながら罵り争いを始めたので、そろそろ帰り支度を始めることにする。どうやら今日は誰かの家でゲームという流れにはならなそうなので、家に帰って漫画でも読むことにしよう。
「俊吾、もう帰んの?」
上原が絡んでくる。
「うん。お前らの傷の舐め合いには付き合ってらんないからさ」
「あーあー、可愛い幼馴染がいる男は言うことが違いますねえ。今日も鈴音ちゃんとデートですか?」
「なっ……!」
別の高校に通っている鈴音のことを知っているのは、中学から一緒の上原だけだ。一〇年以上も片思いしてる幼馴染がいるなんて格好のイジられ要素なので、今の今までクラスの連中には秘密にしてきたのに。
案の定、血に飢えたゾンビどもがわらわらと群がってくる。
「……てめー三橋、その話詳しく聞かせろ」
「抜け駆けなんて絶対に許さねえぞ。場合によっちゃ殺す」
「お前だけは……お前だけは仲間だと思ってたのに」
「うるせえよ! 俺は帰る!」
「逃がすなっ! 拘束しろ!」
四方八方から腕が伸びてきて、さっきまで座っていた椅子に引き戻されてしまう。尋問官は五人。もはや、鈴音との関係を白状しなければ帰宅は許されない状況だ。
仕方なく、俺は情けないストーリーを語り始めた。
小一の頃に矢城家が近所に引っ越してきてから、ずっと家族ぐるみの付き合いが続いていること。親たちには兄妹みたいな関係だと思われていること。いつの間にか彼女を目で追うようになっていたこと。庭で花火をしているときに、七色の光に照らされる横顔を見て「好き」という感情がはっきりと芽生えたこと。中学校までずっと一緒だったけれど、今までの関係を壊してまで告白する勇気がなかったこと。
別々の高校に行ってからは、会う頻度がずいぶん減ったこと。
「早く告らないと人類終わっちゃうぞ。どうすんだよ」
「いいんだよ、別に。向こうは向こうで頑張ってるし。邪魔しちゃ悪いよ」
「お前はなんつーか、たまにそうやってバリア張るよな」
「なんの話? ……まあいいや、もう帰るから」
涼しい教室から灼熱の廊下に出て、重々しい溜め息を吐く。
今俺は、本当に重大なことは何も言わなかった。
強豪校でバスケに打ち込む鈴音に、後ろめたさを感じていること。
夢を早々に諦めた自分の弱さを突き付けられている気がすること。
好きな気持ちは変わらないのに、いつしか鈴音を避けるようになったこと。
今ではもう、面と向かって何を話せばいいかもわからなくなってしまったこと。
――でも、まあいいや。
もし仮に、万が一告白に成功したとしても、恋が成就した喜びを噛み締めているうちに世界が終わってしまう。逆に失敗したときはもっと悲惨だ。苦しさと恥ずかしさに苛まれながら、残り少ない人生をやり過ごさなければいけなくなる。
だったら、最初から答えなんて出さない方がいい。
このまま鈴音と適切な距離を保っておいた方が、精神衛生上いいに決まっているのだ。
汗まみれになって長い坂を上っていると、前方からボールが弾む音が聴こえてきた。
よせばいいのに、俺の足は独りでにそちらへと向かってしまう。
急な斜面を切り崩して無理やり作られた公園の、フェンスに覆われたバスケコートで、白いキャップを被った鈴音がフリースローの練習に励んでいた。
右手で照準を定め、左手でそれを支えて、呼吸を止めてシュートを放つ。
だむっ、しゅっ、ぼとん。
綺麗な放物線を描いたボールはバックボードの黒い枠の中心に当たり、少しだけ跳ねて真下のネットに吸い込まれ、ゆっくりとコートに落下した。
素人目には完璧に成功したように見えたのに、鈴音はあまり満足していないようだった。
ゴールの下で転がるボールを回収して、もう一度さっきと同じ動作を繰り返す。ボールが弧を描いて飛び、無事にゴールが決まる。それでも鈴音は納得しない。もう一度ボールを拾い、シュートを放つ。ゴールが決まる。もう一度。ゴールが決まる。もう一度。
いつの間にか、俺は拳を強く握りしめていた。
――なんなんだよ。
どうして、お前はそんなに頑張れるんだ。
どんなに努力したって、どれだけフリースローの成功率を上げたって、もう来年のインターハイは開催されないのに。
なあ、本当にわかってる?
