僕を振った教え子が、1週間ごとにデレてくるラブコメ 1
8月・2 僕が家庭教師になった日 ②
家庭教師契約の面談をする日は、朝から曇り空が広がっていた。
『一番合格ゼミナール』は、三〇年以上前にこの地域で設立された塾だ。
最初は小さな個人経営の学習塾だったが、少しずつ規模を拡大。テレビや出版物での広告展開により知名度を上げ、今では全国に展開する大手学習塾となっていた。
駅前大通りにある一〇階建てのビルが、その本部だ。
僕が通っていた、中学・高校受験コースの塾舎より大きく、事務所の他にも、複数のフロアに渡って大学受験コースの講義室が設置されている。
普段の塾の授業は夜からだけど、今は夏休み。玄関前のロビーでは昼間から、夏期講習を受講する大勢の高校生たちが行き来している。
ロビーの奥にある受付で来訪目的を伝え、エレベーターでビルの二階へ上がった。
廊下を進むと、ブースで区切られた小部屋が並んでいた。スマホのアプリを開いて、予約してある面談ルームの部屋番号を確認する。
部屋の前に着くと、扉の曇りガラスの奥に人影が見えた。依頼主が先に来ているようだ。
いくらやる気の出ない日々だからって、最初から暗い顔を見せちゃいけない。扉を開けながら、精一杯の笑顔を相手に向ける。
「
その瞬間、僕の笑顔は固まっていた。
丸テーブルの席に座っている面談相手――彼女は、まっすぐに僕を見返した。
大きな、天球儀のような瞳。
肩より先まで伸ばした、柔らかそうな髪。
夏にふさわしい、さわやかなセーラー服。
「
「お久しぶりです、若葉野さん」
凜としつつ可愛らしいほほ笑みを浮かべて、芽吹ひなたは言った。
半年ぶりに会う芽吹さんは以前よりも大人っぽく、より美しく感じられる。
「久しぶり、だね。家庭教師の依頼をしたのって、もしかして芽吹さん?」
「はい。アプリで若葉野さんの名前を見つけて、家庭教師のアルバイトをしていると知ったものですから。アプリでは名乗りづらくて、黙ってしまいました」
「塾に通っているのに、家庭教師もつけるってこと?」
「あ、いえ、その……塾は、もう通ってないんです」
芽吹さんが塾を辞めた?
彼女は今、高校受験の一番大切な時期だ。どうしてこんなときに?
そういえば『お金がない』と言っていた。金銭的な事情で通えなくなったのだろうか。
理由を知りたいけど、家庭のプライベートな問題だと聞きにくい。
「塾の代わりに家庭教師を雇って勉強したい、ということかな。家庭教師も結構お金がかかると思うけど。マンツーマンの指導だから、下手したら塾代より高額じゃないかな?」
「そうなんです……。アプリで家庭教師の先生を検索してみたんですけど、優秀な大学に通ってる先生は皆さん、思った以上に授業料が高いんです。それに、そういった先生は、予約すら取るのが難しいですし……」
「二学期になると受験勉強も本格化するからね」
「希望条件をゆるめれば、授業料が安くて予約の空いてる先生もいますけど、教師としての腕を信頼できるのか判断できなくて」
いくら勉強しても、講師の腕が悪ければ逆に成績を落とすこともありえる。ましてや家庭教師となれば、一対一の個別指導。生徒に合わせた指導ができるか、相性も重要になる。
「やっぱり無理かなと思って、諦め半分の気持ちで、無条件で検索したんです。そうしたら若葉野さんの名前を見つけて。提示されていた授業料なら払えそうだったんです」
「僕の授業料が低いのは、実績がないからだよ。安いぶん、家庭教師としての技能も保証できないんだ」
「でもわたし、昔のことを思い出したんです。去年、若葉野さんはわたしの成績を引き上げてくれました。だから今回ももしかしたら、と。他に頼めそうな人もいませんし……」
確かに僕は以前、芽吹さんの勉強を見ていた。その時期、彼女の成績は順調だった。
それでも僕は悩んだ。てっきり小学生相手の、中学受験指導のつもりでいたんだ。
「僕はまだ高校一年生だ。さすがに高校受験の指導は無理だよ」
「でも
「自分で合格するのと人を合格させるのとでは違う。もちろん芽吹さんは優秀だから、合格できると思うよ。けど、それならなおさら、僕が役立てることはない」
「そういうのは、わたしの今の成績を見てから言ってください……」
「もしかして、成績が落ちてる?」
「…………」
彼女は答えなかったが、そのとおりのようだ。
基本的に頭のいい人だから、中学三年生の授業についていけないとは考えにくいけど……確かに以前の彼女の勉強を見ていて、学習方法がやや不器用な印象はあった。
