僕を振った教え子が、1週間ごとにデレてくるラブコメ 1

8月・2 僕が家庭教師になった日 ③

 小雨のうちにバス停まで行けるかと思ったけど、甘かった。

 雨脚はまたたく間に強くなって、通りを激しく打ち鳴らし始めた。

 やむを得ず、僕はシャッターが下りた店舗のひさしの下で雨宿りをしている。

 雨雲に覆われた空を見上げていると、すぐ近くで立ち止まる足音がした。

 雨宿りに来たのだろう。場所を空けようと相手のほうを見ると、傘をさして僕を見つめている彼女がいた。

「傘、持って来なかったんですか? 天気予報で雨になるって言ってましたよ」

 芽吹めぶきさんは濡れた僕のシャツを見ながら言う。

「天気予報は見てなかったな。こんなに早く降るとは思わなかったし」

若葉野わかばのさん、ほんとに勉強以外のことは無関心ですよね」

「別に、そんなことないと思うけど……。勉強以外のことだって考えてるよ。例えば……」

 言いかけて、言葉が続かない。

「例えば、なんですか?」

「…………」

「ほら、やっぱり勉強のことしか考えてないじゃないですか。全然変わらないなあ」

 昔を思い出したのか、懐かしそうに笑いながら芽吹さんは傘を閉じ、僕の隣に立った。

「若葉野さんって、自習室で呼びかけても気づかないほど、いつも集中していて、感心していました。しかたなく勉強するんじゃなくて、勉強すること自体を楽しんでるというか。その姿に、大切なことを教えられた気がします。わたしにとって、若葉野さんこそが本当の先生だったんです。いえ、今でもそう思っています。だから、さっきみたいな言葉は聞きたくありませんでした。『勉強なんか、なんの意義もない自己満足』って」

 芽吹さんは悲しそうに目を伏せた。

「あのころの先生は、どこへ行ってしまったのですか?」

「その言葉は確かに言いすぎだね。もちろん立派な目的を持って勉強してる人もたくさんいる。でも僕には目的なんてない。いい成績を取ればみんなから優等生として認められる。僕は、そんな自己満足だけで勉強してるつまらない人間だ」

「そう、ですか……」

「こんな回答しかできなくて、ごめん。せっかく来てくれたのに」

「……わたしは若葉野さんの――先生の言葉で、受験に立ち向かえる勇気がほしかった。さっきの言葉を嘘だと言ってもらって、本当は受験を乗り切った先に希望があるって、教えてほしかったんです」

 芽吹さんは顔を上げ、空を見上げた。

 激しく降っていた雨が弱まっている。雲の切れ目からうっすらと日の光が差し込んでいた。

「これなら歩けそうですね。失礼します」

「うん。道路が濡れてるから気をつけて」

「それと、先生。……先生は自分で思ってるより、面白い人だと思いますよ」

「えっ? どうして?」

「本当につまらない人だったら、勉強する意義に悩むことすらしないと思います。――それじゃ、今度こそお元気で!」

 最後に優しくほほ笑むと、芽吹さんは背を向けて歩き出す。

 僕が、面白い人間? つまらない人間じゃなくて? そんなふうに言われたのは初めてだ。

「芽吹さん!」

 思わず彼女を呼び止めた。

「芽吹さんはどうして、家庭教師を雇ってまで受験したいの? もっと楽に入れる高校はたくさんあるはず! 何を求めて合格を目指すんだ!?」

「わたしは……わたしは、証明したいんです。自分の力で前に進める力があるってことを」

「証明?」

「自分で志望校を決めて、自分の力で合格して、何かをやり遂げる力があるんだってことを、自分自身で確かめたいんです! 自己満足かもしれません。なんの役にも立たないかもしれません。でもそれを証明して、自分の力を知りたいんです!」

 振り向いた彼女の瞳につらぬかれるようだった。

 彼女の、こんな意志のこもった表情を見たのは初めてだった。

 自分の力を知るために受験に挑む……。

 そうかもしれない。世の中に対し、自分の力がどれだけ通用するのか、それを知るために試験に挑むのかもしれない。

 失恋して自分の価値を信じられなくなった僕は、自分自身のことなど知りたいとも思わなくなっていた。勉強して自分の力を世に問うことに、意義なんて見いだせなくなっていた。

「でも……わたしには、力が足りない。一人で勉強して実力を証明できるだけの力が、わたしには足りないんです……」

 くやしそうに唇を震わせる姿を見た瞬間、僕は確信した。自分が何をするべきか悟った。

 迷いながらも、一人で孤独に受験を戦っている彼女を支えたい。

「さっき断ったこと、撤回してもいいかな。家庭教師の依頼、引き受けさせてほしい」

「どうしたのですか? 急に」

「僕も確かめたくなったんだ。自分に何ができるのかを。芽吹さんの家庭教師として役立てば、勉強の意義を思い出せるかもしれない。そう考えたんだよ」

「それじゃあ、本当にわたしの家庭教師になってくれるのですか!?」

「またあのときみたいに勉強しよう。僕は受験勉強が終わったから、前よりも集中して芽吹さんの勉強を見てあげられるはずだ」

 雲の間からのぞく太陽のように、芽吹さんの表情が明るく輝いた。

「嬉しい! どうかよろしくお願いします、先生!」

「新米の家庭教師だけど、芽吹さんが志望校に合格できるよう、力を尽くすよ」

 雨はあがって、道路の水たまりがキラキラと西日を反射させている。

「そうと決まれば忙しくなるな。まず学校に許可をもらわないと」

「先生にとっては、アルバイトになるんですよね。許可を得るの、大変ですか?」

時乃崎ときのさき学園の校則だと、アルバイトをするときは、その仕事が学業の負担にならず、かつ自分自身の身に付くものであることを申請書に書いて、提出しなきゃいけないんだ」

「そうなんですね……。すみません、手間をかけさせてしまって」

「心配ないよ。僕自身のためになると思ったから引き受けたんだ。夏休み中でも受け付けてくれるはずだから、申請書を書くのにちょうどいい」

 二人で並んで歩きながら、すっかり明るい表情になった芽吹さんの横顔をちらっと見る。

 まさか、また彼女と勉強をする日が来るとは思わなかった。

 しかし時が戻ったわけじゃない。

 僕の告白は、そして失恋は、消えてはいない。あのときの痛い記憶は、今も胸の奥に突き刺さっている。彼女ももちろん、僕を振ったことを忘れてはいない。

 でもこれからは、僕と芽吹さんは、家庭教師と教え子。

 そんな新しい関係の第一歩を、踏み出そうとしているんだ。

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