あんたで日常を彩りたい

【第一幕】 『かくして』(6)


 顔も姿も表に出さない謎多き画家。数多くのファンを抱えながら、年齢も性別も不詳。

 SNSのアカウントに、コンスタントに作品を投稿し続ける人物––––それが『夏目』。


 あまりにも刺々しく、痛々しい風刺が特徴の作風で、社会に蔓延する痛みや辛さを独自の視点から鋭利に切り取る新進気鋭のクリエイターとして、いつしか世間に浸透した。


 代表作に『宿痾しゅくあ』という作品がある。

 大きな人力車の車輪。その中心に人間の苦悶に満ちた顔がいくつも描かれていて、その周囲にはばらばらになった手足が取り付けられている、グロテスクな絵画だ。

 車輪は大きなほむらを纏っており、今にもごろごろと転げ回りそうな雰囲気を醸している。

 なにより異質なのは、人力車の支木しもくを掴んで率いているのがスーツ姿のサラリーマンであること。梶棒の枠の中にギッシリと詰まったスーツ姿の人間たちが、コピー&ペーストのような無表情で車輪を動かしている。

 人力車が進む地面にはビジネス街。高層ビル群や線路などが、絡まったコードのように縦横無尽に巡っていて、蛇がのたくったような形状になっている。


 もともと数万のフォロワー数を持っていた『夏目』のSNSアカウントは、この1枚のイラストが大拡散されたことで世の中に知れ渡った。

 この他、手がけた作品は拡散されたり、バイラルメディアにまとめられたり、作品集というかたちで出版されたりと、さまざまな媒体で目にすることができる。

 ほかにも、インターネット上で活動する著名なアーティストのMVにイラストを提供していたりと、絵画に造詣の深くない人間でも名前だけは知っている芸術家だ。


 橘棗の邂逅から数日が経過して、とある日の放課後。

 ぼくはふたたび屋上を訪ねて、橘さんに話しかけていた。


「橘さんの絵を見たとき、どこか既視感を覚えた。どこで見たのかを明確に思い出せなくて考えないようにしていたんだけれど……」

「あたしは目に見えているものをそのまま写実的に描いているだけなんだけれど、他人からは新鮮なものとして映るみたいだね。たまに批評家じみた人たちがあたしの絵にいろんな解釈を付け加えることがあるけど、毎回『へえ、そんなふうに受け取るんだ』って思ってる」

「そんなにすごいクリエイターが、まさか同じ教室にいたなんて衝撃だった」

「教室にはいないけどね」


 たしかに……と納得するしかない。


「あたしも女子校に男の子が紛れているなんて思わなかったから、衝撃が対消滅したかな」

「対消滅って、中和されてゼロになるって意味ではないからね」

「へえ、いいこと聞いた。この絵のタイトルは『対消滅』にしよう」

「適当に喋りすぎでしょ!」


 会話にならない。


「あたしは真っ当な人間じゃないから、適当くらいがちょうどいいと思わない?」

「思わない? と聞かれて答えられるほど橘さんのことを深く知らないよ」

「いいね。その通りだと思う」

「そっちから話を振っておいて勝手に納得しないで」


 ぼくの言葉には反応せず、彼女はふたたびキャンバスに向かい合う。

 描きかけの絵に意味を持たせるために。

 しかし、橘棗は––––『夏目』は、きょとんとした表情で手を止める。


「さっき、すごいクリエイターって言った? あたしのこと」


 ぼくは端的に応じた。


「どう考えてもすごいでしょ。たくさんの人に知られているんだから」

「そっかぁ、あたしはすごいのか。そう見えるのか」


 漆黒の中空を見上げながら、彼女はぽつりとつぶやく。


「あたしからすれば、楽しく学生生活を送れる子たちのほうがすごいんだけどなぁ」


 そう口にしつつ筆を滑らせる。


「自分にできないことを他人がやってると『すごいなぁ』『才能あるんだな』って思うよね」

「橘さんも充分、周りにそう思わせてるだろ」

「そうなの? 周りに人がいないから知らなかった」

「返答しづらい……」


 こちらの反応に、彼女は調子を崩さずに答える。


「たくさんの人にとって、学校っていうのはすごく便利なシステムだと思うんだよ。どんなに性格が悪くても、どれだけ生い立ちが荒んでいても、一定の通過基準をクリアすれば学校には入れるでしょ。学校の下ではみんな平等。そのなかで人間関係のしがらみが出てくることもあるだろうけれど、そういった問題を包括した状態でみんなが学生として生活してる」


 ぴたりと筆が止まった。


「けれど、たくさんの人が当たり前のようにできることが、あたしにはできない」


 吐露するように言い捨てて、橘さんはふたたび手を動かし始める。


「ひとつ気になることがあって」

「なに?」

「『夏目』として知名度を上げたいま、わざわざ朱門塚女学院に入学した理由は?」

「うーん」


 彼女はキャンバス上の筆を止めずに答える。


「呼んでもらったからかな。中学生のころも学校行かずにずっと家で絵を描いてたからね。高校受験なんてぜんぜん考えていなかったけど、特待生として迎え入れますって誘われたら二つ返事でOKしちゃうよね」

「……それだけ?」

「それだけって?」

「橘さんは、学校がとても便利なシステムだと言ったよね。そして同時に、たくさんの人にとって当たり前にできることが自分にはできないとも言ったよね。それなのに、わざわざ学校に入るという選択をしたのか、理由がわからない」


 適材適所という言葉がある。

 彼女にとっては、ただ愚直に作品を公開し続ける場所––––インターネットこそが、もっとも生きやすい環境なのだと思う。現に、そこで活動しているわけだし。


「そんなことかぁ。単純な話だよ」


 こともなげに、彼女は続ける。

 まるで夜空に語りかけるように。



「高校生をやってみたかったから」

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