あんたで日常を彩りたい
【第一幕】 『かくして』(8)
「ちょっとだけ思うわけ。夜風が朱門塚に入れたのは怪我の功名かもしれねえってさァ」
「どうして?」
「お前、勉強できないじゃん」
「それはそうだよ。まともに小中学校に通っていないもの」
「あー、うん。そりゃそうなんだけどさ、なんつうか……弱ったなァ」
皐月さんはポリポリと頭を掻く。適切な言葉が見つからない、と言外に滲み出ているように思えた。訝しむぼくをよそに「いったん忘れてくれ」と意味深に会話を修正される。
「橘棗の話に戻るんだけどさァ。もともと、昔の朱門塚にもああいう子もいたんだわ。部屋を出られない子。教室に行けない子。2人部屋ってのは、そういう生徒への救済措置でもあるわけ。実際、わざわざ橘棗の部屋まで夜風が書類を届けにいったのも不必要な行為だったはずなんだよ。本来ならルームメイトが存在するはずだからなァ」
「ぼくもその点について突っ込んだはずだけど」
「橘棗から聞いたりした? あの子のルームメイトが学校辞めた理由」
「込み入った話ができるほどの人間関係は結んでない」
皐月さんは2本目のタバコを咥えながら、ぽつりとつぶやいた。
「『絶望したから』だってさァ。たまんねえよなァ」
「…………はい?」
「だから、絶望しちゃったんだってさ。ま、私が直接面談したわけじゃねえんだけど。橘って部屋でずっと絵を描いてるんだろ? 登校できないぶん、昼も夜も、有り余るエネルギーをすべて制作に突っ込んでる。作品がウェブに公開されればいろんな人から反応があるし、他にもレコード会社からパッケージイラストの案件を受けたり、出版社からイラスト受注したり、個展の誘いを受けたり、部屋で一生なにかしてるらしいぜ。又聞きだけどな」
「そういえば橘さん、今朝も専門用語っぽいワードを口にしていたような気がする……なにを話しているのかわからなかったけれど……」
「夜風が見たことも聞いたこともないってことは、少なからず私たちの日常生活に存在しない概念を取り扱ってなにかに取り組んでたってことだからな」
橘さん自身に対するぼくの感情は『変わった人だな』くらいなのだけれど、同時に『夏目』に対するリスペクトも同時に持ち合わせている。
だからこそ、不可解に思った。
橘さんの元ルームメイトは、なぜ朱門塚女学院を去ったのだろう?
「同室に『夏目』がいて……なにに絶望したんだろう」
「夜風には難しいかもしれねえけどさ。あるんだよ、青少年なりの葛藤ってやつが」
目を丸くさせてこちらを見やる皐月さん。
首を傾げるしかないぼくをよそに、皐月さんは淡々と説明を始める。
「他人と自分を比べちゃう子って、世の中にはたくさんいるんだよ。それこそ、大きな夢を持って朱門塚の門を叩いたのに、いざ入学してみりゃどうだ。すでに大成している人間が同じ部屋にいて、自分とはまったく行動規範で動いてる。『自分はこうなれない、こういう人間じゃないと成功できないんだ』って気持ちにもなるだろ」
「なるほど……?」
「あんまり腑に落ちてねえだろ……で、夜風」
皐月さんは突如として話題を転換し、深く紫煙を吐く。
「そもそも夜風、お前が寮にひとりで住まわせてもらってた理由はなんだっけ?」
「……花菱家の人間だから」
「具体的には『由緒正しい花菱宗家の跡取りだから』だよな。箱入り娘だから狭い部屋で共同生活を送ることに慣れていない、なんてでっち上げてはみたものの、いずれどこかで綻びは出てくるもんだ。反面、夜風の事情を知ってる人間がいるならルームメイトとして適役だろ」
「……ぼくにとって、橘さんが都合の良い生徒だということはある程度わかったけれど」
目を伏せて、問いかける。
「でも、橘さんにとってはどうなのかな」
「んなもん適役に決まってんだろ。お前学校辞められねえじゃん」
「……………………」
なるほど。
完全に足下を見られているわけだ。
「それに、橘棗の円滑な学生生活をサポートするってことは、夜風にとって必ずしも悪い話じゃないと思うぜ。プライベートの不自然さを消せるってのが一番デカいが、なにより優れたクリエイティブを間近で見られるってことは、それだけ学ぶ機会が増えるだろ。お前にとっての『学習』は『見ること』なんだからさ」
悔しいことに。
納得できてしまった。
主張を要約すると『花菱夜風と橘棗の利害は一致している』。
ならば……たとえこれが形だけの対応であっても、従うほかなかない。
「ひとつ聞いておきたいんだけれど。ぼくと橘さんが同じ部屋で暮らすことについて、男女の共同生活を意図的に作り上げた皐月さん自身はどう思うわけ?」
「問題ねえだろ、夜風はただの男じゃねえ。花菱の男だからな」
それは、つまり。
性別だとか、共同生活だとか、教師と生徒の関係だとか、そういった一切合切を考慮する前に……ほかの選択肢が存在しないという意味だ。
「ほんとうに嫌なのか?」
「当たり前でしょ。突然すぎるし、相手にも気を遣っちゃうし」
「でもさ、そもそもこんな状況に陥る前に、それなりの行動は取れたんじゃね?」
「それは……どういう意味?」
「どういう意味かなんて分かってんだろ?」
「………………………」
分かっている。
風音が実家を出て行ったとき、ぼくは素直に羨ましいと思った。
花菱家の因習に縛られて身動きがとれなくなっていたぼくにとって、風音はまさに『自由』の象徴だった。好きなものを好きと言い、それらを制約する実家に反発し、最終的にぼくを残して出て行った。
ぼくだって出ていこうと思えば出ていけたはずなのに、できなかった。
花菱家にいても意味がない――ぼくはただの紛い物でしかないとあのときに知ったはずなのに、それでも行き場がわからずに停滞していたのはぼく自身だ。
「ていうか頼むよ。あーだこーだ言ったけどさ、朱門塚って校則少ないぶん規則に敏感なんだよ。『夏目』に関してはイレギュラーってことで見逃してもらってるけど、あれってほぼ校長の独断だから現場にはそういう空気が浸透してなくてさァ。夜風ひとりに部屋をあてがうときもわりと頑張ったんだぜ。お前が部屋を移動してくれればマジでありがたいんだよ」
「……わかった。とりあえず橘さんに話してみる」
両手を合わせて感謝を述べる皐月さんに根負けして、ぼくは席を立った。