芽吹さんは頭の回転が速い。直感的に物事を理解できるタイプだけど、それがかえって物事を系統立てて学習することを難しくさせている。
だからその苦手な部分さえサポートしてあげれば、彼女の真価を発揮できるのだけど。
僕はしばらく考えて、首を横に振った。
「やっぱり、僕には芽吹さんの家庭教師はできない」
「どうしてですか!?」
「僕は卒業前に芽吹さんに告白して、断られたんだ。それは終わった話だし、もう気にしていない。でも過去にそんなことがあった以上、家庭教師にはふさわしくないと思うんだ」
終わった話、というのは少し嘘かもしれない。僕は今もあのときの失恋を引きずっている。
「告白のことは覚えています。けれど、わたしの気持ちはお伝えしてありますし」
「芽吹さんの気持ちは理解してる。ただ、これからどんな態度で接すればいいか、迷ってしまいそうなんだ」
「わたしは……若葉野さんが勉強を見てくれたときのように接してもらえれば、それでいいんです。わたしだって別に、告白されたことを怒っていませんから」
「あともう一つ。僕も今、結構成績が落ちていてさ。自分の勉強もうまくいってないのに、家庭教師をできる余裕などないんだ」
芽吹さんの力になれるのなら、助けてあげたいと思う。
でも今の僕には、そんな自信は持てそうにない。
「……わかりました。今日はお呼びしてすみません。せっかくの夏休みなのに」
「ううん。久しぶりに芽吹さんの顔が見られてよかったよ」
「わたしも若葉野さんに会えて嬉しかったです。せっかく時乃崎学園に入れたんですから、ちゃんと勉強しないともったいないですよ」
「そうだね。僕も気合いを入れ直すから、芽吹さんも受験がんばって」
面談が終わり、僕たちは席を立った。
ブースの外に出て、扉の横にある電子ロックのパネルから使用終了の手続きをする。
……のだけど、初めての利用なものだから少し手間取ってしまった。
「それでは失礼します。若葉野さん、お元気で」
芽吹さんは会釈をして、一足先に歩いていく。
手続きを済ませてエレベーターの前についたとき、彼女の姿は見当たらなかった。
これでもう、芽吹さんと顔を合わせることもないのだろう。ホッと安堵する気持ちと、どこか寂しい気持ちが入り交じりながら、僕はエレベーターが到着するのを待った。
エレベーターを降りてロビーに戻った僕は、これ以上用事もなく、出口に向かって歩いた。
「若葉野!」
唐突に男性の声に呼ばれて振り向くと、ロビーの自販機の近くに三人の男子がいた。そのうちの一人に見覚えがあった。
中学校時代、同じ講義室で授業を受けていた塾生だ。塾生の中でも成績のいい一人で、進学後も大学受験コースに通い、難関大学を目指すのだと言っていた。
「おまえ、塾を辞めたんじゃないの? こんなとこで何やってんだ?」
「ちょっと用事があって来ただけだよ」
隣にいた別の男子が、彼に聞いた。
「誰? 知り合い?」
「知り合いってほどでもねえよ。珍しいやつがいると思ってな」
特に用件もなさそうなので、僕は軽く手を振って歩き出す。
数歩進んだところで、背後から彼らの噂話が聞こえて足を止めた。
「知ってるか? 時乃崎のやつから聞いたんだけどよ、あいつ成績が落ちてるらしいぞ。勉強についていけなくなって、塾から逃げたんだな」
「あーあ」
哀れみと嘲笑の混じった声が聞こえる。
……なんと言われてもしかたない。僕には、聞こえないふりをして通り過ぎるしかない。
再び歩き出そうとしたとき、別方向からの視線に気づいた。
横目で見ると、柱の陰に芽吹さんがいて、こっちに目を向けている。
とたんに恥ずかしくなった。彼女の前に惨めな姿をさらけ出しているように思えた。
こみ上げるくやしさに突き動かされ、僕は思わず三人組の男子へ詰め寄った。
「逃げたんじゃない! 迷ってるだけだ!」
「あ、ああ?」
「塾に通って毎日必死に勉強して、それがなんの役に立つんだ!? いい高校? いい大学? そんなとこに合格して、何を得たいんだ? 手に入るものなんて何もない! ただの自己満足じゃないか! なんの意義もないのに勉強し続けることを、やめただけだ!」
つい大声になってしまったらしい。周囲の生徒たちが、何ごとかとこっちを見ている。
三人組は「なんだこいつは」という顔をあからさまに浮かべ、僕から離れていく。
「あのなあ、『勉強する意義』とかそーいうガチの中二病はさ、中学生のうちに卒業しとけ」
クスクスと忍び笑いを漏らしながら三人は遠くへ行ってしまう。
芽吹さんがいた場所に目を向けると、彼女の姿はもう見当たらない。
惨めな気分で外へ出ると、冷たい心に追い打ちをかけるように雨が降り始めていた。