直径一.二㎞の小惑星がシベリア地方に落ちて、日本も巻き添えを喰らって消滅するんだ。もしかして、長崎が西の端にあるからって油断してる? 残念だったな、一回図書館に行ってシミュレーション資料でも読んでみろよ。
俺は無駄な努力なんて意味ないと思ってるし、鈴音と違って器用だから、残りの人生をできるだけ気楽に過ごすことにしたよ。
だってそうだろ。
どんなに頑張っても、俺は物理的にプロになれない。どんなにいい曲を作っても、大勢の人に届けることはもうできない。
世界はもう変わった。能天気に夢を追いかけていた自分がバカらしく思えてくるくらい、決定的に変わってしまったんだ。
この世界にはもう、青春を賭けるに足るだけの希望は残されていない。
それなのに、どうして鈴音は。
「……今更」
思わず口に出していた。
集中の糸が途切れたのか、鈴音はようやくフェンスの外の俺に気付く。イヤホンを外し、屈託のない笑顔でこちらへと歩いてくる。
わかってる。冷静にならなきゃいけないことくらい。
好きな相手を傷つけるわけにはいかない。ここで止めなきゃ駄目だ。
けれど、理性がどれだけ警告してきても――感情の方が先に決壊してしまった。
「今更、そんなに練習して何になるんだよ」
「どうしたの、いきなり」
「……鈴音のおばちゃんから聞いたよ。インターハイ予選で敗退してから、バスケ部のメンバーはみんな部活に来てないんだろ? じゃあさ、一人だけ頑張ったって何の意味もないだろ」
ボールを小脇に抱えたまま、鈴音はきょとんとした顔でこちらを見ている。
「正直、サボってる部員の気持ちがよくわかるよ。強豪校の練習なんて絶対キツいから。頑張ればバスケが上手くなって、その結果全国に行けて、大学の推薦も狙えるって見返りがあればまだいいけど――今はもうそんな状況じゃない。
だったらもっと楽に生きようよ。難しいことなんて何も考えないでさ、その場その場で楽な方に流されていればいいだろ。どうせ報われないのに努力なんかするから苦しいんだって。あらかじめ怠惰に生きてれば、世界が終わっても『まあそんなもんか』って思えるんだって。そういうもんなんだ。人間、諦めが一番大事なんだよ」
七月の青空は腹立たしいほどに透き通っていて、陽差しの束が容赦なくコートに降り注いでいる。
なあ、そんな場所にいたら日焼けしちゃうだろ。
帽子だけ被ったって無駄だぞ。
ほら、中学の頃はあれだけ気にしてたのに――。
「わかってないなあ、俊吾は」
それだけ言って、鈴音はまたフリースローの練習に戻った。
狙いを定めて、呼吸を止めて、さっきまでと寸分違わぬフォームでボールを放る。
だむっ、しゅっ、ぼとん。巻き戻された映像のように、数分前と全く同じ成功シーンが再現される。
「……なあ」
だむっ、しゅっ、ぼとん。
「ちょっと、話聞けって」
だむっ、しゅっ、ぼとん。
「おい、鈴音?」
だむっ、しゅっ、ぼとん。
……さすがに腹が立ってきた。
怒りに任せてバッグを地面に叩きつけ、俺はフェンスの扉からコートの中に入っていく。
こちらを見向きもせずボールを弾ませている鈴音に近づき、両手を広げてシュートコースを塞いでみせた。
「……もう、邪魔だなあ」
そう呟いて、鈴音は不敵に笑った。
俺より一回りは背の低い鈴音が、さらに姿勢を低くしてドリブルを開始する。
弾んだボールが目の前に来たので、反射的に腕を伸ばす。しかしそれは鈴音が仕掛けた罠だった。死角から突然伸びてきた右手がボールの軌道を変え、俺が突き出した手はあえなく空振りに終わる。
