あんたで日常を彩りたい

【第一幕】 『かくして』(3)


 そうしたやりとりの末、皐月さんから全速力で逃げた結果、学生寮の屋上で橘棗と出会って……そして盛大に衣服を汚されたわけなのだが、さらなる非常事態が発生していた。

 どうして橘さんまでぼくの部屋についてくるんだよ。


「ここ、わたくしの部屋なのですが……」

「状況から考えるとそうだね」

「状況から考えないと理解できませんか?」


 まるで自室にいるかのように寛ぎはじめた橘棗に向けて疑問を呈する。


「ご自身の部屋に戻られてはいかがでしょう」

「あたしが書いた申請書を誰が先生に届けるの?」


 ここでぼくは返す言葉が見つからず黙ってしまった。


「それに、あんたの身体を汚したのはあたしだから、なにかお詫びがしたいし」

「気にしないでください。いえ、気にしないでほしいのは本当ですが、別の方法で誠意を見せてください」

「誠意ってどんな形してる? あたしにも描けるかな?」

「会話にならないッ!」


 これが特別な学校の特待生か。別の生き物とコンタクトを取っているかのようだった。ぼくは絵の具が付着した服を脱ぎながら、ベッドの上にちょこんと座る彼女に言い放つ。


「わたくしはこれからシャワーを浴びます」

「浴びればいいじゃん」

「あえて指摘させていただきますが、部屋から出て行ってほしいです」

「このまま自分の部屋に戻ったら、たぶん申請書のこと忘れて液タブかキャンバス触っちゃうから。あとボールペン探すのめんどい。散らかってるし」


 開き直られてしまった。どういう理屈なんだよ。脳裏に浮かんだのは諦念だった。


「……あまり部屋のなかを物色しないでくださいね」

「さすがにそんな不躾なことはしないよ。それにしても広い部屋だね」

「感覚の問題では? 寮の部屋はすべて同じ間取りのはずですよ。ひとりで住んでいるぶん広く感じるのは納得ですが、それは橘さんも同じはずでは?」

「……ああ、それ。あたしは……うん、そうだね。そうかも?」


 とたんに口籠る橘さん。

 皐月さんからの情報によれば、彼女のルームメイトはすでに退学してしまっている。すこしばかり表情を曇らせている理由に関連しているのかもしれないが、詳しい事情を知らないぼくがなにを察せるでもないし、わざわざ探るつもりもない。


「では、おとなしく待っていてください」


 諦めるのには慣れている。肩を落としながら、ぼくはバスルームへと向かった。

 アンダーウェアを脱ぎ、続いてすっかり履き慣れてしまったスカートと下着を下ろす。一糸纏わぬ姿で浴室に入ると、姿見にありのままのぼくが映し出された。


 だいじょうぶ。どこからどう見ても可愛い女の子。今日も完璧に女子高生だ。

 幸い、石鹸で身体を洗うと絵の具は落ちていった。それほど心配してはいなかったけれど、万が一、色素が沈着してしまうとさすがに困るからね。


 ついでに髪も洗ってしまおう。伸ばしているぶん、乾かすのに時間がかかるけれど、身なりを清潔に保つのも重要。他人に見られる部位から違和感を消し去ることが秘訣である。

 シャンプーでしっかりと頭皮の汚れを落として、トリートメントを出そうとした瞬間、すこっ、すこっ、とディスペンサーが間抜けな音を立てた。


「……………………はぁ」


 思わずため息。コンディショナーが切れている。独立洗面台の収納棚にストックしてあったはずだ。ぼくは当然の帰結として、真っ裸のままバスルームの扉をガチャリと開けて――。


 橘さんと鉢合わせした。


「…………え?」

「あ?」


 目をしばたたかせて再確認する。

 ばっちりと目が合った。橘さんと鉢合わせしている。

 あられもない格好のまま。


「ああ、洗面台借りるね。もう借りてるけど。でも洗面所借りてもいい? って聞いてもどうせ断らないだろうから事後承諾でいいよね。というか洗面所ってどうやって返すんだろう。というかこの部屋って学校のものだから承認を取る相手は学校になるのか。めんどいな」


「……………………」


「どうしたの? なんか取りたいの? バスタオル? ああ、でもここあたしの部屋じゃないし、配置わかるわけないか」


「……………………」


「あと、本棚に置いてあったあれ、なんだっけ。伝統舞踊の教則本みたいなやつ。作画の参考になりそうだから勝手に読んでるけど、ダメだったら言っといて。もう読んじゃったけど」


 そして橘さんは、なにごともなかったかのように立ち去っていく。


「……………………」


 見られたよねえ?


「…………み、み」


 一気に顔が熱くなる。

 見られた。

 同年代の女性に、自分の裸を見られた!

 誰にも見せたことなかったのに!


「み……み……見たよねぇっ!?」


 ぼくが思わず声を荒らげる と、部屋の奥から「わぁ、びっくりした」とぜんぜんびっくりしてなさそうな反応があった。

 コンディショナーの詰め替えとか、すっぴんでも美少女とか、そんなのどうでもいい。

 ぼくはバスタオルを全身に巻きつけ、滴る雫を拭うまもなく生活空間に躍り出る。


「見た、よね……?」

「なにが?」


 なんて白々しいんだ。とぼける気か。なにごともなかったかのように押し通して、ほんとうになかったことにしようとしているのか。だとすれば沈黙こそが正解となるわけだけれど。


「ああ、性器のことか」

「生々しい表現しないで!」

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あんたで日常を彩りたい2の書影
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