あんたで日常を彩りたい
【第一幕】 『かくして』(2)
「私も直接会ったことがないんだよ、不登校の生徒––––
思わず口籠ってしまった。
そんなことあり得るの?
「……会ったことがないって。担任教師じゃなかったっけ?」
「なにせ特別な子だから。事前面談なんかにも関与してねえし」
「ここにはそもそも特別な生徒しか集まってないでしょ?」
「そういうんじゃなくてな。レベルが違うっつうか」
すこし間を置いてから、皐月さんはこほんと咳払いをして続けた。
「橘棗は特待生。つまり朱門塚女学院が直々に声をかけて入学してもらった生徒ってわけ」
「……………………」
「わかるよ、私も同じ顔になった。ビビるよな」
さきほど皐月さんが話していたとおり、朱門塚女学院は特別な場所だ。芸術や芸能の分野に特化した特殊なカリキュラムを確立している学校法人で、多数の芸術家や芸能人を輩出してきた、国内有数のクリエイター養成学校である。
そんな朱門塚女学院が、直々にオファー?
「橘棗を朱門塚に招いたのは学長なんだわ。学生寮への入寮手続も特別に手配されてる。めっちゃ分かりやすく言えばVIP扱いだな。上位レイヤーで丁重に扱われて、新入生として朱門塚女学院にやってきた天才中の天才ってわけ」
込み入った大人の話はわからないけれど、少なくとも異常事態だということはわかる。
朱門塚女学院は限られた特別な人間しか入学を許可されない。聳え立つヒエラルキーの頂点に居を据える、閉ざされた乙女の花園なのだ。
どういう人材なのだろう。想像すらできない。
「……そんなに優秀なら、申請書にかかわらず特別扱いすればいいのに」
「だよなー。そうなんだよなー。でも悲しいかな、これが社会人の辛いところでさぁ。入学までは特別待遇、でも入学してしまえばただの生徒。評価軸は他の生徒と同じ。いや、評価軸を一定にすることに意味があるわけ。あたしの身にもなってみろよ、いきなり特別待遇の子の面倒を押し付けられたようなもんだし。貰い事故みたいなもんだろ」
「面倒ごとを
「夜風にも社会の厳しさをお裾分けしようかなと思ってさ」
「お裾分けの意味、辞書で引いたことある? 他人から貰った品物や利益の一部などを、友人や知人に分け与えることだよ」
「相変わらず記憶力がいいなお前は」
「いまは関係ない」
聞いた限りではぼくにメリットがないし、コンテクストが破綻している。
「むしろ『道連れ』の間違いじゃないの?」
「世は情け、って言うじゃん?」
「ぼくが旅をしていないと文脈が成立しないでしょ……ほかにも文句はたくさんあるけどさ」
「おう、なんでも言えよ。聞き流してやるから」
「だと思ったからもうなにも言わない。このひとでなし」
ぼくは大きく嘆息しながら、疑問を述べた。
「学生寮は基本的に2人部屋だったはずでしょ。となれば、その人……橘さんにもルームメイトがいるはずじゃん。どうしてわざわざぼくを経由するのさ」
「辞めたんだよ」
「はい?」
「学校辞めたんだよ、橘棗のルームメイト。だから2人部屋にひとりで住んでる」
「まだ入学して2ヶ月しか経ってないのに?」
「そうだ。ま、朱門塚では珍しいことじゃねぇけどさ」
「……そっか」
「理由は聞かねえんだ?」
「べつに。学校に通う理由も、辞める理由も人それぞれでしょ、もっとも––––」
すこしだけ間を置いて、ぼくは続けた。
「––––少なくともぼくは、望んで朱門塚に入学したわけじゃないけれど」
こちらの言葉に、皐月さんは少しだけ眉を顰めるような仕草を見せたが、すぐに元の語調に戻る。
「それなー。つっても、宗家が決めたことなんだから、私にはどうすることもできねえわ」
「どうにかしてほしいわけではないし、どうにかなるとも思ってないけどさ」
ぼくは溜め息混じりに主張した。そもそもぼくが述べたいのは、花菱家の妙な因習に対する不満ではなく、皐月さんの行動に対する指摘なのである。
「だからって、ぼくを無理やり学級委員長に指名して小間使いにするのは職権濫用でしょ」
「わかる。ひでー話だよな」
「あなたに言ってるんですけど!?」
「へー。意外だなぁ」
「心がこもってないにも程がある!」
こちらの主張を軽く受け流しながら、皐月さんは脇に置いていたファイルから一枚の紙切れを取り出す。ぜんぜん効いていない事実が不変の未来を見せつけてくる。
毒づいたところで結論は変わらない。すべてを受け入れるしかないのだ。
朱門塚の学生寮はフロアが学年ごとに分けられているので、橘さんの部屋も同じ階に存在するはず。直接尋ねて書類を渡せばいいだけの簡単なミッションだ。
「……ぼくはなにごともなく、穏やかに卒業したいだけなのに。どうしてこうなるの……」
「あっはっは。その見た目で平穏は無理があるだろ」
「ぼくが完璧な女子高生を演じているのは、ぼく自身がいちばんわかってるよ」
これ以上面談室に長居する必要もない。立ち上がり、出口へと向かう。
「よろしくな、朱門塚女学院1年生の花菱風音さん」
ぼくはため息混じりに「はいはい」と頷いて席を立つ。
去り際に、皐月さんがぽつりと漏らした。
「お前もさ……友達、できるといいな」
足を止めて振り返るが、皐月さんは「べつに?」とあさっての方を見る。
思わせぶりな態度を受けて、ぼくの心の中の悪戯心に火がついた。
「ところで、皐月さん。さっき、足を組み替えたときに見えたんだけれど」
「んあ? 見えたぁ? ……あーあ、見ちゃったか。やっぱり夜風も中身は年頃のおと––––」
「タイツ。内腿のところ伝線してるよ。ちょっと太ったんじゃない?」