「初恋は意外と死なない」――初瀬歩夢 ③

 浮橋アリス。

 菅谷のお姉さんのクラスメイトで、アメリカと日本のミックスで、嫌でも目を引くほど美しい容姿をしていて――場末のゲームセンターに出没する凄腕のガンマン。

 不可抗力で手と手が触れ合っていることに気付き、慌てて引っ込める。彼女は僕が自分と同じ高校の制服を着ていることを認識したらしく、驚くほど早く警戒を解いた。


「あれ、海鳴高の子? ネクタイが緑ってことは~二年生だ!」

「…………………………ハイ」

「へー! この店はよく来るの?」

「…………………………ハイ」


 なっ、この人まさか……!

 ――コミュ強だ……!

 初対面の相手に臆することなんて皆無。親しみやすさ全開で話しかけてくるし、かといって強引に距離を詰めてくることもなく、こちらが気まずくならないよう適度に気を遣ってくれているのもわかる。

 僕よりも少し背の高い彼女を見上げながら、なんだか納得してしまう。


 冷静に考えたら当然だ。

 この人は帰国子女。想像でしかないけれど、幼い子供が異国の環境に適応するというのは、相当な対人関係スキルが要求されることなのだと思う。自分の世界に閉じこもって小説ばかり書いていた僕とは、ちょっと場数が違いすぎる。


「あのさ、この店のシステムって知ってる? 映画を持ってくと、奥の部屋で上映してくれるってやつ」

「…………あ、はい、なんとなくは」

「ここはひとつ、相談なんですが……」


 浮橋アリスが、内緒話のようなトーンで囁いてくる。


「もしよかったら、その映画一緒に観ない?」

「……え?」

「先輩のあたしが奢ってあげるからさ。どう?」

「…………え、でも」

「大丈夫大丈夫。映画館行くより安いし」


 ――ええええええっ!

 なんだかおかしな展開になってきた。

 いや、確かに、同じ映画なら一緒に観た方が効率的なのはわかる。だけど普通、初対面の相手をこんなスナック感覚で誘うものだろうか?

 もしかして、向こうも僕の存在を認知していたり……?


「あ、ごめんね一方的な感じで。家で観る派だったりする?」

「い、いえ! そんなことないです!」

「そっか。じゃあおじさんに言ってくるね」


 夏の陽射しの下で、ふっと咲き零れるような笑顔だった。

 その威力に当てられているうちに、いつの間にか映画が始まっていた。

 画面に集中できたのは、主人公がバスルームで目覚めるシーンまで。あとはずっと、パイプ椅子を一つ挟んだ隣に座る浮橋アリスに意識が吸い寄せられていた。

 長い脚を組み、真剣な顔で画面を見つめる彼女の横顔には、さっきまでの明るい笑顔とはまた別の何かが含有されている気がした。

 きっとこの人には、僕の知らない一面がたくさんあるんだろう。

 それらを知る手段が思いつかないことが、こんなに焦燥を掻き立ててくるとは思わなかった。本当に、どうして僕はこんな臆病な性格に生まれついてしまったんだろう。


 ――それにしても、相変わらず綺麗な人だな。


 何らかの手段で時空が歪んで、彼女が銀幕の世界に突然紛れ込んだとしても、余裕で様になってしまう気がした。むしろその魅力で他の役者たちを食ってしまって、そのままアクション超大作の主役に抜擢されてもおかしくない。

