「だから僕は青春をやめた」――三橋俊吾 ⑤
「……私さ。中学三年間で、一度もレギュラーになれなかったんだよね」
鈴音の呟きは、言葉の意味とは裏腹に軽やかだった。
「そもそもバスケ始めたのだって、小一のとき俊吾にフリースロー対決で負けて泣かされたのがきっかけだし」
「……あったっけ。そんなこと」
「ほら昔さ、俊吾ん家に子供用のゴールがあったでしょ。台風で壊れちゃうまで、毎日そこでバスケやってたの覚えてない?」
「あー……そういえば」
「私って、根本的に才能ないんだよ。だから本当は、中学でバスケ辞めるつもりだったんだ。俊吾と一緒に海鳴高に通ってさ、文科系の部活に入るのも悪くないなって。ほら、美術部とか吹奏楽部とかも楽しそうだし」
「……どうしてそうしなかったんだ?」
「ロックに目覚めちゃったから」
「は?」
「うーん、これ聴いてもらった方が早いかな」
鈴音はバッグからスマホを取り出し、人差し指で何やら操作を始めた。
スピーカーから聴こえてきたのは、アコースティックギターの旋律だった。
簡単なコードをいくつか組み合わせただけの簡単な演奏で、録音機材がしょぼいのか音が少しくぐもって聴こえる。肝心の歌もやっぱり上手くない。英語の発音なんてもうデタラメ。中間テストで六〇点を取って喜ぶレベルの英語力で、洋楽なんかに挑戦するからだ。そもそも、素人のくせにマイナーな洋楽をアコギでアレンジしようという魂胆も気に食わない。
聴いているこっちが恥ずかしくなるくらい拙い演奏だが、胸の奥にあるどこか脆い部分を鷲掴みにされる感覚がある。
これを演奏しているとき、俺はとにかく切実だったのだ。
心の底から、音楽で何かを伝えたいと願っていたのだ。
「〈コズモ〉が最初にアップした曲。〈Drive It Like You Stole It〉のカバー。覚えてるよね? 二人で観に行った映画の劇中歌だよ」
蝉の声がうるさい。
もっと、鈴音の言葉を鮮明に聴いていたいのに。
「このあとはどんどんオリジナル曲を投稿し始めて、リスナーもどんどん増えて、気付いたらデビューの噂まで流れるようになっちゃった」
知ってるよ。
〈シング・ストリート〉の主人公と同じで、ギターをかき鳴らしているうちにカバー曲じゃ物足りなくなってきたんだ。いざ曲作りを始めてみたら意外と楽しくて、寝食も、最初の目的さえも忘れてのめり込んでいって――。
曲を停止させて、鈴音は穏やかに微笑んだ。
「こんなに近くにいる人が頑張ってたらさ、私もやらなきゃって思うでしょ? だから、中学で一度もレギュラーになれなくても、そんなの関係ないから強豪校に行こうって決めたんだ」
「そっか。……って、え?」
「最初から知ってたよ。〈コズモ〉の正体が誰なのか」
「えええええっ⁉ なんで⁉」
「……いや、私が近所に住んでるの忘れてない? 俊吾の家から、いっつも弾き語りの音が聴こえてたんだけど」
「うわ聞きたくなかった……恥ずかし……」
思わず絶叫しそうになる。弾き語りしていた曲の中には、中学生の自分から見ても青臭すぎてボツにしたラブソングなんかも多分に含まれているのだ。鈴音も歌詞までは聴き取れなかったと思いたいが、それは希望的観測すぎるかもしれない。
「……なあ鈴音。その記憶、ちょっと消してもらうわけには」
「無理だよ」
「頼む! そこを何とか!」
「俊吾って、要領いいフリしてるけど実はバカだよね」
そう言って鈴音は笑った。腹を抱えて盛大に笑った。俺も釣られて笑った。
確かに、俺はバカだ。バカで卑怯な臆病者だ。
そんなことに、世界が終わりそうになって初めて気付いた。
「で、質問の答えだけどさ」
目尻の涙を拭いながら、鈴音は続ける。
