あんたで日常を彩りたい
【第一幕】 『かくして』(5)
3
橘棗との攻防から数十分後。ぼくはふたたび教員室を訪れていた。
回収した申請書を見せると、皐月さんは開口一番に「マジか!」と飛び跳ねて喜び、ぼくの手から紙っぺらを引っ手繰る。
「おかげさまで、学長にガン詰めされる未来が消えたよ。助かったぜ」
「よくこれまでお説教を回避し続けながら教職生活を送ってたね」
「上層部からの『怒られ』が発生する気配を感じ取って、あらかじめ火元を絶っておくのも立派な社会人スキルなんだよ」
「皐月さん、社会に出てからそんなに時間経ってないでしょ」
「大学卒業後すぐに教職に就くのを『社会に出た』とカウントできるかは疑問だがな」
「返答に困る自虐を語らないで」
ぼくの苦言など露知らず、皐月さんは手にした申請書に目を走らせて内容を確認し、
「おおん?」
と、怪訝そうな表情を浮かべた。
「これ、マジで橘棗が書いたの?」
「なにか不備でもあった?」
橘さんがペンを走らせていた際、ぼくはその内容を注視していたわけではない。よって彼女がどんな内容で申請をしているのかは知らない。
しかし、皐月さんの反応から察するに、予想に反する要望が記載されていたのだろう。
「ふうん……まぁいいけどさ。大ホール使うんだなぁ。天才の考えることはわからねぇな」
朱門塚女学院の敷地には、生徒が自由に利用できるスタジオやアトリエがいたるところに設えられている。基本的に生徒が音楽や演劇、ダンス、舞踊などの練習に使われているのだが、これとは別に、発表用の演舞場や舞台なども存在する。
そうした設備のなかでもとりわけ大きなキャパシティを持つのが大ホールで、在校生が全員入ってもなお座席が余るほどの規模を持っている。入学式もここで行われた。
「ところで皐月さん、もうひとつ言わなきゃいけないことがある」
「うーん?」
ふむふむ、と書類に目を通す皐月さんに、ぼくは重大な申告をする。
「橘棗にバレた」
「なにが?」
「ぼくの性別が」
「……なにが?」
「だから、ぼくの性別が」
「……性別が?」
「この問答にこれ以上のバリエーションは無いよ。橘棗にぼくの性別がバレました」
ひと息に言い切ると、皐月さんは石像のように硬直した。
ちりちりと小さな燃焼音を響かせながら、タバコが短くなっていく。
やがて、灰がポロッと落下すると同時に、呼吸を整えてから。
「なんで?」
当然のごとく、疑問を投げかけてくる。
「ひと目で見抜かれた」
率直に答えると、皐月さんは目を眇める。
「嘘つけ」
「嘘をつく必要があると思う?」
「いやいや、笑い話じゃねえじゃん」
「ぼくが笑ってるように見える?」
「屁理屈はいいんだよ! えっ? なんで? 意味わかんねえんだけど!? 橘棗はお前のどこを見て男だって判別したんだよ! 声は……違うよなぁ。夜風、声変わりしてないし」
「したよ!」
地声が高いままなのは認めるが。喉仏が出ていないのは体質の問題である。
皐月さんは「はぁ……」と大きくため息をついて頭を抱える。
「にわかには信じられない話だよなぁ。マジかよ」
「このことは他言しないようにちゃんとお願いしてある。信頼できるかどうかはわからないけれど、言いふらすような真似をして彼女にメリットがあるとも思えない」
「つうか、橘棗は教室に来ねえからなぁ。ずっと部屋に篭ってるだろ」
「吹聴する相手がいない……という考えかたもあるとは思うよ。でも念のため、事実の隠蔽に協力してくれるならばそれに足るだけのお願いごとを聞く、っていう約束も取り付けた」
「して、その内容は?」
「橘さんの学校生活のサポート。今回みたいに、必要な提出物があればぼくが橘さんに仲介するし、そのほかに食事の準備とか、部屋の掃除とか……まあ、いろいろと」
「それ小間遣いじゃね?」
「家事は実家のお屋敷で毎日こなしていたから、別に苦じゃないけど……というか、立場を利用してぼくを御用聞きにしているのは皐月さんも同じだからね?」
「あーあー聞こえません」
「悪い大人だ!」
「つまりアレか。夜風は橘棗のサポートキャラになるってことか」
「橘さんはチュートリアルキャラって言ってたけど……違いはわからない」
「ふうん……なるほどなぁ」
そのまま自身の後頭部に両手を回して、皐月さんは中空を見上げながら呟いた。
「……やっぱ、入学時点ですでにクリエイターとして知名度持ってるバケモンは、ふつうの人間とは違う感覚器官でも持ってるのかねぇ」
「入学時点で? どういうこと?」
「あっ」
しまった、といった表情で口元に手をやる皐月さん。
「いや、なんでもない」
そのトーンでなんでもないわけないだろ。
直感が告げる。
ぼくはずいっと身を乗り出し、瞬時に瞳を潤ませて、上目遣いで皐月さんに問いかけた。
「詳しく教えて」
「顔が近ぇ! ……あー! もう。しゃあねえなぁ!」
がしがしと頭を掻きながら、投げやりな調子で皐月さんは続ける。
「『夏目』ってわかるか? サマーにアイで『夏目』。橘棗の筆名なんだわ」
夏目。
その瞬間、これまでに得た記憶が、ひとつなぎの映像のように脳内で結合した。
「だから、スケッチブックの絵に見覚えがあったんだ……」
点と点がつながると、膨大な記憶の間に線分が生まれていく。
「『夏目』は朱門塚女学院の特待生。彼女が円滑に学生生活を送り、秀作を学園に提供しながら他の生徒にインスピレーションを与え続けながら『卒業する』ことに、なによりも大きな意味を持つ特別な生徒だ……正直、めちゃくちゃ扱いが難しいんだよなぁ。ただ、どんな経緯があれ、夜風との間につながりができたのは幸運で……あれ、待てよ?」
皐月さんはタバコの紫煙を吐きながら、
「あれ……待てよ?」
ニヤリと口端を吊り上げながら呟く。
「好都合かもしれねえな」
不穏な表情に、ぼくは言葉を差し込むのを躊躇した。
どうせ、なにかとんでもないことを考えているに違いない。
そしておそらく、ぼくは……もたらされる事象を回避できないのだ。