「初恋は意外と死なない」――初瀬歩夢 ②
彼女のことを、僕はよく知らない。
わかっているのは、彼女が僕と同じ海鳴高の制服を着ていることと、制服のリボンの色が青なので恐らく三年生であることと、白金色の髪と翡翠色の瞳がとても美しいことと、場末のゲームセンターに出没する凄腕のガンマンであることくらいだった。
部室を飛び出したあと、名前も知らない彼女のことを思い浮かべながら、うだるように暑い坂道を下っていく。
日本の西の端にある長崎は日が暮れるのも遅く、一八時でもまだ太陽が殺傷能力を保っている。コンビニで買ったソーダ味のアイスを気休め程度に舐めながら、僕の両足は自然と路面電車の駅近くにあるゲームセンターに向かっていた。
その店は昭和初期からあったんじゃないかと疑いたくなるくらいボロボロな外観をしていて、看板に書かれている店名はかすれて読めなくなっていた。しかも、置いてあるゲームは何世代も前のものばかり。
せっかく駅前にあるのに、僕はこの店が繁盛している光景を一度も見たことがない。
だいたい、この蒸し暑い中、冷房もロクに効いてないゲームセンターで遊ぼうとする物好きなんてほとんどいないはずだ。
恐る恐る中に入って、格ゲーに興じるフリをしながら店の奥を覗き込む。
やっぱり彼女は、すでにバラックM三一の銃身を画面に向けていた。
ジャン・バラックス社製の
名前も知らない高校の先輩が、凄まじい速度で迫りくるゾンビどもに二度目の死を与えていく様子をこっそりと見守る。
彼女の動きは、信じられないくらい鮮やかだった。
一八発を撃ち終わると足元のペダルを踏んで遮蔽物に隠れ、銃身のスライドを引いて手早くリロードを済ませると、再び亡者たちに鉛玉の雨をプレゼントする。
銃弾の一発一発が、激しく動き回るゾンビたちの頭部を正確に捉えていくのが凄まじい。古い筐体だからセンサーの感度も悪いはずなのに。たぶん、引き金を引くまでの一瞬でそのズレを計算して照準を合わせているのだろう。
まさに神業だ。
そうとしか言いようがない。
口許に狂暴な笑みを浮かべて銃を乱射する彼女は、〈バイオハザード〉のアリスのように苛烈で、〈キル・ビル〉のザ・ブライドのように個性的で、〈ベイビーわるきゅーれ〉のまひろとちさとのように愛らしくて、〈アトミック・ブロンド〉のローレンのように美しかった。
ごくり、と僕は生唾を呑み込む。
いつの間にかソーダ味のアイスが溶けて、無防備な右手がべたべたになってしまっていた。
我ながら気持ち悪い。気になる女の子に声もかけられず、無様な姿で遠くから眺めているしかないなんて。
トイレで手を洗って戻ってきたときにはもう、彼女の戦いは終わっていた。
彼女はようやく店内の暑さを思い出したかのように手で顔を仰ぎ、足元に置いていた三ツ矢サイダーを美味しそうにごくごくと飲んだ。それから大量の缶バッジやキーホルダーが取り付けられたスクールバッグを持ち上げ、汗を拭いたタオルを首にかけたまま、夕焼けに染まる店の外へと歩いていった。
その後ろ姿は、人知れず世界を救ったあとの英雄のように見えた。
「いったい何者なんだ……?」
僕の知る限り、彼女は毎週のようにこのゲームセンターに来ては、なぜかチープなシューティングゲームに没頭している。
ゲームの名前は〈ZOMBIE SHOOTER〉。
なんて捻りのないネーミングだ。
ストーリーはもっと大雑把。何らかの理由で荒廃したロサンゼルスを舞台に、人類最後の生き残りであるガスタとノエルの二人が、迫りくるゾンビどもを駆除しながら街の外を目指すというありきたりなものだ。
グラフィックがやけに粗く、ゾンビの造形がいまいち怖くないのは二〇年前のゲームだから仕方ないにしても、誰も満足に遊べないほど難しいのは流石にいただけない。