 僕は、そんな未来が訪れる可能性は絶対にないという事実に憤った。

 浮橋アリスと、浮橋アリスの素晴らしい可能性とは何一つ関係のない宇宙の果てから、いきなり小惑星が飛んできて全てを終わらせるなんてあまりにも理不尽すぎる。


 ふざけるなよ。ちょっとは空気読め。

 世界なんか終わっても別に構わない。

 でも、この人から未来を奪うことだけは絶対に許せないぞ。


 暗黒の中を泳ぐ巨大な無機物に呪詛をぶつけているうちに、映画はエンドロールを迎えてしまっていた。

 僕はここで、残り時間の短さをはっきりと自覚する。

 この映画が終わってしまえば、僕には浮橋アリスの隣にいられる理由がない――。

 エンドロールの二曲目が終わるまでに、何か別の口実を見つけなくちゃいけない。


 上映室の電気が点き、店主が「もう店閉めるから帰って~」と言ってきたので、大人しく店を出るしかなくなった。

 エレベーターの中までは映画の感想で繋ぐことができたけれど、九〇分間ほとんど集中できてなかったので限界がある。案の定、雑居ビルを出る頃には会話が途切れてしまった。

 長崎の街は夜の入り口に差し掛かっている。橙と藍のグラデーションが水彩画のように空を染め上げ、東の端では星が控えめに瞬き始めている。

 そんな幻想的な光景と同じくらい、浮橋アリスの笑顔は美しかった。

 それはそうとして――どうして僕は今、泣きそうになっているのだろう。


「じゃ、あたしん家こっちだから」

「……あ、お疲れ様です」

「うん。今日はありがとうね~!」


 そりゃそうだよな。

 たまたま映画を一緒に観ることになって、それで親睦が深まって、また次も同じ店で待ち合わせを――なんて展開があるはずがない。世界はそんなに都合よくできていない。

 僕たちの関係はエンドロールの二曲目と一緒にフェードアウトする程度の、お互いに自己紹介する必要もないくらい希薄なものでしかないのだ。

 まあ、それでいいよ。

 だって、現実ってのはそういうものなんだろ。


 ――これが最後の夏になるかもしれないんだぞ。


 不意に、何日も前に聞き流したはずの台詞が脳内に反響する。

 どうして、菅谷なんかの言葉でハッとさせられなきゃいけないんだ。

 ……でも、そうだよ。確かにその通り。

 大人しく認めるよ。

 叶わない夢を見続けることが怖いから、僕は現実に逃避していたんだ。

 リアリティを重視してるとか言い訳すれば、自分の想像力のなさを誤魔化せるから。自分の頭の中から生まれてくるショボいアイデアに、いちいち落胆しなくても済むから。

 知らないことや怖いことから、達観したフリをして逃げる口実ができるから。


「……あ、あの!」


 うまく形容はできないけれどとにかく心地よい香りを漂わせて、浮橋アリスがこちらを振り返る。

 心の準備が整う前に、僕の声帯は震えていた。


「実は僕、あなたのこと知ってました! ほら、石橋駅前のゲーセンで、いっつも〈ZOMBIE SHOOTER〉プレイしてますよね? 実は僕も常連で、いつもは格ゲーばっかやってるんですけど、なんというか、視界の端にあなたの姿はいつも捉えていて……」


 考えるな。くだらない現実なんかで取り繕うな。

 ただ、伝えることだけに集中しろ。


「ランキング、全部あなたが独占してますよね。あんな難しいゲームで、本当に神業だと思います。……だけどまだ、最終ステージまでは一度も到達できてない」


 あれ? なんかコレ大丈夫か?

 なんだか、会話の流れが変になってる気が……。


「だからその、僕と勝負しませんか。先にあのゲームをクリアした方が勝ちです」


 違う違う、なんで僕はこんな提案を……!

 後悔したとしてももう遅い。

 浮橋アリスは数秒間きょとんとしたあと、好敵手を見つけた戦闘民族のような笑みを口の端に浮かべていた。


「いいね、面白い。勝ったら何が貰えんの?」

「……ええと、映画を一本奢るとかはどうでしょう」

「よし、乗った」


 これは、上手くいった……のか?

 よくわからないけど、彼女が僕の方を向いてくれただけで良しとするか。


「あ、そういや自己紹介してなかったよね。あたしはアリス。有限会社の『有』に、サガン鳥栖の『栖』でアリス。きみは?」

「初瀬歩夢です。歩く夢と書いてアユム」

「いいじゃん。なんかめっちゃポジティブな名前!」


 だからこそ、名前で呼ばれるのが好きじゃないんだけど。


「……そっちこそ、アリスって漢字だったんですね。今まで英語名だと思ってました」

「ん? ? 会ったことあったっけ?」

「あ、いや……」

 さっそくボロが出た。

「ほ、ほら! ランキングのプレイヤー名が〈Alice〉だから」

「ふうん? まあいいや、これからよろしくね~」


 胸の中は、勇気を振り絞ったあとの充足感と、それと同じ割合の不安で満たされていた。

 大丈夫か僕? こんな勝負を始めちゃって……。

刊行シリーズ

どうせ、この夏は終わるの書影