あんたで日常を彩りたい2

【第一幕】 『ひらいて』(4)

 そして、小町さんを見送ってから数日後。

 ぼくは猛暑に喘いでいた。

 はじめての経験である。


「暑い……」


 思わずひとり言が漏れる。都内の夏が異常に暑く感じるのは、ぼくが田舎育ちだからだろうか。アスファルトの上に陽炎がゆらめく炎天下の休日。学生寮への帰路を辿っていた。

 皐月さんとともに花菱家の演舞場に出向いていたのである。なんでも、近代演芸……ひらたく言えば『お笑い』の交流イベントが開催されていたのだ。以前はわざわざ花菱宗家の人間が関西から足を運んでいたのだけれど、ぼくが上京して以来、こうした役目を仰せつかうはめになっている。もともとは風音がつとめるはずだったので、ここでもぼくは身代わりだ。


 行きはよいよい、帰りはなんとやら……とはまさにこのことで、往路は皐月さんの所有する愛車に同乗させてもらったのだけれど、復路は皐月さんとは別に戻ることとなってしまったのである。


『この後もいろいろとやることがあるんだよ。挨拶回りとか。で、そういう大人のやりとりを夜風に任せるわけにはいかねぇからな。そもそも花菱の演舞場を仕切ってるのは「月」の分家だってのもあるし、お前の仕事はいったんここまでってことで解散』

『……それならわざわざぼくを呼ばなくても良いのに』

『私もくだらねぇと思うんだけどな。そうもいかねぇんだわ。花菱宗家の人間が来てるぞって各方面にきちんと見せるのが大事なわけ。宗家の代表が未成年だからってことでなんとか名目は保てる算段だから、ややこしい大人に見つかる前にサクッと帰っちまえ』

『……風音は、ちいさいころからこういうことをたくさんこなしてきたんだね』

『あいつはガキのころから大人とふつうに会話してたバケモンだから参考外。ああ、今日クソ暑いから気ィつけろよ』

『暑いから気をつけるってどういうこと……?』


 はじめは皐月さんの言葉の意味がわからなかったのだけれど、外を出歩いてみてわかった。

 これはダメだ。

 ちゃんと死ぬ。

 電車を乗り継いで、朱門塚女学院の最寄り駅から歩いているだけで瀕死状態である。

 なんとか学生寮にたどり着く。

 外から戻ってきたぼくを出迎えたのは、いつもと変わらない学生寮の部屋だった。


「寒いよぉ!」


 冷房の温度は20℃。

 寒暖差はおよそ15℃である。


「棗さん……せめて4℃……いや、2℃でいいから上げてって言ったのに……」

「あれ、帰ってたんだ。いつ?」

「ただいま、という言葉にすべて込めたつもりだったんだけど」

「そうなんだ」

「そうなんだよ……そして空調の温度をすこし上げてほしいんだけれど……」

「上げれば? あとで下げてもらうけど」


 棗さんはいつもどおりデスクに向かっていた。いつもの光景である。

 こんなに寒い部屋だというのに、棗さんはふだんどおり、肌の露出が多い衣服を身に纏っている。本人いわく、夏場は冷房で調節できるけれど、冬に暖房の温度を上げると集中力が散漫になるとのことで、室温は常にキープしているとのことである。思えば穂含祭の直前くらいからこれくらいの温度で生活していた気がする。

 当時のぼくは棗さんが起こした絵コンテをどのように演舞で再現するのかをイメージするために外に出ていることが多かったから気が付かなかった。


「棗さん……エアコンの温度変えてもいい? このままだと風邪ひきそう」

「いいよ。あとで戻すけど」


 聞かなかったことにしてリモコンを操作した。20℃。

 棗さんは制作に集中していると、その他のものごとをポロッと忘れるタイプなので、しれっとこのまま過ごせるかもしれない。


「ていうか汗かいてるならシャワー浴びればいいじゃん」

「また間違えて脱衣所に入ってこないでね」

「あたしのこと淫乱女だと思ってる?」

「少なくとも常識人ではないと思ってる」

「お互いさまじゃん」


 軽口を叩き合いながら、勧められるがままに浴室へ向かった。

 珍しいな。棗さんが私生活において、ぼくに対してなんらかの行動を提案してくることなんてなかったはずなのだけれど。

 汗を流して、着替えて、部屋に戻ると半裸の棗さんが待っていた。


「脱衣所に入るなとは言ったけど部屋で服を脱いでいいとも言ってないよ!」

「どうせあたしも入るからいいじゃん」

「初耳ですけど!?」


 洗濯機は学生寮の各階に共用のものが設置されている。部屋の中に溜まった洗濯物を抱えて往復する。棗さんはシャワーを浴びるとき着ていた服をその場に脱ぎ捨てるので、床にセミの抜け殻のようなものが残るのだ。しかも足元に無頓着なので、そのまま抜け殻を蹴って、服がベッドの下に潜り込んだりするのだ。それを回収するのはぼくの仕事である。

 そんなこんなで洗濯機の中に服をすべて放り込んで部屋に戻ったところ、棗さんはすでにシャワーを浴び終わっていて、部屋の温度は20℃に戻っていた。


「ねぇ夜風、ほかの子たちはこういう日にどんなことするんだろうね?」

「ふつうの女子高生がなにをしているのかをぼくに聞かれても……」

「それもそうだった」

「納得されるのも嫌だなぁ……」


 ぼくの返答をスルーして、棗さんはパソコンになにかを入力しはじめた。

 ややあって、納得したように呟く。


「プールかぁ」

「いきなりなに……?」

「だからプール。ほかの高校生はプール行くんだってさ」

「そうなんだ……イメージは……つかないなぁ。というかプール行ったことないし……」

「小学校のは?」

「家の事情で……」

「そういえばそうだった。というかあたしもプール入ったことないや」

「小学校のは」

「精神の事情で」

「冗談がキツい……」

「でも、高校生がプールに入ってる映画を見たことはあるよ」

「それ『高校生がプールに入る映画』ではないでしょ?」

「うーん」


 突然、唸り声を上げたかと思えば、棗さんは神妙な表情で続けた。


「だめだ。でっかい水たまりにしか見えない」


 やっぱりぼくたちにはこの部屋でいつもどおりの日常を送るのが似合っている。

 なぜなら、ぼくも棗さんと同意見だったから。

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