ゾンビなのに俊敏で予測不能な動きをする雑魚敵、頭部以外はどこを撃っても死なない鬼設定、何度もプレイして身体で覚えなければ回避できない奇襲の数々、一八発撃つたびにいちいちリロードしなければならない煩雑さ、開発者の悪ふざけとしか思えないほどボロボロな主人公の耐久力、おまけにコンテニュー不可という嫌がらせのような仕様――原因を一つずつ挙げればキリがないが、とにかくこのゲームの難易度は狂気じみている。
あの少女が帰ったタイミングを見計らって僕も何度かプレイしてみたが、第一ステージすらクリアできた試しがない。
今日も同じで、画面外から突然飛んできたゾンビの腕に引っ掻かれてめでたくゲームオーバーを迎えた。
暗くなった画面には、『TOP SCORE PLAYERS』の表示。
一位から一〇位までのランキングは、すべて〈Alice〉というプレイヤーが独占している。恐らく、これが彼女のハンドルネームなのだろう。
その彼女にしたって、全面クリアまでは達成できていないらしい。
「……くそ。あの人、なんでこんなのにハマってんだよ」
僕は彼女のことを何も知らない。
見るからに青春を謳歌していそうな彼女が、もうすぐ世界が終わるというのにこんなクソゲーに熱中している理由なんて想像できるはずもない。そんな彼女に話しかける口実なんてもっと知らない。
どうせ、彼女の名前すら聞けないままこの夏は終わっていくのだろう。
計三百円が筐体に吸い込まれた頃には、もう陽が暮れ始めていた。
そろそろ帰らないと。自販機で買ったコーラで喉を潤し、少しも涼しくなっていない街へと這い出る。
またあの坂を上らないといけないのか、と憂鬱になりながら一歩目を踏み出した瞬間、後ろからいきなり声をかけられた。
「よう初瀬。奇遇だな」
弾かれたように振り返る。
そこには、さっき部室で的外れなアドバイスをかましてきた、クラスメイトの菅谷がいた。
僕が硬直して動けないのをいいことに、菅谷は馴れ馴れしく肩を組んでくる。
「ふーん、なるほどねえ……。最近こいつガンアクションものばっか書いてねえかと思ってたら……へー、あの人がモデルだったわけか」
「な、何の話だよ!」
こいつ、まさかずっと見てたのか?
「おお、この期に及んでどう言い訳するつもりかな?」
「うるさいっ! 本当に心当たりがないんだよ!」
「そんな態度でいいのかな? 後悔しない?」
「何が言いたいんだよ。僕はもう帰る! 我が家は門限が厳しいんだ!」
「あの人の名前、教えてあげてもいいけど?」
「は……?」
なんでこいつが知ってるんだよ。向こうは一学年上の先輩だぞ。
彼女持ちだと人脈まで広くなるのか? え、まさか菅谷の彼女があの人ってこと?
はあ? わざわざ自慢しにやってきたのか? なんだこいつ性格悪すぎ――――
「……いや、なんちゅう顔してんだよ。殺気が漏れ出してるじゃん」
また見当外れなことを言いながら、菅谷は呆れたように笑った。
「安心しろって。俺の姉貴が、あの人と同じクラスってだけだから」
「……どうして僕が、それを聞いて安心しなきゃいけないんだよ」
「素直になれって。お前の言う通り小惑星が落ちてくるなら、これが最後の夏になるかもしれないんだぞ?」
それから菅谷は、姉経由の情報を一方的に語り始めた。
彼女の名前は浮橋アリス。海鳴高校三年四組。帰宅部。離婚したお父さんがアメリカ人で、八歳まで向こうで暮らしていたとのことだ。
当然のように英語はペラペラ。スペイン語も日常会話レベルならできるトリリンガルだが、学校の成績はそこそこ。どちらかというと座学よりも身体を動かす方が好きで、教室の机の中にはいつもお菓子の袋が保管されているタイプ。やっぱり友達は多いらしい。
「ああ、肝心な情報を言い忘れてた」
振り払おうとする僕を無視して、菅谷が耳元で囁いてくる。
「浮橋さん、今彼氏いないらしいぞ」
だからどうした、と口でも言いながらも、心臓の鼓動はやけにうるさかった。
海鳴高の夏休みなんて、正直あってないようなものだ。
終業式の二日後から始まる夏課外で、午前中だけとはいえ毎日普通に授業があるのが原因だ。この悪習があるのは九州だけらしいとか、どうやら夏目漱石が諸悪の根源らしいとか、無断欠席しても実は怒られないらしいとか、真偽不明の噂は色々ある。