「私がフリースローの練習を続けてるのは、きっと地球が救われるって信じてるからだよ。だって、こんなに不器用な幼馴染が奇跡を起こしたんだよ? 地球にできないわけがないよ」
「……なんだよ、その理論」
「だから俊吾も、私のことを信じてみてよ。きっと地球は救われる。私はインターハイに出場できるし、俊吾はプロのミュージシャンになれる。だったらもう、ダラダラ過ごしてる余裕なんてないはずだよね? みんながサボってる今のうちに、頑張って差を広げておこうよ」
ああ、と思った。
俺は、この温かさを好きになったんだ。
言っていることは無茶苦茶なはずなのに、なぜか自信満々な言葉が心を緩ませてくる。無数の星が散る瞳が、有無を言わさずこちらを明るい場所へ連れ出してくれる。フリースローの練習をしているときも、家の庭で花火をしているときも、新品の麦わら帽子を被って海の見える坂道を下っているときも。
いつだって、鈴音の笑顔は温かい光で縁取られていた。
結局俺は、もっともらしい言い訳を重ねていただけなのかもしれない。
傷つかないように予防線を張っていただけ。
逃げていただけ。勝負を放棄していただけ。
でもという接続詞のその先には、本当は、もっと往生際の悪い言葉が続いていたはずだ。
国連軍のプロジェクトが失敗して、世界は本当に終わるかもしれない。プロのミュージシャンになる夢は、もう二度と叶わないかもしれない。鈴音に告白することもできずに、夏が終わってしまうかもしれない。
――でも、絶対に諦めてたまるか。
もう、臆病者でいることにも飽きた。
これから先は、絶対に自分の感情からは逃げないと決めた。
「……鈴音。あのさ、大事な話があるんだけど」
「なに?」
「鈴音に伝えたいことがある。それを、曲にして聴かせたいんだ」
我ながら痛いことを言っているなと思ったけれど、鈴音は真面目な顔で頷いてくれた。
「……待ってるよ。私も、俊吾の曲をまた聴きたい」
七月の陽射しが鈴音の輪郭を彩って、直視したら目を灼かれそうなほどに眩しくなる。
世界がもうすぐ終わることとか、夏はもう二度と来ないこととか、そういう悲観的なことの全てがどうでもよくなる。
奇跡を信じてみたい気分になる。
「俊吾にも、ようやくロックの精神がわかってきたのかな?」
「音痴のくせに偉そうに」
「おや? また無様に尻餅つかされたいんですか~?」
「……鈴音、さっきの誰にも言うなよ」
「そっちの態度次第」
それから俺たちはまた笑い、昔みたいにくだらない話を続けた。
帰ったら曲を作ろう。徹夜してでも作ろう。
ギターには随分触ってないから、チューニングもかなり狂っているはずだ。最初のうちは指先も覚束ないだろうから、まずは簡単な曲で指慣らしをしてみるか。
さて、どんな曲を作ろう。
今までラブソングを完成させたことはないから、少し緊張する。
俺と鈴音にだけわかるメッセージを盛り込むのも悪くないアイデアだ。正直照れ臭すぎるから、「好き」とか「愛してる」とか、そういう直接的な語彙はなるべく使わないようにしよう。
じゃあ、どんな風に気持ちを表現する?
この感情を何に喩える?
どうすれば鈴音の心に響かせることができる?
「……ふふ」
「なにニヤニヤ笑ってんの? 気持ち悪いよ」
「うるさいな。いいから待ってろよ、すげえ曲作ってやるから」
「うん、楽しみにしてる」
数分前よりも確かに成長した自分から、どんな曲が生み出されるのかを想像しただけでわくわくする。
本当に久しぶりの感覚だ。今なら何だってできる気がする。
だって、これは俺の人生だ。どこへでも行ける。
この夏が終わってしまう前に、思い切りアクセルを踏み込めばいい。