あんたで日常を彩りたい
【第一幕】 『かくして』(9)
6
扉の前にたどり着き、深呼吸を挟んでから、インターホンのボタンをぐっと押し込む。
なにも起こらない。鳴ったはずなんだけれど……もしかして壊れてるのかな。
機械が壊れている可能性もある。握り玉型の古いドアノブとアルミ製の扉をためしにノックしてみると、こん、こん、と軽い音が響いた。
想像の範疇ではあったけれど、まったく反応がない。
「橘さん、いませんか……?」
絶対にこんなシーンで使うべき言葉ではないけれど、やらない後悔よりもやる後悔だ。少なくとも今はそう思うことにした。もはや自己暗示の域である。
とはいえ、なおもノックに返事はなかった。
ダメでもともと、ドアノブを捻ってみたところ––––がちゃり、と音をたてて扉が開いた。
そんなことある?
立ち入るべきだろうか、引き返すべきだろうか。第三の選択肢は無い。前者を取る。扉の向こうに伸びていたのは狭い廊下。その奥に、居住空間へつながる中扉が見えた。
同時に、おそらく通路であるだろう空間にぎっしりとゴミが散乱しているのが目に入る。
汚いなぁ、という率直な感想をぐっと飲み込んだ。
屋上でキャンバスに食らいつく彼女の姿は、ぼくにとってはあまりにも幻想的で、ほんとうに同じ種族なのかすら疑問に思っていたけれど、とんでもない現実が待っていた。
生理的な嫌悪感すら覚える汚部屋だった。こんなところに女子高生が住んでいるのか。マナーとして内履き用のシューズを脱ぐが、あんまり素足を置きたい床ではない。まあ、勝手に住居に侵入しておきながらマナーを気にする必要性があるのかは知らないけど。
足の踏み場もない悲惨な光景。強盗にでも入られたのかと見紛うような散らかりよう。
なんとか足場を確保しながら、そろりそろりと廊下を進んだ。
それにしても暗い。おまけに寒かった。人工的な冷気が室内を包んでいる。湿度に支配された外気との寒暖差に背筋が震えた。人間の気配はない。しかし、ここまできて引き返すのも変な話だ。くるりと回れ右したい気持ちを抑えて先へと進む。
1Kの室内には、薄暗い蛍光灯だけが点っていた。
さまざまな色彩が混在する紙片に暖色の光が当てられている。
はじめに目に飛び込んできたのは––––膨大な数のスケッチブック。
床に散らばった紙片それぞれに無数の線が入っていて……その線分がいくつも集まって、かたちを成している。イラストとひと言で形容できる作品ではなかった。
そして、部屋の悲惨な状況と違わず、まるで山岳地帯のように散らかったシステムデスク。
その目の前に、大きなワーキングチェアに腰掛けて一心不乱にペンを走らせる人物がいた。
足音を立てないように近づいて確認する。
まぎれもなく、橘さんだった。
「……あの––––」
どう声掛けしたものかというシミュレーションが完全に吹き飛んだ状態で、なにから話すべきなのかは頭から抜け落ちていて、それでも本能的に彼女を呼ぶ。
すると、橘さんは痙攣したかのようにビクッ! と身体を震わせて、まるでバネ仕掛けの人形みたいに振り向いた……そして、まったく表情を変えないまま――。
「うわぁああぁぁああああぁあぁあぁあぁぁぁぁ––––––––––––––––ッ!?」