けれど、他に娯楽もない今はほとんどの生徒がちゃんと出席している。もちろん、無料で冷房を浴びるために。
僕もまた、そういう無気力な生徒の一人だった。
学校の授業なんてほとんど頭に入ってこない。
数学の公式も世界史の重大事件も、浮橋アリスに彼氏がいないという事実に比べれば些事にすぎないのだ。
……というか、あの人アリスっていうのか。ハンドルネームのまんまじゃないか。
「初瀬くーん。部室で昼飯食べていい?」
三限までの課外授業が全て終わった瞬間、前の席の菅谷が上目遣いで頼んできた。
こっちはそれどころじゃないのに。
「僕は最近忙しいんだよ。部活なんかやってる場合じゃない」
「じゃあ部室開けてくれるだけでいいからさ~」
「そんなの無理に決まってる」
「マジかよ。気兼ねなく冷房使えるのあそこだけなのに……」
どうやらこいつには、大人しく帰宅する選択肢はないらしい。
「……前みたいに、陽が暮れるまで教室に残ってればいいだろ」
「それ先生に怒られて禁止されたんだよ。頼むよ~熱中症なっちゃうよ~」
「じゃあ他の部のやつに頼み込めよ。僕は帰る」
最近忙しいなんて大嘘だし、帰ったところでやることなんて何もない。
ただ単に、小説を書けるような精神状態じゃないというだけだ。
彼氏がいない。彼氏がいない。浮橋アリスには彼氏がいない――僕の粗悪な脳味噌の中では、そんな情報で渋滞が起きている。
いいから、冷静になれよ。
あの人に彼氏がいないから何だって言うんだ。
たとえ今席が空いていたとしても、そこに座る権利を得るためには数多の試練を潜り抜けなければいけないのだ。容姿に恵まれているわけでも、何か飛び抜けた才能があるわけでもなく、そもそも現時点で知り合いですらない僕にはエントリー権すら与えられていない。しかも、ライバルは山のようにいるはずだ。
放課後すぐ家に帰っても悶々とするだけなので、僕は珍しく路面電車に乗って
駅を降りてすぐのマクドナルドで昼食を済ませ、TSUTAYAで好きな作家の小説を買って、そのあとは特に目的もなくアーケードをウロウロする。いつも試食を配っている岩崎本舗の角煮まんじゅうを頬張りながらしばらく歩くと、脇道にゲームセンターを見つけた。
ここはちゃんと冷房が効いているし、何より筐体も新しいものが揃っているので、店内は暇を持て余した若者でごった返している。あの場末の店とは大違いだ。
見込みのない恋について連想しそうになったので、僕は慌てて踵を返す。
――もういいよ。この辺りで現実に戻ろう。
どうせ僕はあの人の彼氏にはなれないし、そもそも名前を認識してもらうことすらできないだろう。この恋はもう死んだも同然。結末なんて最初から決まっている。
でも、人生って元来そういうものだろ。
小説を書くには『体験』が必要だって菅谷が言っていたけれど、この淡い失恋だって立派な体験なんじゃないか? それに、成就した恋ほど語るに値しないものはないんだ。あの森見登美彦だって小説にそう書いてる。
どうせ小惑星が落ちて世界が終わるのだから、こんな感傷もいつかは忘れる――言い訳めいた思考がそんな段階まで到着したところで、僕はふと思い立った。
「……映画でも観るか」
小説を書くことと、小説を読むことの次に大好きなのが映画だ。
最低でも九〇分は強制的に物語の中に引きずり込まれるので、余計なことを考えたくないときにはもってこい。特に今日は、頭を空にして楽しめるアクション映画が観たい。
映画館に行く金はないし、そもそも去年くらいから新作映画はほぼ作られてないし、レンタルDVDを再生する機械は家にないし、ネットが使えないので当然サブスクもない。だから、目的地はおのずと一つに絞られる。
繁華街の外れの外れにある雑居ビルに、〈コバヤシ映画堂〉という店がある。
煙草臭い店内に陳列された映画のDVDをレジに持っていくと、予約が入ってなければ奥の部屋で上映してくれるという謎システムだ。いつ行っても客は僕一人しかいないので、たぶん慈善事業のようなスタンスでやっている店なんだろう。