鈴音の動きは恐ろしいほどに素早かった。
緩急をつけたドリブルで俺は左右に揺さぶられ、そのたびに足がもつれて転びそうになる。こんな素人くらいすぐに突破すればいいのに、鈴音はわざと動きを止めて、またあからさまな餌を撒いてくる。
「てめっ、ハァっ、素人で遊ぶなよ……!」
「悔しかったら止めてみなよ!」
右、右、続けて右に行くかと思ったら今度は左。
目まぐるしく進行方向が変わり、ボールも右手から左手にせわしなく移動し、もはや目で追うので精一杯になる。
もう、反則なんて知るか。
両手をできるだけ大きく広げ、俺は体当たりも辞さない覚悟で鈴音へと迫る。
それでも鈴音の余裕は崩れない。彼女は悪戯めいた笑みを一瞬だけ浮かべ、右に大きく舵を切った。
今だ、と手を伸ばした時にはもう、俺の敗北は決定している。
迂闊にも大きく開いた股の下にボールを通され、あえなく突破を許してしまう。完全に体勢を崩しながら背後に手を伸ばすが、鈴音はとっくにゴール前まで辿り着いていた。
レイアップシュートが丁寧に決められるのを、無様に尻餅をついたまま見届ける。
強烈な逆光の中でもわかるほどはっきりと、鈴音は勝ち誇った顔をしていた。
「残念、私の勝ち!」
「……はあ、はあ、はあ」
「あれ、大丈夫? 呼吸困難になってない?」
「……うる、せえよ。はあ、だいたいな、俺が西高のエースに勝てるわけないだろ。運動なんて体育でしかしないんだぞ。そこんとこ配慮しろよ」
「そんな偉そうに言う内容じゃないと思うけど」
「ああ、もう駄目だ……水……」
「あはは、情けないなあ」
たった二分で限界を迎えた俺を、鈴音は軽口を言いながら水飲み場まで連れてきてくれた。ごくごくと水分を補給し、日陰にあるベンチに座り、俺はたっぷり五分かけて呼吸を整える。
その様子を満足そうに見届けたあと、鈴音は急に真剣な顔になった。
「……本当は、私だって怖いよ。小惑星が落ちてきて人類が滅亡しちゃうなんて、怖くてたまらないよ。だけどさ、それで今までの努力が全部無駄になるなんて思いたくない。本当の気持ちを押し殺して、何でもないような振りをして残り時間をやり過ごすくらいなら、最後の瞬間までがむしゃらに足掻いていたい。私はそう思ってる」
「でも、まあしょうがないだろ。実際に……」
「俊吾って、そんなこと言う人だったっけ?」
「……なんだよ」
「『でも』とか『まあ』とか、自分自身に言い訳してるみたい」
「そんなこと……」
咄嗟に反論しようとして、しかし俺は言葉に詰まる。
国連軍のプロジェクトが失敗して、世界は本当に終わるかもしれない――でも、まあいいや。
プロのミュージシャンになる夢は、もう二度と叶わないかもしれない――でも、まあいいや。
鈴音に告白することもできずに、夏が終わってしまうかもしれない――でも、まあいいや。
でもという接続詞のその先で、俺が本当に言いたかったことは何なのだろう。
要領のいい自分を装って、世界を達観するフリをして、誰に強制されるでもなく握り潰してきた感情はどこに行ったのだろう。
本当は、俺はいったい何をしたかったのだろう。
「……鈴音は、どうしてそんな風に思えるんだ? もう世界が終わるかもしれないのに、来年のインターハイはもう開催されないかもしれないのに、どうして一人でフリースローの練習なんか続けていられるんだ?」