「いらっしゃい。客が来るなんて珍しいな」
いつもの髭面の店主が、面倒臭そうに声をかけてきた。この店にはもう三回くらい来ているはずだけど、一向に顔を覚えられる気配がない。
「今日、上映の予約は入ってますか」
「今日も明日も明後日も、そんな予約は一つも入ってないよ」
「……大丈夫ですか、経営とか」
「はは。どうせ世界が終わっちゃうのに、金なんか稼いでも意味ないでしょ」
大人が唐突に繰り出す自虐への対処法なんて知らないので、曖昧に笑ってやり過ごす。僕も人のことは言えないけれど、この時代を生きる人々はどこか諦念に塗れている。
気を取り直して、映画探しだ。
一〇分もいれば服に煙草の匂いが付きそうな店だけど、取り揃えている映画のセンスだけはすごくいい。
当然のようにA24スタジオの作品は網羅されているし、クエンティン・タランティーノ、エドガー・ライト、デイヴィッド・リーチ、白石和彌、今泉力哉、阪元裕吾あたりの監督作ももちろん全作品揃っている。頭の中が覗かれてるんじゃないかと思うくらいドンピシャなラインナップだ。
僕があまり観ないジャンルの作品も邦画・洋画問わず色々と揃っているので、店主は相当な映画好きなのだろう。
でも今は、もっと大味なバイオレンス映画の気分。
「やっほー! おじさん、今日は凛映ちゃん来てる?」
いきなり、天真爛漫な少女の声が店内に響き渡った。
棚で隠れて姿は見えないけれど、まさかこの店の常連なのだろうか?
「ついさっきまではいたんだけどなあ。なんか、素材撮影してくるとか言って街に繰り出しちゃったよ」
「あはは、あの子らしいな~。まあいいや、なんか映画観ていっていい?」
「いいよ。今のところ予約はないし……」
いや、さっき僕が口頭で……。
思わず口を挟もうとしたとき、店主がようやく僕の存在を思い出したようだ。気まずそうに咳払いをして、あろうことか「早い者勝ちだよ」と言い放った。
冗談じゃない。
こっちは初めての恋を早々に諦めたばかりで、人生最悪の気分なんだ。銃声と血飛沫が踊り狂うバイオレンス映画を大画面で観ないと感情を立て直せそうにない。今来た少女は常連客なのかもしれないけど、ちょっとここは引き下がってほしい。
店内のどこかにライバルの気配を感じながら、パッケージの海を泳ぐ。眼球の速度を最大化させて、今の気分に最適な映画を探した。
難しいことは何も考えたくないので、観たことある作品の方がいいな。
何度も観て、ほとんど筋書きを覚えてしまってるようなやつがいい。
店の中央付近に、店主おすすめ映画のコーナーを見つけた。
どうやら今日はゾンビ映画特集らしい。
ホラーはあんまり好きじゃないけど、ゾンビ映画ならまあいいかな。ああいうのって半分お祭りみたいなもんだし、そこまで怖くはないはず……。
「……あれ」
古今東西の隠れた名作の中に、この店にしては珍しい超大作が紛れ込んでいた。
〈バイオハザード〉。
言わずと知れた日本の大人気ゲームが原作で、一昔前は毎年のように地上波ゴールデンで放映されていた作品だ。続編の出来については色々言われてるけど、シリーズ一作目はけっこう面白かった気がする。
ミラ・ジョヴォヴィッチが演じる主人公の名前は確か――アリス。
アリス。浮橋アリス。
どうしよう、アリスじゃないか!
全然忘れることができてなかった名前を連想してしまって、僕はきつく目を閉じた。
忘れろ。早く忘れろ。
どうせ、自分の人生には何の関係もない人だろ。
だから、早く忘れろって――。
脳内に拡散される言葉とは裏腹に、僕の手は独りでにパッケージへと伸びていた。
そして――横から突然飛び出してきた、綺麗な手とぶつかり合う。
「……あ」
「……あ」
間抜けな声が二人分響き、僕の時間は完全に停止する。
同じ映画のパッケージに手を伸ばした常連客――白金色の髪と翡翠色の瞳がとても美しいその人は、今まさに僕が忘れようとしたはずの相手だった。



